輝ける飛沫
奇妙な粘土像があった。鼻の両脇にしわを寄せ、あごの肉をくるみのように固めて唇を突出し、目尻に涙をためながら大声で泣き出しそうにしているおさげの幼い女の子の塑像だ。高くあげたその子の右手がつかんでいるのは、肘の下の前腕の部分までしかない大きな大人の手首なのだ。片方の襟がめくれた半袖のカットソーブラウスを着た女の子は上半身だけが形作られ、その下は十センチほどの高さの泥の塊のような台座になっている。作品のタイトルは「親子」で、作者は「林田圭一」となっていた。しばらく私は、「親子」というからには、この女の子が右手につかんでいるのは彼女の親のものなのだという単純な考えが浮かばなかった。つまり、女の子の手を握ろうと差し出して、逆にその手首をつかまれた「省略された」親のものなのだと。
日曜日のこの日、私は大学の友達の浩介と、その彼女の由美、そして由美の友達の夏子と四人で、午前中から浩介の友達の「学生たちの絵画と彫刻展」を見に来ていた。この共同展は、浩介の友達を含めた美術学科の学生五人が共同で行ったもので、浩介のその友達というのは、この催事の中心的な存在だった。彼らのことを直接私は知らなかったが、浩介に誘われたこともあって、言ってみれば付き合いでやって来たのだ。もちろん安い金額だが、入場料は払った。お茶の水から水道橋に向かう途中の小さなビルの一階にあったこの会場は一五坪ほどのこじんまりした雰囲気のいい部屋で、五十点ほどの絵画と十二、三点の彫刻が、それぞれ工夫された位置に展示されていた。
私と浩介は東京の郊外にあるいわゆる総合芸術系大学の映画学科、由美と夏子は音楽学科に在籍し、ともに二年生だった。まだ七月の初めだというのに、単位をとらなければならない大学の講義はもうほとんど終了していた。実質、大学の夏休みは二か月近くあるのだ。私は生活のためのアルバイトが控えていたし、比較的裕福な家庭に育った夏子は二年間のロンドン留学が決まっていて、現地での準備期間を考えて八月の中旬にはもう出立することになっていた。役者志望の浩介は浩介で、かなり高い倍率を突破して有名な映画監督の新作映画のオーディションに合格し、沖縄ロケへの参加が迫っていた。皆それぞれの事情があって、今を逃せばもうしばらくお互いに会うこともなくなってしまうのだった。そんなことでこの絵画展へ来たついでに、これも浩介の発案だがディズニーランドへ四人で遊びに行こうと決めていた。
狭い会場のスペースに三十人ほどの入場者がいた。皆、この絵画展を主催した若い作者たちの友人たちのようで、ほとんどが学生の風体だった。半ば素人の作品展でも、この会場にはそれなりの特有の雰囲気はあった。若い美術家たちと訪れる者たちとは、ふだん頻繁に会っているにも関わらずこの時だけはどこか遠隔地からわざわざやって来て旧知の仲を懐かしんでいるかのような、妙にうきうきした仰々しさがあって賑わっていた。
浩介と由美は、浩介のその友達としばらく立ち話をしてから、彼の説明を聞きながらぶらぶらと作品を見て歩いていた。映画学科俳優コースの浩介は背が高く、体格もしっかりしていた。鼻はやや鉤鼻で高く、頬骨の下は引き締まっていた。そして目はどことなく歌舞伎役者を思わせるような鋭さがあった。子供のころから家業の舞台に立っていたらしく、その物腰には私たち素人とは次元の違う雰囲気が漂っていた。その浩介と、その肩のあたりぐらいしかない、まるでミュージカル舞台の若い女優が演じる「星の王子さま」の主人公の少年のような格好をした茶髪の由美が並んで歩いている姿は、居合わせた人々の目を引いていた。浩介がその友達の肩をたたきながら舞台で出すようなよく響く声で褒め言葉を連発するのは少し大げさだったが、それに合わせて、由美も点々とそばかすのある左の頬を赤らめて二人に会心の笑顔を振りまいていた。そうしている間に、夏子と私はほとんどの作品を見てしまって、最後に、この絵画展の付け足しのような形で置いてあったその粘土像に出くわしたのだ。
