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さよなら、私を搾取した伯爵家。王太子様が人工魔法石を作ったせいで、私の涙はもう一銭の価値もありません。  作者: 榛乃


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「――聞こえなかったのか」


 耳に届いたのは、ひどく落ち着いた、それでいて思わずぞっとしてしまうほどの、冷徹な声だった。低く、重く、慈悲の欠片も感じさせない響き。それはまるで、鋭く研ぎ澄まされた刃のようだ、と、シェリルは思う。聞いているだけで、身体中の血が一気に引いてゆくような気がする。それほどに残酷で、抗いようのない絶対的な強さを持った響き。


「その女の涙には、もう何の価値もない」


 凛と紡がれたその一言に、シェリルの乾ききった心臓が、とくりと大きく脈打つ。それは、彼女がこれまで喉から手が出るほど欲してきた“救い”そのものだ。何年も何年も、埃と黴にまみれた暗闇の中で、ただひたすら待ち侘びていたもの。欲しくて欲しくて強く望み続けてきた、“死”という名の“救い”、“解放”――。


「銅貨一枚分の価値すらもな」


 なんて美しく、安らかな言葉だろう。怖いとは思わない。哀しいとも思わない。漸く全てが終わるのだ。私腹を肥やす為の、ただの“道具”でしかなかった地獄の日々が、漸く。もう泣かなくて済む。もう魔法石を作らなくて済む。もう誰も傷付けなくて済む。もう何もかもが、ここで途切れるのだ。


 それは恐怖よりも幸福なことだった。全てが終わる、と、そう思えば思うほど、荒んでいた心はどんどんと穏やかになってゆく。端々からすうっと力の抜けていった身体は驚くほどに軽やかで、まるで深い眠りに落ちる寸前の、あの凪いだ水面を静かに揺蕩っているかのように心地良い。


 それなのに、今この瞬間も、あの青い花が、真摯な赤い瞳が、視界に浮かび上がってくるような気がする。遠い日の残影でありながら、まるですぐ傍にあるような鮮明さで。


「それは、どういうっ……」

「言葉通りの意味以外にあるわけねぇだろ」


 ぴん、と何かが弾けるような澄んだ音がしたかと思えば、すぐに、重たいものがどさりと崩折れる音が聞こえてくる。それらを、次第に薄れゆく意識の中でぼんやりと他人事のように聞きながら、シェリルはゆっくりと瞼を閉ざす。


 父の顔を、継母の顔を、もう見たいとは思わない。もちろん、長らく会っていない義妹の顔も。彼らが今どんな顔をしていようが、そんなことは最早どうでも良かった。意識の端に置くことさえ疎ましい。


 ただ、最期にひと目だけ――そう、ひと目だけで良い。たったひと目だけで良いから、あの赤い瞳の少年に逢うことが出来たなら。心からの“さようなら”を、心からの“ありがとう”を伝えられたなら。それさえ叶えば、何も思い残すことなく消えてゆけるのに。


 彼は今、幸せだろうか。どこか遠い空の下で、あの頃と変わらぬ真っ直ぐな瞳のまま、健やかに生きているだろうか。


 彼の歩む道が、その先に広がる未来が、陽だまりのような安寧と祝福に満たされていることを、願わずにはいられない。死の淵にいながら、寧ろだからこそ、今まで拠り所となってくれた彼の幸せだけは、どうしても。


「――シェリル」


 ふわりと、あまりにも懐かしい声に名前を呼ばれたような気がした。あの時の少年の声によく似た、心にやさしく沁み込んでゆくような、あたたかな声に。


 それはでも、最期の瞬間に心が作り出した幻だったのかもしれない、と。白く霞んでしまった頭の隅でそう思いながら、シェリルは薄く自嘲をこぼす。


 聞き間違いかもしれない。ただの幻だったのかもしれない。けれどそれは、たとえ聞き間違いだろうと幻だろうと構わない、と思えるほど、あまりにも甘美なぬくもりだった。とろりと蕩けてしまうような。ほっと心がやわらぐような。


 ――シェリル。


 その淡く幸福な残響に包まれながら、シェリルは静かに、ゆっくりと意識を手放した。最後の最後まで、片時も忘れたことのなかったあどけないかんばせを、愛おしげに脳裏へ描きながら。

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