これは三十四歳のしがない会社員の俺が、ヒーローになる物語だ。
自分で言うのも何だが、俺は小さい頃から目立たない地味な奴だ。
中学の修学旅行のバス移動で、休憩のために寄ったパーキングで俺が乗車していないことを見逃されて置き去りにされた。高校の時、授業中に腹を下して教師にトイレに行く許可を求めたが、気付いてもらえなかったのでこっそりと授業を抜け出し、用を足して戻っても不在だったことに気付かれもしなかった。会社員になり、会議に最初から最後まで参加し、発言もしていたにも関わらず、議事録の参加者に名前が書かれず、あとでなぜ会議に参加しなかったのかと問い詰められた。
俺は目立たない地味な奴だ。それが災いしたのか、横断歩道を歩いて渡る俺に向かって、今まさに右折トラックが突っ込んで来ている。トラックの運転手は進行方向ばかり見ていて、俺のことなんか見ちゃいない。
迫りくるトラックの様子をスローモーションのように感じながら、これは助からないかな、と俺は他人事のように思った。
☆
布団の中で目が覚めた。
いつもの目覚まし時計が俺に起きろと騒ぎ立てる。俺は目覚まし時計を黙らせた。
いつもの俺の部屋、いつもの布団、いつもの朝だ。
俺は布団を出て、手洗いに向かう。鏡に映るのはいつもの俺だ。
いつものように食パンを牛乳で腹に流し込んで、俺は出掛ける支度をして家を出た。ここ数日続いている猛暑で、俺はすぐに汗ばむ。
会社に向かう途中の交差点で俺はトラックに撥ねられたはずだが、あれは夢だったのだろうか。夢とは思えない明瞭さだったのだが。
問題の交差点に来た。信号が変わるのを待つ。
青信号になったが、俺は横断歩道を渡るのを躊躇う。その瞬間、猛スピードの右折トラックが交差点を走り抜けて行った。
危うく死ぬところだ。心臓の動悸が治まらない。
今朝見たのは予知夢だったのだろうか。それとも俺は、同じ時間を繰り返しているのだろうか。
スマホで日付を確認する。しかし、変わらぬ毎日を過ごしていると、同じ日なのかどうかも分からない。
同じトラックと同じ場所で同じ時刻に遭遇することはあるだろうか。同じトラックだったかどうかも自信がない。
俺は時間を跳躍したのだろうか。
タイムスリップは体ごと別の時間に移動することで、タイムリープは意識だけが別の時間に移動することだと、何かで読んだ気がする。
トラックに撥ねられて時間跳躍したのだとしたら、トラックを回避した俺のループはもう終わりということか。つまり、この先のことは俺にはもう分からない。時間跳躍者だから何かができるわけでもない。せめて何日か前に戻ってくれれば、馬券なんかで一儲けのチャンスがあったのかも知れないのに。
いや、トラックを回避できただけでも儲けものだな。
妙な失望感を覚えつつ歩いていると、前方で高層マンションの外装工事をしており、そこを通りかかった老人の頭上に、鉄パイプが落ちてきた。
「危ない!!」
咄嗟のことで、俺はせいぜい一歩踏み出して、右掌を前に突き出すくらいしかできなかった。
その瞬間、強いビル風が吹き抜け、鉄パイプが歩道にぶつかるけたたましい音が鳴り響く。
突風に煽られてよろめいたことで、老人は鉄パイプの直撃を免れていた。
「大丈夫ですか?」
老人に駆け寄って安否を確認する。老人は幸いにも傷ひとつなかった。
鉄パイプがもし老人を直撃していたら、俺は目の前で人が命を落とすところを目撃してしまったかも知れない。動悸が治まらない。
外装工事の作業員が出てきて老人に平謝りする。あとは当事者に任せて、俺は会社に向かう。
数メートル先の路肩に駐車された車の横で、女性が何か狼狽えているのが見えた。女性は車内に向かって必死に声を掛けている。どうやら子供を閉じ込めてしまったらしい。ドアロックを解錠するように訴えているが、幼い子には通じていないようだ。
この猛暑では、車内の子が熱中症に陥るのは時間の問題だ。
「窓を割ります。いいですね?」
通り掛かりの人が車の窓ガラスを割ろうと試みる。しかし道具なしに窓ガラスを割るのは難しいようだ。窓ガラスを割れる石でもあればいいのだが、都会の道路には、そんな手頃な石など落ちていない。
俺は無意識に右掌を車に向かって突き出した。すると、車の窓ガラスが粉々に砕け散った。
車内に閉じ込められた子供は無事に救出された。
俺の右掌から気功のようなものが飛び出して、それで数メートル先の車の窓ガラスが割れたのだろうか。そんな漫画みたいなことが起こるだろうか。
川に差し掛かると、夏休みの小学生だろうか、三人の男児が発泡スチロールをガムテープで繋いだ粗末な手製のボートで水遊びをしているのが見えた。この川は小学生の背より深い部分もあったはずだが、ライフジャケットも着ていない。小学生は命知らずだな。
そう思っていたら、手製のボートが分解し、小学生は川に投げ出された。二人は発泡スチロールの破片に掴まって浮力を得ているが、一人は何も掴めずに溺れてしまった。
犬を散歩させていた女性が、手にしていたペットボトルの中身を捨て、空になったペットボトルに栓をして溺れている男児に向かって投げる。なるほど、これなら浮輪代わりになるはずだ。
しかし残念なことに、ペットボトルは男児の手の届かない距離に着水してしまった。