夏子もまた、この会場の中では少しばかり目立つ存在でもあった。私と夏子はただの友人同士で、個人的に特に密接な関係にあったわけではないが、浩介と由美が二人で一緒に行動していることが多いため、というよりも由美が浩介にくっついているようなことが多いために、こうした時は夏子と自然に連れ立って歩くようになっていて、実は、私はそれがとても気に入っていたのだ。
夏子が目立つというのはその風貌である。この大学の二年生に進級してから、浩介の彼女の由美の友達ということで初めて夏子に会ったとき、私は彼女が海外からの留学生なのだろうと思った。日本人と同じく髪の毛の色は黒く、瞳の色は深い茶色で鼻は平均的な高さなのだが、全体的な顔立ちは色白なユダヤ系のそれだったからだ。だが話してみると彼女の言葉は流暢な日本語だった。
後に彼女から聞いた話によれば、おだやかそうな夏子の雰囲気からは想像しにくい家族の歴史があった。夏子の祖母はポーランド系のいわゆる赤系に対する「白系」のロシア人だった。その祖母がまだ幼い頃、十月革命以後の旧ソビエトの勢力に排斥されて家族は中国に逃げた。父親は長年の心労と肉体的な疲労により腎臓を壊して死に、やがて母親も父親を追うように病で死んでしまった。一七才で単身満州に流れて満州帝国のロシア人移民局の保護のもとに暮らしていたころに(この期間のいきさつは不鮮明で、満州でも決して幸福な生活を得ることはできなかったらしい)、当時の満鉄の社員であった二十五才の祖父と知り合い、祖父の半ば一方的な熱愛の末に、周囲の人々の偏見からくる反対を押し切って籍を入れ、敗戦後は着の身着のままという状態で日本に引き揚げてきたのだった。若いころの祖母は、抜けるような白さの美人だったという。この祖父母の間に男の子が生まれたが、それが夏子の父親だった。この、夏子の父親の風貌は、祖父の血を引き継いでまったく他の日本人と変わりはなかった。家族を失って放浪した辛い経験を持つ祖母も、この長男の誕生を喜んで、その後日本での生活にも慣れてしばらくは幸福そうに見えたが、夏子の父親が生まれて三年もたたないうちに、持病でもあった悪性の不整脈による心臓麻痺を起こして死んでしまった。祖父は愛する妻の死をひどく悲しんでしばらく独身を貫いていたが、幼い子の養育もあり、やがて親族や周囲の人々に説得されて、ほかの日本人女性と再婚し、新たに二人の子を儲けた。情熱的な恋愛の末に結ばれた初婚に比べ、見合いによる再婚は、おだやかではあったが、お互いある程度の妥協を必要とするような冷めた面もあったらしい。夏子は両親にはもとより、特に祖父に愛されたが、反面、後添いになったこの祖母にはどこか敬遠されたような思いが付きまとってあまりなつかなかったらしい。この後添えの祖母は教養のある女性であったが、育児は苦手で、祖父の、一人息子であった夏子の父親の後に、二人の男の子を産んでから軽い育児ノイローゼを患ったのが始まりで、その後長い間、夏子が小学校に上がるころまで、断続的に病院に通っていたという。一方の祖父は三十才を過ぎてから事業を起こし、六十を超えるころにはある程度の財を蓄えて夏子の父親を後継に据えた。
夏子の両親は当然のことながらどこから見てもまったく普通の日本人だったし、再婚した祖母もそうだったので、夏子が生まれた時、事情を知らない人たちはその顔を見て驚いたという。夏子の誕生日は夏の暑い日で、奇しくも実の祖母の命日と一日違いの八月二十日であった。「夏子」は、実の祖母の命日の次の日に生まれた、その夏の日に特別な思いのあった祖父がつけた名前だ。祖父が夏子に注ぐ愛情は尋常なものではなかった。
いずれにしても、彼女はそのようなことを含めて極めて確率の低いまれな遺伝子の経路をたどって祖母の血を受け継いだのだった。夏子は初めて知り合った人に必ず実の祖母の話をするのだと言った。そうしないと、自分が根っからの日本人だと信じてもらえないからだった。夏子は小学校へ上がった頃から、そんなストレスをずっと隠し持っていた。
