3 滞在一日目・夕刻③
切り分けられたマンゴーに小さなフォークを刺した時、部屋の外、扉の向こうでかすかに気配が変わった。
わたくしとレクテナーンが、ほぼ同時にその変化に気付く。
会食中、レクテナーン(宴の主人)から供される皿を受け取り、わたくしの前へ運んでいたエリアーナはすでに、臨戦の空気をまとっていた。
「ゼイゴ」
レクテナーンは、扉のそばに控えていた我々のお世話係である若い神官へ声をかけた。
「日も落ちました。お客様がお帰りになられる時、足下が暗くてお困りになられないか、灯火の手配がちゃんとできているか、念のために確認してきなさい」
ゼイゴ、と呼ばれた若い神官は何故か、青ざめて言葉をなくしたまま立ち尽くしている。
「その必要はありませんよ、おにいさま」
唐突に扉が開き、乱入してきた人物が笑みを浮かべて言う。
簡素な下級神官の仕着せ。
外国訛りの残るレーン語。
短く刈り込んだ赤い髪。
頬骨の目立つやつれた顔の、左側の額から目許へかけて残る火傷の後。
昏い光をたたえ、爛々と輝く緑色の瞳。
気配すらなくタイスンが動く。
瞬きの間に闖入者を羽交い絞めにし、無力化していた。
「ロウガ、何故ここへ? 」
静かにレクテナーンは問う。
怒りを抑えているのか、剣呑な静かさだ。
「ラクレイドの王女殿下へ、お詫びとご挨拶を申し上げたく」
完全に身動きが封じられているにも関わらず、闖入者……ロウガは笑みを浮かべたままうそぶく。
「デュクラ人、なの? あなた……」
わたくしは茫然としながらつぶやく。
赤い髪に緑の瞳。
デュクラの元王女だった我が母と同じ特徴は、デュクラ人に最も多い特徴でもある。
ロウガは笑みを深くした。
「ええ、そのようですね、王女殿下。もっとも船の事故で死にかけて以来、私は記憶に曖昧な部分が多いんですが。でも今日の朝、殿下とお会いして一気に色々と思いだ……」
タイスンが腕に力を入れたのだろう、急にロウガは苦しそうに言葉を途切れさせた。
「このまま昏倒させましょうか?」
淡々とわたくしへ許可を取るタイスンへ、少し待つよう合図する。
レクテナーンを見ると、彼は、暗い目でそばの者へ合図する。
あわてて踵を返し、通用口から彼らは出て行く。
ほどなく警備の者がやってきた。
皆、青い顔をしている。
「こちらの警備の担当者は、今、何をしているのでしょうか?」
レクテナーンの問いに警備隊長らしい男が額に汗を浮かべ、答える。
「……その。皆、眠り込んでおりました。かがり火の中に、強い眠気を誘う香が仕込まれていたようです。この辺りに漂う残り香から、どうやらそうではないかと……」
「なるほど。……護衛官殿」
レクテナーンはタイスンへ、ラクレイド語で声をかける。
「お手間を取らせました。その者を、我々で捕縛する権利をいただけませんか?」
わたくしがうなずいたのを確認し、タイスンは少し腕を緩める。あちらの警備隊の者たちは、なんだかバタバタとした無駄の多い動きで、ロウガを縄で捕縛した。
そのまま連れ去ろうとしたので、わたくしは声をかける。
「お待ちください。……タリル・レクテナーン」
わざと正式名で彼へ呼びかける。瞳に困惑の色を見せながらも、何でしょうかと彼は問うた。
「少し……この者から話を聞くことを、お許しいただきたいのですが」
連行は一時中止された。
そして、ゼイゴと呼ばれていたお世話係の神官を含め、レクテナーンのそば付きの者が人払いの対象となる。
客間に残ったのは、レーン側として警備の者数名とレクテナーン、ラクレイド側としてはわたくしと護衛三名・通訳一名の計五名。
床に、縄でぐるぐる巻きにされたロウガが座らされた。
「ロウガ」
ため息まじりにレクテナーンが呼びかける。
「君は一体、何がしたいのか? 警備の者に薬を盛ってまでラクレイドの王女殿下に近付くなど、正気の沙汰ではない。まさかと思うが、五位殿に命じられたのか?」
ロウガは鼻で笑う。
「まさか。あのおじさんにそこまで大それた野心はありません。あの男が私に命じたのは、レクテナーンに近付いて情報を仕入れてこい、色仕掛けでも何でも使ってあなたのお気に入りになれって程度です。……ねえ、レクテナーンおにいさま。あの男はあなたが男色を嗜んでいると思い込んでいますが、そうなんですか?」
「答えるのも馬鹿馬鹿しいが、誤解があると面倒だから答えよう」
再びため息まじりにレクテナーンは言う。
「そちらの趣味はない。少なくとも今まで、そちらの欲求を持ったことはない。何故五位殿にそんな誤解をされているのか、わからないが」
「あなたが美女の誘いに乗らなかったからじゃないですか? あの男はぼやいてましたよ。きれいな女に迫られて落ちないなんて、あいつは男色家に違いないって」
何を思い出したのか、レクテナーンは顔をしかめた。
「なるほど。五位殿らしい。となると……」
スッ、とレクテナーンは表情を消し、真顔になった。
「ますます君の行動がわからないな。無茶苦茶すぎる」
「私の行動は単純です」
ロウガも、常に浮かべているあざけるような笑みを頬から消した。
「たとえひと目であっても、フィオリーナ・デュ・ラク・ラクレイノ殿下にお会いしたい、それだけです」
レクテナーンは表情を消したまま、問いを重ねる。
「君は今日初めて、殿下とお会いしたのではないのか? まさか、やんごとないこの方へ、ひとめ惚れしたとでも言うのかな?」
「おっしゃる通りです、おにいさま」
ロウガは実に真面目にそう答えた。
「ただ、ひとめ惚れしたのは今から十年前です」
ロウガは一瞬、目を閉じた。
そしてわたくしを見ると、正確無比なデュクラ語で、こう言った。
「お久しぶりです、おねえさま」
わたくしは息を止める。
王家の者らしい、正確なその発音。
わたくしへ、『おねえさま』と呼びかけていた習慣。
(……ルイ!)