俺は、自分でも半信半疑ながら、右掌をペットボトルの方に突き出した。すると、川の流れの変わり目に差し掛かったペットボトルは、男児の手の届くところに流れ着いた。男児はペットボトルを掴み、わずかな浮力を得て冷静さを取り戻したのか、自力で岸に泳ぎ着いた。
会社近くの個人経営の弁当屋の前を通り掛かる。店頭にカウンターがあり、すぐ後ろが調理場になっている小ぢんまりとした店だ。
その調理場から悲鳴が聞こえた。
見ると、調理場から火の手が上がっている。しかし消火設備が動作していない。店員は狼狽えるばかりで、消火行動に移れていない。
俺は咄嗟に右掌を前方に突き出した。スプリンクラーが作動し、調理場の火災は鎮火したようだ。
消防が到着し、店員が状況を説明する。どうやら、炙り料理を作るためのバーナーの留め具が緩んでおり、ボンベから漏れたガスに引火して火災になったようだ。スプリンクラーの動作が遅れたものの、小火で収まったのが不幸中の幸いだな。
そろそろ俺の疑念は確信に変わりつつあった。
俺が時間跳躍した確信は持てないが、俺が右掌を前方に突き出すことで何かが起こるのは間違いないようだ。いや、そもそもこんなに連続して事故に遭遇するというのも、何かあるのではないだろうか。
そんなことを考えていたら背後から声を掛けられた。
「あなた、病院を抜け出して、こんなところで何をしているんですか!!」
振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
「病院?」
俺が問い返すと、女性は目を丸くして言った。
「あなた、昨日の轢き逃げ交通事故で病院に運ばれて、脳震盪の疑いで精密検査をすることになっていたんですよ。それなのに勝手に姿を消しちゃって」
何てことだ。じゃあ、俺がトラックに撥ねられたのは夢じゃないし、時間跳躍したわけでもないのか。
病院に連れ戻された俺は、精密検査を受けた。結果、体の方は奇跡的に無傷だが、軽微な急性硬膜下出血が認められた。医師が呆れたように言う。
「結果的には軽微だったからよかったものの、病院を抜け出して丸一日も経っているわけですから、命を落としていたかも知れないんですよ」
そう言われても、俺は病院を抜け出した記憶がないからな。俺がそう訴えると、医師は難しい顔をして言った。
「脳波には異常は見られませんし、今のところ脳の物理的なダメージは認められていません。硬膜下出血は症状も軽微なので、薬物療法による保存的治療をしますが、数日中に意識障害が進行するようなら手術します。あと、もし頭部にまた衝撃を受けるようなことがあれば、即刻手術しないと命を落とすと思ってください」
言われるまでもない。トラックに撥ねられるのは一度で十分だ。
そんなわけで俺は入院となったわけだが、硬膜下出血を治療したら、俺が右掌を突き出した時の現象も消えてしまうのではないだろうか。それはあまりにも捨てがたい損失のように思われる。
俺は今日起こったことを医師に話した。俺が右掌を前方に突き出すと、突風が吹いたり、窓ガラスが割れたりすると。
医師は一通り大笑いしてから言った。
「では、そこの窓ガラスを割ってみてください。ガラス代は請求しませんから」
半笑いの医師に対する怒りを飲み込みつつ、俺は右掌を窓ガラスに向かって突き出した。
窓ガラスは、割れなかった。
医師は表情を引き締め、医師の顔になって言った。
「意識の混濁で、そのようにあり得ない感覚に陥ったのでしょう。しばらくは慎重に様子見しましょう」
結局のところ、俺がどれだけ試しても、何も起こらなかった。病室の窓ガラスも、花瓶も、照明も、どれも割れることはなかった。
失望感に苛まれながら数日が過ぎ、病院を退院して帰路に着く。
予定外の治療費で財布の中が心許ないので銀行に寄った。俺のあとに銃を持った覆面男も来て、窓口に並ぶ俺を無視して行員に現金を要求する。
奴が持っているのが本物の銃なのか改造モデルガンなのかは分からない。ただ、発射された弾丸が誰かの体を貫き通すのなら、本物かどうかは大した問題じゃない。
こんな緊迫した場面なのに、俺は妙に落ち着いている。
やれやれ。俺は右掌を奴の持つ銃に向けて突き出した。その瞬間、奴の銃が爆発した。
行員と客の悲鳴の中、俺は奴を確認する。銃が爆発したことにより、かなりの重傷を負ったようだ。痛みに耐え切れずにうずくまっている。こいつにはもう銀行強盗を遂行する能力はないだろう。
俺はそっと銀行をあとにした。お金はコンビニで下ろそう。
☆
病院を退院してから一週間が過ぎた。
俺を轢き逃げしたトラックは事故から三日目に捕まった。何かにぶつかった気はするものの、人だとは思わなかったらしい。
銀行強盗の件は、改造モデルガンが暴発して犯人が自爆したと報道された。謎のヒーローについて触れるマスコミはなかった。
この一週間の間に、俺の目の前で多くの命が助かった。だが、俺が何かしたと主張したところで、ただの偶然としか思われないだろう。承認要求を満たすために変なことを言っている変人と思われるのが落ちだ。
理解した。
俺はたまたまそこに居合わせて、たまたま妙なポーズを取っただけだ。
どうやら俺は、交通事故をきっかけに、誰かの命の危険に頻繁に遭遇するようになったらしい。そして、俺が右掌を突き出すことで、タイミングよく何かが起こって誰かが助かるのだ。
俺は誰に知られることもないヒーローだ。
誰に名乗ることもないヒーローネームも決めた。
タイミングよくパーを出す。それが俺だ。
タイムリー・パー。