その夏子の様子に小さな変化があったのはこの会場の巡回コースのいわば最後の片隅のコーナーに置かれていた、奇妙な彫塑を見た時だったが、ほとんどすべての人にあるような些細な表情の変化だった。夏子は、初めは唇を少し開け、その唇を右手の三本の指で覆いながら、私と同じように不思議な面持ちで「親子」と題するその彫塑を興味深そうに眺め、少し近視の入った目を細めて特にこの女の子が握っている、ちぎれたような手首に顔を近づけた。すると彼女は急に何かを思い出したように表情をこわばらせ、かすかに身震いしてその彫刻の上の白い壁に小さな蜘蛛が這っているのをぼうっと見つめ始めたのだ。光線の具合かその顔から血の気が引いて心なしか蒼く見えたが、私は大して気に留めることはなかった。それほどその表情の変化は微妙であって、きっとこの粘土像から連想したものではない、何か別に気になる心配事があって、それを思い出したのだろうというぐらいにしか私は思わなかったからだ。
それよりも少し前からこの彫塑に対する好奇心と並行して気になっていることがあった。それは私がこの作品を見ている時、盛況に賑わっているこの会場の中のある場所に対してだった。そこに暗い陰のようなものがあり、誰かが興味ありげな視線を向けているのを感じていたのだ。美術館に行くと、片隅のパイプ椅子に座って、極めて冷めた目で来場者を観察している係員の視線を感じることがある。あれに似ていた。目をやると、そこは受付の立ちトレニアの壁寄りの席で、一人だけポツンと座って私たちの方を向いている小柄な学生風の男がいた。学生だと思ったのは、首元が伸びきった白いTシャツを着て、ひざの出たジーパン(それはただのひざが出てダブついたジーンズであって、あえてそのひざに穴をあけたりしているものではなかった)をはき、猫背の肩の上に生えたままで特に整髪を加えていない中途半端な長さの髪の毛が両耳を覆っていたからだ。私がその男と目を合わすと、彼は表情を変えず、ちらっと夏子を見てから違う方に顔を向けた。ずいぶん長い間私たちをじっと見ていたようだった。そして気になったのは、というよりも私を苛立たせたのは、その顏にはどこか皮肉めいた、他人を常に批判的に見てあざけるような、独特な、冷笑のようなものが浮かんでいたからだ。昔、何かの本に、無表情というのは表情がないことではない、その顔に解析不能な微笑が浮かんでいることだというような意味の文章を読んだことがあるが、それとは少し違っていた。男は二、三秒ののちにもう一度私の方に向き直り、何か挑発的な視線を投げてきたかと思うと、すっと立ち上がって黙って部屋の外へ出て行った。何のかかわりもない人間にそのような表情をされる覚えはなかったが、あれは、たとえば町ですれ違った赤の他人と偶然に目が合ったとき、たまたま彼が別の要因でその瞬間に不機嫌でなおかつ批判的な精神状態に陥った原因が、まるで私自身にあったかのように錯覚をするようなものだったろうか。
その後、浩介たちも一通りこの部屋の展示物を見てしまったので、私たちは当初からの予定だったディズニーランドへ向かった。由美と浩介はめったに離れて行動することはなかったので、夏子は自然にいつも私の隣にいるような形になった。
ディズニーランドにいた間、夏子と私はずいぶん多くの話をしたような気がした。日本人とわかっていても、そのエキゾチックな風貌と、しかしそこからかもしだされるおだやかな謙虚さと優しさにいつの間にか惹かれていた。目に映るものから派生するありふれた会話から始まって、とりとめのない家族の話や、中学、高校時代の話、そして音楽の話や映画など、彼女は率直に話してくれた。(映画の話をしている時、夏子はずっと聞き役に回っていたが、音楽の話の時は逆だった)二人で共感しあえる話の後には必ず心地のいい沈黙が少しあった。しぶきに濡れながらカヌーなどに乗ったときには、揺れるたびに夏子と私の素肌の腕が触れて、不意に湧きあがるうぶな淡い思いに戸惑ったこともあった。