07
「顔くらいは、お前の好きに選ばせてあげても良いわ」
唇の端から、つうっと何か生暖かいものが滑り落ちてゆくのを感じる。血かもしれない、或いは、無様に溢れた涎かもかもしれないと思うけれど、それを判別する気力さえ、もう殆ど残ってはいなかった。
拭わなくては、と、頭の片隅でもうひとりの自分が囁いているけれど、意に反し、身体はぴくとも動かない。腕も指先も唇も。“動かす”という指令が、どこかでぷつりと途切れて消えてしまっているようだ、と思った。身体の全てが、重たい鉛へと成り果て、深い泥の底に沈んでいるような気がする。
ただただ、今は気怠い。抗うことも、拒絶することも、もう終わらせたかった。もはや痛みさえも、分厚い膜を隔てた向こう側の出来事のように遠い。シェリルは、焦点の合わない瞳で、ただ意味もなく、薄く靄のかかったように掠れた視界を眺めていた。意識の輪郭が、ゆっくりと、けれど確実にとろけてゆく。
「可愛い可愛い“金のなる木”の為ですもの」
そう言って、ベアトリスは喉の奥でくすくすと、蜜のように甘く、それでいて毒々しい嗤い声を漏らす。
――と、その時だった。こつん、と、硬質でありながらもやけに澄んだ音が、微かに鼓膜を叩いたのは。
歪な充足感に満ちた静寂を、不意に、けれども確かに切り裂いたその音は、遠い回廊の先から、少しずつ、少しずつ、こちらへと近付いてくる。まるで一歩進むごとに、何かを固く決意しているかのような、迷いのない力強さで。規律正しく、それでいて、冷徹な重みをもった響き。それは、泥の底に沈みかけていたシェリルの意識を、或いは記憶を、波紋のように小さく震えさせた。
無論、その足音はエドワードたちの耳にも届いたようで、それまで卑しく高らかに嗤っていたベアトリスの声が、ぴたりと止まる。
この離宮の存在を――内部で日々絶えず繰り返されている酸鼻な行いを――知る者はそう多くない。ましてや、屈強な兵士たちが立ち塞がる分厚い入り口を通り抜けられる者など、更に限られている。シェリルの知る限り、此処へ通じる禁忌の扉を開くことを許されているのは、エドワードとベアトリス、そして彼らの共犯である国王セオドアだけだ。
けれど――。次第に大きく、はっきりと輪郭を顕にしてゆく足音を、靄のかかったような意識の外側で聴きながら、シェリルはほんの僅か――殆ど動いていないに等しいほど微かに――眉根を寄せる。
エドワードもベアトリスも、今、此処にいる。国王セオドアは月に一度程度しか姿を見せないが、その忌まわしい一度は、昨日済んだばかりだ。
ならばいったい、あの足音は誰のものだというのだろう。もう何年も来たことのない世話役のメイドか、それとも見張り役の兵士か、或いは――。
「陛下かしら」
不審とも不安ともつかない、喉の奥がひきつったような声でベアトリスが問う。普段の傲慢な響きはなりを潜め、その声には隠しようのない動揺が、細い震えと混じり合っていた。
「……いや、違う」
ひんやりとした室内に、鋭い緊張の波が走る。落ち着きを繕ってはいても、エドワードの押し殺した声には、それまでの余裕を――まるで薄皮を剥ぐように――削り取られ、ただただ隠しようのない怯えと焦りだけが滲んでいる。
そんなエドワードの声に、彼は本能的に理解しているのかもしれない、と、シェリルは唇を弱く引き結びながら思う。こちらへ近付いてくる足音が、もしかしたら自分たちの手に負えないものであるかもしれない、と。




