08
石造りの廊下を満たしてゆく、氷のように冷たい足音。決して乱れることなく、一歩一歩が清冽なほど正確に刻まれ、そこにはいっそ洗練された気品さえ漂っている。けれども、その裏側に潜んだ、全てを圧し潰してしまいそうなほどの峻烈な響き。
その足音は近づくにつれ、薄暗い室内に澱む埃臭い空気をきりきりと締め上げてゆく。まるで目に見えない手に喉を鷲掴みにされ、ゆっくりと、けれど明らかな殺意をもって、少しずつ指先を喰い込ませてゆくような圧迫感。
エドワードが苛立たしげに舌打ち、シェリルの髪を掴むベアトリスの手に力がこもる。この石造りの箱の中に、無論逃げ場など存在しない。出入り口はひとつで、それは冷徹なほど頑強な鉄格子に嵌め殺された、重厚な扉のみ。
そのすぐ外側で、やがて足音が、ぴたりと止まった。――刹那、エドワードとベアトリスが息を呑む。
「――随分と愉しそうだな」
扉の向こうから聞こえてきたのは、低く落ち着いた、凛として涼やかな男の声だった。どこか愉しげで飄々とした響きを含みながら、しかしその実、背筋に震えが走るような嘲笑と剥き出しの刃が透けて見える――それは、鼓膜を冷たく突き刺す、あまりに残酷で凍てついた声だった。
「お前達の下品な嗤い声が、外まで漏れ聞こえていたぞ」
まるで救いようのない愚かさを憐れむかのような、それでいて、底知れぬ侮蔑をありありと滲ませた声でそう言い捨てると、彼は冷淡に、低くせせら嗤った。その吐息のような嗤いだけで、室内の空気は一瞬にして凍てつき、剥き出しの肌を鋭利な刃でなぞられるような戦慄が走る。呼吸することさえ拒むような、泥濘のように重たい沈黙。
その中で、しかしシェリルは、そんなはずはない、と思う。恐らくはこの場にいる誰もが分かっているはずだ、とも。
この離宮――特に、鉄格子の嵌められたこの牢獄――には、宮廷魔法師によって、特殊な防音魔法が施されている。どんなに泣き喚こうが助けを求めようが、決して外に漏れることのない強固な防音魔法が。
故にいくら叫んでも無駄だ、と、いつだったかエドワードが、そう言いながら嘲っていたのをシェリルは今でもよく憶えている。彼が知っているのなら、ベアトリスがそのことを知らないはずがない。
そして、この建物に足を踏み入れている時点で、扉の前の男もまた、建物全体を覆う“絶対的な遮断”を把握しているのは明白だった。結界を通れるのは、国王セオドアを含む、ごく一部の限られた者だけ。それ以外の者が結界を潜り抜けるには、セオドアに許しを乞うか、或いは術そのものを解く――力ずくで無効化する――しかないのだから。
エドワードたちの切羽詰まった気配からして、恐らくは後者なのだろう。頭の片隅で冷静にそう思いながら、シェリルは諦念のこもった息をか細く吐き出す。
わざわざ術を解いてまで此処へやって来た男の意図など、分かるはずもない。しかし、たとえ分かったところで、それが何だというのだろう。期待するだけ無駄だということは、これまでの地獄のような経験で、嫌というほど身に沁みている。
初めてセオドアが此処へやって来た時も、同じようなものだった。国王であればこの不条理から救い出してくれるかもしれない――そう縋るように期待したあの時の自分は、あまりにも愚かで馬鹿だったと、シェリルは思う。一度胸に浮かんだ淡い期待は、一縷の望みは、その後に襲い来る絶望を、より深くする。深く濃く、陰惨な闇に。
だからもう、同じ過ちは繰り返したくなかった。どうせ扉の向こうにいる彼もまた、エドワードやベアトリスや、そして国王セオドアと同類なのだろうから。
期待するだけ無駄だ。望むだけ無駄だ。救いを求めるだけ無駄だ。何もかもが無意味で、だからもう――。
胸の裡で弱々しく繰り返し、靄に呑まれゆくのに任せて意識を手放そうとした――その時。シェリルの耳にふと、異様な金属音が突き刺さった。“カチ”とも、“ガリ”ともつかない、硬質な何かが軋むような音。
それはまるで鐘の音のように、空っぽになった彼女の頭の芯まで響き渡り、そうして――刹那、鼓膜をつんざくような凄まじい爆音と共に、シェリルの意識を現世へと引き戻した。