閉園まではいなかったがそこで過ごした時間はあっという間に過ぎ、遊園地を出てから、浩介の案内で私たちはイタリアンレストランで食事をすることになった。浩介はビールとウィスキーの水割りを、私はビールを、そして由美と夏子はワインを少し飲んだ。飲食代の三分の二は学生の身分でありながら少し金回りのいい浩介が払い、残りを三人で割り勘にして店を出たのは十時半ごろだった。夏子と私はともに小田急線沿線に住んでいた。夏子は私より三つ先の駅だった。浩介たちと別れてから、私はほのかに酔っている夏子を自宅まで送って行き、そこで別れた。それは私が長期留学を控えた夏子と初めて二人で過ごした長い時間だった。
それからひと月半がたっていた。
八月も下旬に近づいたが、私はアルバイトの毎日だった。経済的に親をあてにすることができないので、休みの間に少しでも稼がなければ、授業料を含めてこの先の最低限の学生生活ができなかったからだ。
あの日、私が働いていた段ボール工場の金網の向こうのどんよりとした曇り空をゆっくりと飛び立っていったのは夏子を乗せたロンドン行の旅客機だった。それは雲の合間に見え隠れしながら、二十秒も立たないうちに消えてしまった。ちぎれ、ばらけた飛行機雲は、小さく見える管制塔のはるか上に浮かんで右へ右へと風に押し流されていった。二年たったら帰って来ると言っていたが、なぜかもう、夏子は新しい世界の中で、新しいすべての関わり合いを日常化しながら、私たちの前に姿を現すことはないのかもしれないという気がした。
蒸し暑さの中、白いポロシャツの半袖で額の脂汗を拭ったところが薄茶色に汚れた。気の抜けたラッパのような音が鳴ったのは、もう昼休みの時間が終わり、午後の仕事の始まりを知らせるサイレンだった。三方を金網の柵に囲まれた百坪ほどの敷地の中に積まれた組立前の段ボールの箱の束を出荷するために、三台のフォークリフトが小刻みに動いていた。
「何、ボーっとしてんだァ? 最後まで早くやっちゃあねえとう」
その中の一台のフォークリフトにのったこの工場の専務の怒気を含んだ声がした。専務といっても七、八人しかいないこの工場の社長の弟で、現場の仕事をしている。
「すみません!」
私は十枚重ねに束ねられ、プラスチックバンドで井桁に縛られた出荷用の段ボール箱の最後の二百枚を運搬用の平台の上に一気に積み上げた。専務はその平台にフォークを差し込んで持ち上げ、片腕で巧みにハンドルを操作しながら、くるっと半回転させ、黄色い線で仕切られた所定の位置にそれを正確に下ろし終わると、後ろ向きに戻ってきてこう言った。
「一時間オーバーだったな、今日はもう帰んな。明日また頼むぞ。あんたらはいいよな。学生だもんな。アルバイトやってるっつったってそれでも毎日が日曜日ってやつだろ。俺らは毎日夜遅くまでこれやってなきゃ生きていけねえんだ、哀れなもんよ。本当にな、やめちめえってんだよ。いや、俺に言ってるんであんたに言ってるわけじゃないぜ。さ、俺も飯にすっかあ」
私は小さくため息をつくと、事務所の壁にかかっている時計を窓越しに見た。少し傾いている安価な丸い時計はいつまでたってもまっすぐにされないままだ。今日は十二時に上がらせてもらうことにしていたのだが、仕事が片付かずに一時になってしまった。事務所には、首にかけたタオルで顔を拭きながらあごを突き出して、遠近両用メガネの下の方で8ビットの古いパソコンを睨んでいる社長がいる。年季もののクーラーは利いていない。
「お先です」
と言うと、社長は首を長く伸ばして少しとがめるように私に振り向くと、
「もう帰るのかあ」
と言って時計を見た。
「すいません、専務にはお伝えしてあったんですけど、今日は午前中までってことで……」
「そんなの聞いてねえぞ。たのむよ、人手が足りねえんだから。そう言えばもう一人アルバイトが面接に来るって言ってたなあ。あんたんとこの大学だって言ってたぞ。確か……」
社長は、机の上に乱雑に置かれた書類の中から三つ折りにたたんだ履歴書を引っ張り出し、それを広げて目を近づけた。
「間違いない。林田君ていうんだ」
