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そのせいで、彼の顔があまりにも近い――鼻先がくっついてしまいそうなほど近い――ところにあると、シェリルが気付くのには、だいぶ間があった。見惚れていた、と言えば聞こえば良いけれど。それでも、エドワード以外の異性に、そんな間近まで迫られたことがなかったシェリルは、我に返った瞬間、肺の空気を全て奪われるような衝撃で息を呑んだ。
「なんだよ。んな化け物でも見たみてぇな目しやがって。べつに、取って喰ったりはしねぇぞ」
男はそう言って、呆れたとばかりに溜息をつきながら両肩を竦めた。身長は、エドワードや国王セオドアよりも随分と高い。その長躯を包むのは、濃紺の布地に控えめな刺繍の施された、大ぶりのゆったりとしたローブ。左の胸元には、この国――エテルノス王国――の紋章がしっかりと刻まれている。
「あ、あの……」
無造作に前髪を掻き揚げ、ベッド脇に置かれたビロード張りの椅子にどさりと腰掛けた男へ、シェリルは恐る恐る目を向ける。悪い人ではなさそう、というのは、何となく――恐らくは第六感のような、或いは動物的本能のような何かで――分かるのだけれど。それでも、彼がまともに話を聴いてくれる保証はどこにもなく、緊張のあまり心臓がどくりと大きく脈打った。
まだ目覚めて間もないというのに、色彩といい彼といい、あまりにも刺激が強すぎる。
「此処はいったい、何処なのでしょうか……?」
控えめな声で、なるべく相手を刺激しないよう注意を払いながら、おずおずとそう問いかけると、男は長い脚を組みながら、シェリルの双眸を真っ直ぐに見据えた。
「王宮の一室だ」
たった一言だけのその返答に、シェリルはこくりと息を呑む。王宮――王宮の、一室。つまりまだ此処は、あの忌まわしき牢獄と同じ場所にあり、そして今もなおその壁の中に閉じ込められているということだ。
そんなシェリルの、つんと張り詰めた緊張と恐怖を、些細な表情の変化から見て取ったのか、男は面倒臭そうに溜息をつく。精巧な彫り込みの施された肘掛けに頬杖をつく様は、気怠げではあるけれど、やけに優雅に、それでいて艶やかに見えるのはどうしてだろう。
「安心しろ。王宮の中とはいえ、ここは“あいつ”のテリトリー内だ。お前に害をなす下賤な奴らは、誰ひとり入り込めねえよ」
そう言って、男は頬杖をついた指先でとん、と白い頬を軽くつつく。その瞬間、シェリルのかんばせから、すっと外されたシトリンのような瞳は、ここにありながら何処か遠い――此処ではない何処か――を“視ている”ような気がして、シェリルは口籠る。
王宮。テリトリー。“あいつ”――。訊きたいことは、たくさんあるけれど。それでも、今は声をかけて邪魔をするべきではない、と、なんとなく勘がそう訴えていた。彼の双眸が僅かに細まったせいかもしれないし、とんとん、と頬を軽く叩く指先に、ほんの僅か苛立ちのようなものを感じたせいかもしれない。
「――兎も角」
暫しの沈黙を置いたあと、男はやがてすっくと立ち上がると、肩に垂れた長い黒髪を邪魔そうに払い除けた。改めてその姿を見回してみると、実に文句の付け所のない、立派な身なりをしていると思う。言葉の端々には棘が含まれているような気がするし、不遜な感じもするけれど。
それでも、彼の完成された美貌には、見る者を狂わせるような蠱惑的な力がある、とシェリルは思う。陶器を思わせるすっきりとした色白の貌や、筋の通った高い鼻、くっきりとした二重の涼やかな切れ長の目、その真中で煌めく宝石のように美しい瞳――。
そこでふと、ある一点に目を留めた。薄くもなければ厚くもない、綺麗に形の整った淡色の唇の左端にひとつついた、小さなほくろ。
「俺は、イヴリス。イヴリス・ヘーゼルダイン。お前の護衛を一時的に任された、ただの魔法師だ。……そんなわけで、詳しいことは後で“あいつ”に訊いてくれ」




