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「あ、あの……」
「駄目ですよ。何度仰られても、お仕えをやめるわけには参りませんから」
やさしく、けれども厳しさのこもった声でぴしゃりと言い切られ、シェリルはもう何度目になるか分からない苦笑を弱々しくこぼす。こちらの意図を瞬時に汲み取る察しの良さも、それをきっぱりと拒絶する意志の強さも。さすがは上級使用人、というべきなのだろうか。
“アニエス”と名乗った彼女は、イヴリスの指示で世話を任されたのだと言っていた。しかし、それは単なる言葉の綾に過ぎないのだろう、とシェリルは思う。イヴリスは、あくまで指示を伝達しただけに違いない、と。
そもそも彼自身、護衛に就くのは誰かからの――恐らくは彼よりも高い身分の者の――指示あってのことだ。アニエスのような高位の侍女をあてがったのも、その“誰か”からの指示でしかないのだろうことは明白だった。自分の頭上で、知らない“誰か”が、見えない糸を引いている。
――詳しいことは後で“あいつ”に訊いてくれ。
ブラシをドレッサーの端に置き、香油の詰められた小瓶へと伸ばされたアニエスの、細く滑らかな指先。それをじっと見つめながら、シェリルは胸の裡でそっと溜息をつく。目覚めてからというもの、何がなんだかさっぱり分からないこと続きだ。答えのない問いばかりが一方的に降り積もり、このままでは頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうだ、と思う。
「イヴリス様は――」
とにかく今は、話題を変えよう。ほんのりと甘い、けれどどこか薬草じみた清涼な香りを肺に吸い込みながら、シェリルはゆっくりとひとつ瞬く。話題を変えでもしないと、この窒息しそうなほどの困惑から意識を逸らすことは、とても出来そうにない。
「とても変わった方なのですね」
口にしてから、あまりに稚拙な言い回しだったかもしれないと、少し後悔する。もっと違う言い方は幾らでもあっただろうに。
けれど、今のシェリルには、彼を形容するのにそれ以上にしっくりくる言葉が他に思いつかなかった。恐らくは一級の魔法師なのだろう彼に対して、その言葉は失礼すぎるだろうけれど。
それでも、あの掴みどころのない飄々とした態度や、自信に満ち溢れた無邪気さを思い返すと、やはり“変わっている”という、どこか子供じみた言葉に着地してしまう。
とはいえ、やはり訂正をした方が良いだろうか――。
おろおろと視線を彷徨わせ、シェリルが言葉を探した、その瞬間だった。真昼の陽光にあたためられた静謐な室内に、弾けるような笑い声が響き渡った。
「――っ、ふふ、あはははっ!」
なんと鮮やかな笑顔だろう、と。そう見惚れてしまうほどの爛漫な笑みを、シェリルは鏡越しに、きょとんと見つめる。小瓶を握った色白の指先を、黒い布に包まれた華奢な両肩を小刻みに震わせたアニエスのその姿は、先程までの“完璧な侍女”とはまるで程遠い。
あまりに唐突な、それでいて全く想定外のその反応に、さっきまで必死に繰り返していた反省も、場違いな言葉を口にしたという後悔も、気づけばどこか遠くへ吹き飛んでいた。まるで重たい鎖から解き放たれたみたいに、心がふわりと軽くなる。
「失礼いたしました。つい……。ああ、でも本当に、シェリル様の仰る通りですわ」
一頻り笑い終えた後、彼女は目尻に薄っすらと滲んだ涙を、短く整えられた爪の先でそっと拭った。
「彼ほどの変わり者は、この国のどこを探してもいないでしょう」
そう言いながら、アニエスは丁寧な手つきで、シェリルの髪に香油を塗り込んでゆく。体温であたためられた香油で、一房一房を、やさしく包み込むように。
「ですが……あの方の立場を思えば、ああも捻くれてしまったのも、無理からぬことかと」
その声に滲んだ深い憂いに、シェリルははたと目を瞬かす。清冽なまでに磨かれた鏡に映る彼女の顔には、どこか悲しげな笑みが静かに浮かんでいた。愛嬌のあるオリーブ色の瞳は、シェリルの髪を見つめていながら、その実、どこか遠く――ここではない、どこか遠くの時間――を映しているようで。
僅かに細められた目が、切なく下がった眉が、彼女の裡に秘められた“想い”を表しているような気がして、シェリルは慌ててアニエスの顔から視線を背けた。見てはいけないものを見てしまった、と思う。鍵のかかった心の奥を、土足で、無遠慮に覗き込んでしまいそうになった、と。
「ヘーゼルダイン家といえば、名門の魔法師一族ですが……あの方はその中でも、群を抜いて特別なのです」
そこで言葉を区切り、アニエスは小さく息を吸った。まるで波立った自分の心を、深い場所へ沈めて隠すかのように。
「――“魔女モルガン”の再来と謂われるほどの天才ですから」