「林田…… へえ、そうなんですか。じゃあほんとにすいません。お先失礼します」
私はタイムカードを押した。フォークリフトから降りた専務が首にかけたタオルで汗を拭きながら事務所に入ってきて、彼の背丈の半分ほどの小型冷蔵庫の上に置いてあるラジオのスイッチを入れた。社長は彼と話をかわすわけではなく眉間にしわを寄せてまたパソコンに目をやった。
事務所を出ると、特に着替えるものもなかったのですぐ脇のロッカー室には入らずに素通りした。通路の先の古いガラス扉を開けて外に出ようとした時、三段ある階段の下から一人の小柄な男が入ろうとしたが、私が出るのを譲って少し脇によけた。たぶんこの男のことだろう。同じ大学だと社長は言っていたがどこかで見た顔である。どこかで見た顔だというのは、その男の独特な表情をどこかで見ていて記憶に残っていたからだと思う。目の前の私をどこか小馬鹿にしているような奇妙な微笑がそれだ。その瞬間、私は、その男が、浩介たちと行った「絵画と彫刻展」の会場の隅で私たちを見ていたあの男であることを思い出した。男は私の脇を通り過ぎると、無言で工場の中に入って行った。私は少し混乱して、あの男がなぜ今ここにいるのかという、その整合性を無理やりこしらえようとしていた。
工場を出ると、焦げ茶色に塗装された鉄柵があって、その柵越しにはコンクリートの堤防があり、その堤防は人の背丈ぐらいあるので視界はさえぎられているが、その向こうには幅百メートルほどの大きな川がある。私の立っている位置からは堤防に隠れて見えないが、堤防より低い位置にその川に沿って地下のトンネルから出てくるモノレールの軌道があるのだ。そしてその軌道に沿って突然堤防の下から白地にスカイブルーやグリーンの彩色をほどこした六両編成のモノレールが姿を現し、緩やかな弧線を描いてするすると右手に移動していった。遠くには広い空港の滑走路が見え、何社かの模様の違う旅客機の尾翼が並んでいるのが小さく見える。
川に沿って二分ほど歩けば、地下にある私鉄とモノレールの駅へ降りる入り口がある。もう夏子を見送るために空港へ行く必要もないのだ、と私は思いながら、今度は反対側からやってきて堤防の下に消えていくモノレールの車両を見ていた。なだらかな上り坂を歩き出すと、後ろから黄色い軽自動車がゆっくりとやってきて止まった。
「俊、ゲンキ―? 夏休みでもう一か月以上会ってないね」
窓を開けて頭蓋骨のてっぺんから響いてくるような声でそう言ったのは由美だった。首周りの短髪は相変らずの金髪に近い茶髪で、青い水玉模様のTシャツにブルージーンズをはいて白い歯を見せながら、左側の頬の下のそばかすを揺らせて無邪気そうに笑っている。ここから車で二、三十分のところにある住宅地に住んでいるので新車を見せたい気持ちもあって乗って来たのだろう。春に免許を取って、父親に買ってもらった車だ。
「ふん」
と私はわざと鼻を鳴らした。私は俊一という名前だが、俊、と呼ばれることが多い。
「ねえ、どうして来なかったの? みんな来てたのに。夏子気にしてたと思うよ、俊のこと」
本当は休んで夏子を送り出すつもりでいた。しかし、人手が足りないので午前中でもいいから出てくれないか、と専務に言われてそうしたのだ。一二時に仕事を終わらせれば別れ際の夏子に会うことができたからだ。しかし、なぜか今日、私は夏子に会いたくなかった。ポロシャツの汗の臭いがツンと鼻を刺した。
「見てのとおり、今日は朝から仕事忙しくてさ。人がいなかったし。一時間早めに帰らせてもらおうと思ったんだけどだめだったんだ。空港、すぐそこなのに行けなかったよ」
「バイトなんて休んじゃえばよかったのにさあ」
「そうはいかないよ」
「だってたかがバイトでしょ」
「たかがバイトって……」
「あ、ごめんね。でもいつもまじめに行ってるんだし、こんなときぐらい休ませてもらえばいいじゃん。そういう意味だよ」
そう、悪気なさそうに言って由美は空に残された飛行機雲を見てため息をついた。
