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これだけは守りたい、と思った。何が何でも。これだけは絶対に失いたくはない、と――。
そう強く願うこと自体が随分と久しぶりのことだった、と、やさしく髪を梳かれながら、シェリルは懐かしく思う。“忘れていた”というよりも、わざと“見ない”ようにしていた感情。“気付かない”ようにしていた感情。諦念を覚えることで、かたく蓋をして、胸の奥底に仕舞い込んでいた感情。
「とても美しいプラチナブロンドですね」
過去の澱に沈みゆこうとするシェリルの意識を引き戻すかのように、背後に佇む侍女の、やわらかく澄んだ声がふわりと鼓膜に触れる。飾り気のない、だからこそ彼女の素直さとやさしさの感じられる、清涼でいて仄かな甘みを含んだ響き。
丁寧に磨き込まれた鏡越しに眼が合い、シェリルは曖昧に、そっと愛想笑いを浮かべた。侍女の言葉があまりに濁りなく、冬の朝に射し込む陽光のように、どこまでも透明な真っ直ぐさをしていたせいで。そこに一点の欺瞞も、儀礼的なお世辞も混じっていないことが、却ってシェリルを途方に暮れさせる。悪意には慣れていても、こうした無防備なまでの善意を突きつけられると、どう反応して良いのか、まるで分からない。
母・エレノアから譲り受けた、色素の薄いプラチナブロンド。嘗て生きていた頃のエレノアのそれは、指を通す度に光が滴るほど艶やかで、見る者を陶酔させるほどの、無垢な美しさがあった。まるで極上の絹糸のようだ、と、誰もが惜しみない賛辞を送ってやまないほど。そんな母と同じ色をした自身の髪が、まだ幼かったシェリルにとって、何よりもの自慢であり、誇りであった。
けれど――。鏡に映る、薄金色の髪の毛を見つめながら、シェリルは胸の裡でひっそりと自嘲をこぼす。
長い間手入れをされることのなかったそれは、光を弾く力を疾うに失い、指を通せばはらりと折れてしまいそうなほど脆く、芯まですっかり乾ききっている。枝毛や切れ毛がひどく目立つそこに、嘗ての母のような、滴るような艷やかさなど、もはやどこにも見当たらない。生命を僅かも感じさせないほど荒れ果てた、索漠としたただの残骸。ただ色が同じだけの、似て似つかぬ偽物。
そんな傷みきった髪が“美しい”など、あるはずもなかった。欠片さえ、少しも。
それでも彼女は、まるで繊細な硝子細工でも扱うかのようなやさしい手つきで、ゆっくりと髪を梳かしてゆく。花や草の細緻な彫り込みが施された、明らかに高価なものとひと目で分かる、シルバープレートのヘアブラシで。
そもそも、何故――。熱心に髪の手入れをする侍女の、すっきりとした瓜実顔から逃げるように視線を逸し、シェリルはドレッサーの上に所狭しと並べられた品々――毛の種類が異なるブラシや、髪を保湿する為の香油――を、半ば呆然と見下ろす。そもそも何故、自分はこんなふうに髪を梳かれているのだろう、と思いながら。
用事を済ませてくる、と言い残して部屋を出ていったイヴリスと入れ替わるようにやって来たのは、シェリルとそう歳頃の変わらない、妙齢の侍女だった。ベルベッドのリボンでひとつに結い上げられた茶色の長い髪の毛。角度によってほんの少し色味が変わるように見えるオリーブ色の丸っこい瞳。上級使用人だけに許された、品の良いモノクロのドレス。
――本日より、シェリル様の身の回りのお世話をさせていただきます。
そう告げながら礼儀正しく頭を下げた彼女に、シェリルがひどく戸惑ったのは言うまでもない。王宮に仕える高位の侍女といえば、本来ならば王族の身辺を預かるのが常だ。そのうえ彼女たちの多くは、王族に仕えるに相応しい家格を持つ貴族家の令嬢でもある。
たとえ伯爵家の娘という肩書きがあっても、シェリル自身の身分は、彼女たちにかしずかれるほど高いものでは決してない。
それだけでも困惑を覚えるには十分すぎるというのに、ましてや、“伯爵家の娘”でありながら、何年ものあいだ“人”として扱われることのなかった彼女が、王族並みの厚遇に狼狽するのは、あまりに当然のことだった。自分がどれほど欠落した存在か、そんなことはシェリル自身が、他の誰よりも一番よく知っている。だからこそ、着替えを手伝われることも、髪を梳かれることも、なにひとつとして理解出来るはずがなかった。




