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さよなら、私を搾取した伯爵家。王太子様が人工魔法石を作ったせいで、私の涙はもう一銭の価値もありません。  作者: 榛乃


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プロローグ

 生白い手に髪の毛を鷲掴みにされたまま、シェリル・ヘイスティングスは呆然としていた。


 いつにも増して強く鼻につく、乾いた土と黴が混ざり合った饐えた臭い。隙間風に煽られ、白く光りながら宙を舞う無数の埃。罅の入った石床の上には、無惨に打ち壊された錬鉄製の扉が歪な影を落とし、嘗ては堅牢だったはずの鋳造の錠が、見る影もなく粉々に砕け散っている。


「なっ、何故此処にっ……!」


 慌てふためく父の、焦りに急かされて妙に強張った声。それをどこか遠い世界の出来事のように聞きながら、シェリルはただ、緩やかに瞼を閉じた。これ以上、この醜悪な光景に心を削られないよう、自ら暗闇の底へと逃げ込むように。


 しかしその瞬間、シェリルの髪を執拗に締め付けていた生白い指先から、不意に力が抜けた。するりと髪の毛の滑る感覚と、支えを失った頭が宙を落ちてゆく感覚。


 糸の切れた人形のように、ただ力なく放り出された上体は、冷たい床へ向かって真っ直ぐに沈んでゆく。それはほんの一瞬のことだったはずなのに、何故だか永遠にも似た停滞に感じられた。この部屋に深く沁みついた、代わり映えのない暗く寂れた年月と同じ、気の遠くなるほどの、果てない時間。


 受け身を取る気力さえない身体は、鈍い衝撃とともに冷たい石床の上に叩きつけられた。頬を打つ硬質な痛みと、鼻腔に流れ込む土埃の臭い。それらは容赦なく、朧げだったシェリルの意識を現実へと引き戻す。


 何が起きたのだろう。誰が来たのだろう。室内に響き渡る、あまりにも澄んだ靴音を遠くに聞きながら、シェリルは重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。何が起きたのだろう。誰が来たのだろう。先程までの余裕などまるで嘘のように、父は何故、あんなにも見苦しく慌てふためいているのだろう。


 そう訝るものの、答えを探そうとする端から思考は霧散してしまう。頭を働かせるのが、あまりにも億劫だった。それ以上に、何もかもがもう、どうでも良かった。


 暗い森の奥で深く眠るように、このまま冷たい床に溶けてしまいたい――。そんな諦念に身体を、意識を蝕まれながら、シェリルは虚ろな目で、ぼんやりと辺りを見つめる。金の刺繍がふんだんにあしらわれたドレスの裾、おろしたてのように糊の効いたチャコール色のズボン。


 誰が来たところで、何かが変わるわけでないことは、知っている。期待をするだけ無駄だということも。その理解は、疾うに骨の髄にまで沁みついている。誰も手を差し伸べてはくれない。誰も助けてなんてくれない。分かっている――分かっているはずなのに。


 ――必ず君を迎えに来る。


 脳裏を過ぎる懐かしいかんばせに、シェリルは胸の裡で静かに自嘲する。あの時の言葉を忘れたことなんて、一度たりともない。真っ直ぐに向けられた赤い瞳も、幼くも力強い声音も、差し出された青い花も、何もかも。忘れたことなんて、片時もなかった。


 氷の張ったような孤独な日々の中で、その記憶だけが、かろうじて彼女を生に繋ぎ止める唯一のものだった。暗い部屋に差し込む一筋の光のような、ただひとつだけの拠り所。だから忘れられなかった。忘れられるはずがなかった。


 せめて最期に、一目だけ――。そう願うシェリルの視界に、見覚えのない革靴が映り込む。丁寧に磨き込まれた、いっそ神々しいとすら思えるほどの鋭い光を湛えた、立派な革靴。そのつま先は、力なく横たわるシェリルの方を向いていた。じりじりと後退る父の方でも、悲鳴のような上擦った声を上げて床に崩折れる継母でもなく。ただシェリルの方にだけ、真っ直ぐに。


「――聞こえなかったのか」


 頭上から降ってきたのは、ひどく落ち着いた、それでいて思わずぞっとしてしまうほど凍てついた、冷徹な声だった。低く、重く、慈悲の欠片も感じさせないその響きは、まるで研ぎ澄まされた刃のようだ、と、シェリルは思う。聞いているだけで身体中の血が引いていくほどに残酷で、けれど、抗いようのないほどに絶対的な支配者の響き。


 漸く終わるのかもしれない――。ふとそう思い、シェリルはそっと乾いた笑みを漏らす。漸くこの地獄から解放されるのかもしれない。“救出”という形ではなく、“死”という形で。しかしそれは、願ってもないことだった。漸く、漸く――。


 そう思えば思うほど、あの青い花が、真摯な赤い瞳が、視界に浮かび上がってくるような気がする。遠い日の残影でありながら、まるですぐ傍にあるような鮮明さで。


「その女の涙には、もう何の価値もない。銅貨一枚分の価値すらもな」


 嗚呼やっぱり、と、胸中で静かにこぼしながら、シェリルは震える瞼でゆっくりと瞬く。


 父も継母も、ただ利用する為だけに生かしていたのだ。自分たちの私腹を肥やす、その為だけに。彼らにとってシェリルは所詮“道具”に過ぎず、利用価値があるからこそ生かしていた。


 けれどもその価値がなくなったのならば、生かし続ける理由はどこにもない。


 死、解放――なんて美しく、安らかな響きだろう。怖いとは思わない。哀しいとも思わない。それは、長年重く伸し掛かっていた鎖が外され、深い眠りに落ちる直前のまどろみに似ていた。不思議なほどに心は穏やかで、指先から、足先から、不自由でたまらなかった“生”の重圧が、すっと抜けてゆく。


 何の利益も生み出さない役立たずが死んだところで、家族はなんとも思わないだろう。胸を痛め、悲しみに暮れながら涙を流すことは、きっとない。だから、鉛のような瞼を無理に押し上げてまで、父の顔も、継母の顔も見る必要はない。


 ただ――。安堵からか、次第に薄れゆく意識の中、シェリルはゆっくりと瞼を閉ざしながら思う。父でも継母でも、もう長らく会っていない義妹でもなく。ただ最期にひと目だけ、あの少年に逢いたかった、と。もう二度と叶うことはないと、頭のどこかではそう分かっていても。それでもあの赤い瞳をした真っ直ぐな少年に、もう一度だけ逢いたかった、と――。

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