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さよなら、私を搾取した伯爵家。王太子様が人工魔法石を作ったせいで、私の涙はもう一銭の価値もありません。  作者: 榛乃


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 何が起きたのだろう。誰が来たのだろう。鉛のように重たい瞼をゆるゆると持ち上げながら、シェリルはぼんやりと、胸の裡で問いを繰り返す。何が起きたのだろう。誰が来たのだろう。先程までの余裕などまるで嘘のように、父は何故、あんなにも見苦しく慌てふためいているのだろう――。


 そう訝るものの、しかし答えを探そうとする端から、思考は霧散してしまう。頭を働かせるのが、あまりにも億劫だった。何が起きたのか、誰が来たのか、それを知ったところで、何になるというのだろう。どうせこの過酷な日々から抜け出すことなど、出来やしないのだから。そう思うと、何もかもがもう、どうでも良かった。


 暗い森の奥で深く眠るように、このまま冷たい床に溶けて消えてしまいたい――。そんな諦念に身体を、意識を蝕まれながら、シェリルは虚ろな目で、ぼうっと辺りを見つめる。金の刺繍がふんだんにあしらわれたドレスの裾、おろしたてのように糊の効いたチャコール色のズボン。


 ――必ず君を迎えに来る。


 あの少年は、あれからいったいどうなったのだろう。今どこで、どんなふうに過ごしているのだろう。


 こんな状況にもかかわらず、今更ながら、遠い昔にほんの短い間だけ言葉を交わした少年の身を案じていることに、シェリルは呆れを含んだ笑みを、そっと静かに、空っぽになりかけた心の隙間にこぼす。


 幼くも力強い声音、小さな手に握られた青い花、愚直なまでに真摯な赤い瞳――。あの時に贈られた言葉を、あの時に向けられた眼差しを、忘れたことなど一度たりともない。今すぐ死にたい、と、そう願ってしまうほど絶望に塗り潰された日々の中で、彼と過ごした刹那の記憶だけは、暗い部屋に射し込む一筋の光そのものだった。たったひとつ、誰にも侵されることのない、心の拠り所。


 死にたいと思う一方で、あの少年の言葉が、眼差しが、青い花が、シェリルの魂を、かろうじて“生”の側に繋ぎとめていた。無慈悲なほどにやさしく。溺れそうになる度に掬い上げてくれた、唯一のもの。


 だから忘れられなかった。忘れられるはずがなかった。


 せめて最期に、一目だけ――。叶うわけもない願いを、それでも胸に抱きながら、シェリルは細く息を吐く。


 “諦め”なんて、疾うに覚えたはずだった。もう二度と逢えないということも、もう二度と逢わない方が良いということも、それが彼の為であるということも、骨の髄まで沁みつくほどに、濃く、深く理解しているはずなのに。それなのにどうして、この期に及んでまで、彼に逢いたいと願ってしまうのだろう。


 ――必ず君を迎えに来る。


 脳裏を過ぎる懐かしいかんばせが、鼓膜の奥に蘇る声が、まるで昨日見聞きしたもののように鮮やかで。そのあまりの眩さに、シェリルは眩暈に似た戸惑いを覚える。身体の奥底から押し寄せる切なさが、自分自身でも驚いてしまうほど、熱くて熱くてたまらない。それはじりじりと胸を焦がしながら締め付け、霞んだ目の奥をあたたかく湿らせてゆく。


 それは、今までに経験したことのない感覚だった。涙を流したことは、たくさん――嫌というほどたくさん――あるけれど。泣き疲れ、目が腫れてしまった時でさえ、眼窩があたたかくなることなんて、一度もなかった。その感覚に、不思議だ、と、シェリルは思う。今は涙なんて、一滴も流れていないというのに。潤みすらしていないというのに。それでも、こんなに不思議な感覚が襲ってくるなんて、と。


 そんなシェリルの眼の前に、突然、見知らぬ革靴が映り込んだ。丁寧に磨き込まれた、いっそ神々しいとすら思えるほどの鋭い光を湛えた、立派な革靴。


 そのつま先は、力なく横たわるシェリルの方を向いていた。じわじわと後退るエドワードの方でも、悲鳴のような上ずった声をあげて床の上に崩折れるベアトリスでもなく。ただシェリルの方にだけ、真っ直ぐに。

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