「行っちゃったね。一人でロンドンに。留学なんて、うらやましいな…… 夏子、お母さんの影響が強いんだね。お母さんも若い頃イギリスで勉強してたからね」
「そうだってね」
「お母さん、ピアニストになる夢が果たせなかったから夏子に期待してたんだね。でも夏子、コントラバスだからなあ」
「そうだね」
「夏子のお父さんの弟さんが、K銀行のロンドン支店の支店長をしてるんだって。それで子供さんいないからちょうど部屋も空いてるんだって。夏子外人の顏してるし独り暮らしするわけじゃないからいろいろ気苦労することもないし、ほんとにいいよね」
「そう言ってたね」
私は、その人の家の、コントラバスが置いてある部屋の窓から、ロンドンの薄曇りの町を眺めている夏子を想像しながら、鉄柵の向こうをまた一機、旅客機がどこかへ飛び立っていくのを見ていた。鉄柵の上には、柵を乗り越えて川に落ちないように三本の有刺鉄線が張られていたが、まるで自分がどこかの動物園の檻の中にでもいるような気がした。
「何で止めなかったの?」
由美は突然そう言った。冗談とも本気ともつかない表情だったので私は少し驚いた。
「ねえ、なんで止めなかったの?」
「止める? 何言ってんだよ。関係ないことじゃん、そんなの」
「関係なくないよ。でもさ…… 」
由美は何か考えていたようだったが、それからさっぱりと表情を変えて言った。
「帰る? それともどこか行く?」
「どこかって?」
「別に。どこか行きたいところあるのかなって思っただけ」
「行きたいところなんてないし」
「じゃあ、帰る? 帰るんだったら送っていくよ」
由美がそう言ったとき、工場の金網の柵の角から、さきほど工場の入り口ですれ違った男が現れた。彼は私たちと視線を合わさないで、うつむきながら足早に駅の方に向かってゆるい上り坂の道を歩いて行った。私はその男の後ろ姿をしばらく見ていたが、気がつくと由美もじっと彼を見ていた。
「知ってる人?」
由美が聞いた。
「さっきも会ったけどたぶん林田っていうんだ」
「あたしあの人見たことあるよ」
「どこで? やっぱりあの絵画展で?」
「絵画展?」
「うん、この間見に行った絵画展にいた奴だよ、たぶん」
「そうなの? でもあたしが見たのは違って、駅のホームで夏子と電車に乗ろうとして急いでた時だったね。向こうから歩いてくる人と鉢合わせになることってあるじゃん。左によけると左に行くし右によけると右に行くし。あの時がそうだったんだ。それで夏子がごめんなさいって恥ずかしそうに言ったらあの人は、『ひつれい』ってほんとに小さい声で言ったんだよね」
「ひつれい?」
「そうなの。ひつれいって言うんだよね」
私は思わずへっと笑ってしまった。
「そうしてね、何だか急に痛々しそうな顔をして真っ赤になったの。それからじーっと夏子の顔を上目づかいで見てから、急いで行っちゃった。変な人だったよ」
「ふーん……」
そう言っている間に男はモノレールの駅に向かう下り階段の入り口に姿を消した。
「その後ろ姿を見ながら夏子と二人でクスッと笑ったら、それが聞こえたのか、でも聞こえないよね、まさか。ほんとに小さい声だったんだもん。だけどあの人振り向いたんだ。なんだか目が真っ赤だった。あたしたちびっくりしちゃった。それで覚えてるんだよ」
私はその時の様子を想像し、そして先ほどすれ違った時の彼の表情と、あの絵画展での表情を重ねて思い浮かべていた。
「送ってくれなくてもいいよ、由美。大変だから。電車あるし。来週までに演劇学科の知り合いの連中と文化祭でやる芝居の照明プランを考えなきゃなきゃならないんだ。照明って少しかじってるだけで全然素人なのにさ。やるやつがいないんだよ。台本書いてるやつが遅くてまだ出来上がってないんだけど、あんまり具体的に細かいとこ決まらないうちに見切り発車みたいな感じで練習入っちゃったんだ。俺はバイトしてるから、練習行けないときもあるし」
「そうなの。せっかくなのにね」
