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さよなら、私を搾取した伯爵家。王太子様が人工魔法石を作ったせいで、私の涙はもう一銭の価値もありません。  作者: 榛乃


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04

 諦める、ということを憶えたのは、いつの頃だっただろう。そう考え、その瞬間、頭の片隅を散り散りになった青い花弁が過ってゆく。


 殴られても、叩かれても、蹴られても、押し付けられても、時には刃物で傷付けられても。諦念さえあれば、身体を襲うどんな痛みも耐えられた。或いは意識の外へ追い出し、ほんのひとときでも忘れてしまうことも、出来た。


 けれど――。甲高いヒールの音が、微かな衣擦れの音とともに近づいてくるのを聞きながら、シェリルは僅かに目を伏せる。肉体的な苦痛は、疾うに慣れてしまったというのに。何をされても、やり過ごせるようになったというのに。


 けれど、心に突き刺さる冷たい痛みだけは、未だにどうすることも出来なかった。十年という月日を経た今でも尚。慣れることも、やり過ごすことも、忘れることも、なにひとつ。それだけは、刻みつけられた痛みの分だけ、消えることのない澱となって、心に分厚く積み重なっている。


「“泪花の器”は、子供へ遺伝するのでしょう?」


 虚ろに翳ったシェリルの眼前で、深いビリジアン色の布が揺れた。たっぷりと施された金の刺繍と、わやらかで上品な光沢を湛えた上質な絹の布地。

 それがドレスの裾であるとシェリルが理解するのと、彼女の乱れた髪を、生白い手が容赦なく鷲掴んだのは殆ど同時だった。


「器は、一人より二人の方が良いわ。今の供給量じゃ、とても足りないのよ」


 それに、と言葉を区切り、傷ひとつない華奢な手が、有無を言わさぬ強引さで、シェリルの上体を無理矢理引き起こす。


 刹那、剥き出しになった喉元が、絶望に震える小鳥のように頼りなく脈打ち、ヒュッ、と風を切るような微かな音を立てて引き攣った。うまく呼吸が出来ない息苦しさのせいか、それとも頭皮を焼く電流のような激痛のせいか。朧げだった視界は、火花を散らすように明滅を繰り返し、やがて端の方からすうっと、靄がさすように白く塗り潰されてゆく。


 悲鳴を上げる間など、無論なかった。“ない”と言うより、寧ろそれは、“許されなかった”と言った方が正しいのかもしれない、と、無慈悲に吊り上げられたまま、シェリルはぼんやりと――まるで他人事のように――考える。


 それくらい、何もかもが、もうどうでも良かった。このまま殺してくれれば良いのに、と思うほど。或いは、全ての元凶であるこの両目を抉り取ってくれれば良いのに、とも。


 命を惜しいとは、思わない。このまま死んだところでどうでも良い、と――そう思うのに。


 頭の片隅に、無邪気な笑顔が、真摯な赤い瞳が、やわらかな青い花がちらついて消えないのは、どうしてだろう。


「純粋な子供ほど、()()()()()があるもの」


 少しずつ靄の薄れてゆく視界に、濃い化粧の施された女の顔が、無遠慮に映り込む。くっきりとした睫毛、華やかに彩られた瞼、白粉を塗ったばかりのように滑らかな頬、ひときわ目をひく肉厚の赤い唇。


 見慣れたそのかんばせをぼんやりと見つめ返すシェリルの、焦点の定まらない白くぼやけた網膜に、女――ベアトリスの冷酷な嘲笑が、侮蔑の滲んだ琥珀色の瞳が、泥を塗りつけるような不快さで焼き付いてゆく。すぐ近くで放たれる芳醇な香水の薫りが、部屋に沈殿する埃や黴の臭いと混ざり合い、独特の生々しさで鼻腔を突く。


継母()として、可愛い継子(愛娘)に子供が出来るのは、とても嬉しいわ」


 貴女が“継母()”として“継子(我が子)”に接したことなど、一度でもあっただろうか――。


 喉元まで迫り上がった言葉を、しかしシェリルは薄く吸い込んだ空気と共に深く呑み下す。反論をしたところで無駄だと、これまでの経験で嫌と言うほど理解していた。どんな言葉も虚しく跳ね返るだけだ、と。或いは、それだけで済めばまだマシな方だ、とも。


「ねえ、貴方もそう思うでしょう?」


 そう言いながら、ベアトリスは愉快そうに背後へ目を向ける。その視線を無意識に辿ろうとして、しかしシェリルは、胸の裡で自嘲をこぼしながら、所々に罅の入った石床を見つめた。視界の端に否が応でも映り込む、丁寧に磨き上げられた革靴と、しっかりと糊の効いたチャコール色の裾。


「ああ、そうだな」


 部屋に響き渡る嗄れた低い声に、シェリルはそっと奥歯を噛み締める。なんて冷たい声だろう。血の繋がりのある我が子へ向けるものとはとても思えない、それどころか、人を人とすら思っていないかのような。

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