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何か懐かしい言葉を聴いたような気がする。耳の奥に、或いは胸の奥に突き刺さるような、朧げだけれど、それでもひどく懐かしいことだけは分かる言葉が。
それは、シェリルが輪郭を掴むより先に、さざ波のように意識の奥底へ消えていった。まどろみの淵で、彼女はゆっくりと息を吸い込む。鼻腔を擽るのは、あの埃や黴や油絵や血の饐えた臭いではなく、陽だまりを思わせる清涼な香りと、甘くやわらかな優雅な香り――。
凪いだぬるま湯の中から、真綿で包み込まれるようにして掬い上げられる。そんな緩やかな浮遊感とともに、ふわりと意識が浮上した。深い深い水底から、光の差す水面へと、ゆっくりと時間をかけて押し上げられていくような感覚。
重力はどこか遠く、己の輪郭さえもが曖昧な、あまりにも心地良いまどろみを揺蕩いながら、シェリルは気怠い瞼を微かに震わせた。
(……ここは、天国なのかしら……)
顔も頭も手も足も、何もかもが重たくてたまらない。まるで鉛でも詰め込まれているみたいに。それでも、光を拒むように硬く閉ざされた瞼を、シェリルはそっと、静かに持ち上げる。
黴や煤で汚れた天井、頼りない明り取りの小さな窓、壊れかけの椅子、簡素な硬いベッド――。
目に沁みるほどの眩い明かりと、見慣れないものたちに驚いて、シェリルは折角開きかけた瞼を慌てて閉ざす。ぎゅっ、と、今出来うる限りの強さで。いったい何を見たのだろう。いったい何を見てしまったのだろう。理由が分からず、シェリルはまだ眠気から醒めやらぬ霞んだ頭で、薄っすらと見えたものを反芻する。
最初に見えたのは、深く落ち着いた緑色の、やわらかそうな布だった。夜よりもやさしく、でも同じくらいに上品で美しい緑色。
思えば肩も背中も後頭部も、何も痛くない。そのことにふと気付き、シェリルはもぞりと、ほんの僅か身体を動かしてみる。牢獄では常に、質素な――しかも長年取り替えられすらしていない――藁を敷き詰めただけのベッドで眠っていた。薄っぺらな、毛布とはとても言い難い布切れに包まって。或いは、ベッドに上がる気力もない時には、冷たい石床の上に直接寝転ぶだけの夜もあった。
そんなふうであれば、ぐっすりと気持ち良く眠れるはずもなく、身体は常に鈍く凝り固まったままで、安息など夢のまた夢だった――というのに。
今身体を包みこんでいるのは、何故か、刺々しい藁でも、ひんやりと硬く冷たい石床でも、手触りの悪い薄っぺらな布切れでもない。
吸い込まれるほどに柔らかで、頭を優しく抱くように沈み込む何か。髪の毛に触れる布地はなめらかで、身体を包み込むぬくもりは、程よく重みを保ちながらも、羽毛や綿毛でも詰め込まれているかのように、ふわふわしていて軽い。それらはまるで、陽光そのものを形にして纏っているかのような、あまりにも贅沢な心地良さだった。
(もしかして私……死んでしまったのかしら)
ゆっくりと息を吸い込むと、甘く清らかな花の香りが、胸の奥を静かに満たしてゆく。もし此処が天国ならば、どんなに良いだろう。花や陽だまりに囲まれた、あたたかな場所。そんなところで、これから先ずっと暮らせるのは、なんて素晴らしく、なんて幸福なことだろう、と。
だから、早く瞼を持ち上げ、“天国”というものを見てみたかった。幼い頃に実母に読んでもらった絵本の中に登場する、妖精や女神がたくさん住んでいるような、明るく朗らかな世界。そんな場所が今目の前に広がっているのなら、すぐにでも見てみたい。
けれどその一方で、目を開けることが怖かった。もしここが“天国”なんかではなく、それとは限りなく真逆の、あの埃と黴と薄暗さにまみれただけの、頑強な鉄格子に閉ざされた部屋だったどうしよう、と。その恐怖が、シェリルの瞼を重く縫い留める。
現実は変わったのだろうか。それとも、変わらなかったのだろうか。
次第に靄の晴れゆく頭の中で何度も逡巡し――やがてシェリルは、一筋の光となる期待と逃れられない不安を孕んだまま、恐る恐る、ゆっくりと瞼を開いた。
深く落ち着いた緑色の布か、それとも上品な香りを漂わす花か、或いは、細い明かりだけが射し込む冷酷な牢獄か、無造作に散らばった“涙だったもの”たちか。
しかし、徐に開いたシェリルの視界に最初に飛び込んできたのは、そのどれでもなく――長く濃い睫毛に縁取られた、とろりと蕩けるような金色の瞳だった。
「――やあ、漸くお目覚めか、眠り姫様」




