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さよなら、私を搾取した伯爵家。王太子様が人工魔法石を作ったせいで、私の涙はもう一銭の価値もありません。  作者: 榛乃


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 目覚めたばかりで未だ霞んだ視界に、はちみつのような金色だけは、やけにはっきりと映り込む。それでも、それが何であるのかを理解するのには、とても時間が要った。


 そもそも状況が、なにひとつ理解出来ない。


 此処がどこで、自分はどんな状況に置かれているのか。何度もゆっくりと瞬きを繰り返し、次第に焦点の結ばれてゆく眼で、シェリルは視界を覆い尽くす“それ”をただじっと、静かに見つめる。


 そこにあるのは、肌を刺す棘棘しい藁でも、継ぎ接ぎだらけの薄っぺらい布切れでも、緑とも黒ともつかない湿った黴が好き放題に蔓延る石の天井でもない。それはおよそ彼女の記憶には欠片も存在しない、光の粒子を編み上げたような、美しい――たとえるなら太陽のような――色彩。


(此処は、天国なのかしら……)


 そんなところには、絶対に逝くことなど出来ないと思っていたはずなのに。それとも此処は地獄で、この金色は死神の色なのだろうか。


 ぼんやりと――まるで他人事のように――そう思いながら、もう一度ゆっくりと瞬いた、その時だった。不意に左頬を、ふにっと摘まれた。決して強くはないけれど、決して弱くもない、程よい力加減で。


「おい、起きてんのか」


 痛い、と声を上げる間もなく、その指はすぐに頬を離れ、そうしてどさりと椅子に腰掛ける荒々しい音が聞こえた。ついでに、苛立たしく吐き出された、呆れを含んだ舌打ちも。


 頬に触れた生身の感触、摘まれた時の強くも弱くもない痛み。それらは濃い霧のかかっていたシェリルの頭を、一瞬にして晴らしてゆく。垂れ込めていた分厚い雲が遠のき、その隙間から次から次へと射し込む光芒が、薄暗い辺りを鮮やかに照らしてゆくように。


 幾度も瞬くほど、視界を覆っていた霞は薄れ、ぼんやりとしていたものが次第に輪郭を作ってゆく。深く上品な美しい緑色も、それを縁取る金糸の細やかな刺繍も、精巧な彫り込みの施された立派な柱も、何もかもがはっきりと。


 薄暗い部屋でも、黴や埃臭い部屋でも、隙間風の入り込むような部屋でも、ない。色彩の乏しい、ただ黒と白だけしか存在しなかった部屋の中で何年も――気が遠くなるほど何年も――過ごしてきたシェリルにとって、それは色彩という名の鮮やかな幕が一気に振り広げられたような、唐突な覚醒だった。


 記憶の底に沈んでいた“色”という概念が、堰を切ったように溢れ出し、彼女の枯れ果てた視界を塗り潰してゆく。そういえば世界は、こんなにも色に溢れていたのか、と――。鮮烈な閃きのような、或いは、抗いようのない彩りの奔流に呑み込まれるようにして思い出す、あたたかで愛おしいほどの感覚。


 色というのは、体温だ。ふとそう思い、嘗て自分をやさしくも力いっぱい抱き締めてくれた母エレノアの、細く柔らかな白い肌を、華奢な肩に垂れたブロンドの髪を思い出す。色というのは、体温だ。鮮やかであればあるほど、それはとても――。


「まだ寝惚けてんのか?」


 低く、どこか心地よく響くその声が、母の面影をなぞっていたシェリルの意識を不意に弾いた。シャボン玉がぱりん、と、割れるみたいに。


 母の腕のぬくもりや、やわらかな髪の毛を慈しむ時間は唐突に終わりを告げ、代わりに彼女の眼の前を覆ったのは、宝石のように美しい金色の瞳と、右耳から垂れ下がる艷やかな黒い髪の毛、そして、端正な――寧ろ整い過ぎていると言っても過言ではないほどに麗しい――かんばせだった。


「おい、もう目醒めてんだろ」


 腰を屈めるようにしてシェリルの顔を覗き込む彼の顔をじいっと見つめながら、なんて綺麗な色をしているのだろう、と、シェリルは全く違うことを考える。瞳ははちみつ、或いはシトリンのようで、真っ直ぐに伸びた長い黒髪は、まるで夜を溶かし込んだような漆黒。

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