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さよなら、私を搾取した伯爵家。王太子様が人工魔法石を作ったせいで、私の涙はもう一銭の価値もありません。  作者: 榛乃


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 “あいつ”と言われても――。

 そう内心呟きながら、シェリルは戸惑いを含んだ眼差しで、イヴリスの黄金色をした瞳を見つめる。“あいつ”に訊け、と、そう言われても、今の状況すら呑み込めずにいる彼女に、“あいつ”というのが誰であるかを推し量る術など、あるはずもない。


 ただ、彼のどこか投げやりな――信頼の証のような、はたまた、無防備な気安さに満ちた――口ぶりからして、それがエドワードやベアトリス、或いは国王セオドアでないことだけは、なんとなく理解できた。根拠なんて、どこにもない。なにひとつ、これっぽっちも。“あいつ”がエドワードたちではないというだけで、イヴリスが彼らの“仲間”でないという確証すらないというのに。


 けれど、何故か不思議と、彼は“あの人たち”とは違うのだと、そう感じられた。言葉でも眼差しでも声音でもなく。たとえるなら、肌に触れる空気のようなもので。理屈を超えた何かが、彼は違う、と、そう静かに告げているような気がした。


 無論、彼にそんな意図があるはずもないし、それが真実だという保証もないけれど。それでも、彼の纏う気配はひどく自然に肌に馴染み、どこか遠い記憶を揺さぶるような心地を与えてくれる。


 どこかで会ったことがあるのだろうか――。ふと頭を擡げた疑問を、しかしシェリルはすぐに否定する。エレノアが生きていた頃ですら、同じ年代の子どもと遊ぶことは殆どなかった彼女に、イヴリスのような“知り合い”がいるはずもなかった。母の死後、十年にも渡って幽閉されていれば、尚の事。社交界にだって、一度も顔を出したことはない。


 唯一の例外といえば、あの赤い瞳の少年だけれど、イヴリスと彼では少しも面立ちが似ていない。何より特徴的な瞳の色が全く違う。


 どうしてなこんなことに――。意識を手放す前に見た靴先、綺麗に整えられた王宮の一室、誰であるのかちっとも分からない“あいつ”。どうしてこんなことに――と、もう一度胸の裡でこぼしながら、シェリルはゆっくりとイヴリスから視線を離し、深い緑色のビロードに覆われた天蓋を見つめる。


 暗闇はどこまでも続くのだと、そう思っていたのに。搾取され続ける日々も、そのために繰り返される地獄も、死ぬことでしか終わらないのだと、そう思っていた。少しも疑いすらしていなかった。


 それなのに、まさかこんなにも唐突に、ぷつりと、何の前触れもなく途切れる時が来るだなんて――。


 清潔なベッドも、やさしい花の香も、窓から差し込む穏やかな陽光も、“護衛”だという魔法師も。何もかもが“現実”のものとして傍らに在るのに。確かなものだと、感じることも出来るのに。


 けれど、今こうして此処にいる状況を、そんな自分を、シェリルは未だに信じることが出来なかった。眠気は疾うに晴れ、意識もはっきりしているというのに。それでも、もしかしたら、まだ夢の続きを揺蕩っているのではないだろうか、と、そう思えてならなかった。寧ろ、そう言われた方が、よほど自然に受け入れられるくらいには、何もかもに現実味を感じられなかった。今この時、この瞬間を“生きている”という事実にさえ。


 どうしてこんなことになったのだろう。これからどうなってしまうのだろう。

 まるで自分だけが置いてけぼりだ、と、ぼんやりとそんなことを考えながら、シェリルは毛布の下でそっと右手を動かし、胸元に指先を這わせた。いつもそこに隠し持っていた“拠り所”に、助けを、救いを求めて。指先で縋り付くように。


 しかし、指先が捉えたのは、人肌のぬくもりを吸ってあたためられたシルクの、滑らかな感触だけだった。そこに在るべきはずのささやかな膨らみも、しっかりとした硬さも、何処にもない。


 はっとして、シェリルは焦燥に急かされるまま、もどかしい手つきで胸元を探った。もしかしたら服の隙間に落ちてしまったのかもしれない。或いは、胸元ではないどこかへ逸れてしまっているだけかもしれない。


 けれど、どれだけ探っても、そこに在るはずのものは、何処にもなかった。服の隙間にも、毛布の下にも。ない。何処にも。ない、ない、ない――。


 そうと知った瞬間、身体中から一気に血の気が引いていくのがわかった。心臓が、どくりどくりと、激しく鳴っている。まるで鼓膜の裏側で暴れ回っているみたいに。胸元を握り締めた右手が、何に縋ることも出来ずに、頼りなく震えている。


 焦り、不安、恐怖――。あらゆる感情が、逃れようのない勢いで胸の奥底からせり上がってくる。荒れ狂うそれらはぐちゃぐちゃに混ざり合い、渾然一体となって、もはや何が何であるのか判別すらつかない。


 けれど、だからこそより猛烈な大波となったそれは、容易にシェリルの思考を呑み込み、じわりじわりと首を締め付ける。そうされればされるほど、“喪失”は一層色濃くなってゆく。鮮明さが増してゆけばゆくほどに、痛くて、痛くて、たまらなかった。まるで氷で出来た刃に、深く、強く貫かれたみたいに。痛くて、息苦しくて、たまらない。


 あんなに大切にしていたのに。唯一の、たったひとつの宝物だったのに。絶対に失くさないと、これだけは絶対に守り抜くと、そう誓ったはずなのに――。

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