「文化祭まで逆算してみれば、もうぎりぎりだしね。最初はあるものでやろうってことで早いうちからみんなでシラノドベルジュラックを考えていたんだけど、何だかんだと延び延びになっちゃって、結局一幕物のオリジナルをやろうってことになったんだ。俺はシラノの方がいいと思うんだけど、もう無理だね。役者が大変なんだよ、セリフ覚えるの。まあ、照明係の俺が口出すことじゃないけどね」
「ふーん、しらのどべるじゅらっく」
「知ってる?」
「知らない」
「うん……」
私は映画学科のシナリオコースに在籍しているが、実際に自分の創作のシナリオを最後まで書いたことはなかった。いつも書き出しの数枚か、せいぜい原稿用紙に十枚ぐらい書いては行き詰って諦めてしまっていた。頭の中にこれを書きたいという定まったものがなく、いつも漠然としていてわからなかった。由美の専門はバイオリンで三歳のころからやっている。夏子の母親は、別な音楽大学のピアノ科を卒業していたが、その道には進めずに有名な楽器製作会社に就職した後に結婚して夏子を生んだ。母親は夏子にピアノの道を行かせたがっていたが夏子はその道を進まず、女子学生では珍しいコントラバスを選んだ。コントラバスを演奏するようになったのは、たまたま夏子の父親が学生時代、友人から誘われた吹奏楽のサークルで、やり手がなかったコントラバスを選んだのが始まりだったという。遊び心で始めた父親だが、結局ものにならず、買い込んでしまったもののその図体の大きい楽器は物置の中に収納されることになった。それを面白がって遊んでいたのが夏子だった。幼少期にはピアノも習っていた夏子だったが、あまり馴染めず、結局は中学の吹奏楽部から始めたコントラバスを選んだ。
「浩介まだ沖縄か」
浩介は、幼少のころから父親がドサ回りの大衆劇団の座長をやっていたため、方々の土地を渡り歩いていたが、浩介が小学四年生の時、子役でテレビドラマなどに出演してある程度の評価を得たのがきっかけで、父親は少ないながらも貯め込んでいた金に浩介の出演料を足して、調布にあるビルの地下を安値で買い取って百人程度入れる小劇場を作った。ここがいくつかの小劇団の拠点になり、その後自分たちの劇団を始め、素人からプロに至るまでの様々な劇団やサークルを招き入れ、年間を通してコンスタントに芝居公演やその他のイベントを続けていた。浩介は高校を卒業しても、家業の劇団の役者を続けていたが、やがて大学に行きたくなって、二年浪人をして入学したのである。だから年齢的には先輩であった。
「普天間でロケ。オーディションに受かってからずっと行ったっきりだよ。」
「すごいね。まだ学生なのにM監督の映画に出られるんだもんな」
「チョイ役だけどね。米軍基地のそばにあるバーで働いているバーテン見習いが、東京から行ったよそ者なんだけど、その人が客と大けんかして殴り合うシーンがあるんだって。その客の役だよ。その他にもちょこちょことあるらしんだけどね」
「へえ、でもそれってけっこう大変な場面だよな。すごいよ。実際にそういうプロの現場にいるんだからね。みんな、頑張ってんな……」
「何やってんだかね、怪我しなきゃいいと思うけどね。行ってる間は何の連絡もないし」
由美は苦笑いをしながら少し低い声になってそう言った。怪我の心配をしているのではないことはわかった。私は普段あまり見ることがない由美の隠された屈託のようなものを感じた。空を見上げると飛行機雲はすじ雲のような形になって切れ切れに浮かんでいた。
「……送って行くよ。早く乗れば。暑いから」
由美が少し目線を落として、私の顏の油で汚れたTシャツの上腕の袖のあたりを見ながら言った。
「歩いて帰ろうかな」
「え、世田谷まで歩いて帰るの?」
実際に私は、そのくらいの距離を一挙に歩いて行くことがあった。何か心にわだかまりがあるときなどそうした。この時もそうしたい思いがあった。それに由美の軽自動車には浩介の臭いが染みついているような気がした。何だか赤の他人の「家族」に厄介になるような億劫な思いがしたのだ。由美は、
「俊て歩き屋さんだからね。世田谷までほんとに歩いて帰るの?」
と残念そうな顔をした。それで私は少し気持ちを変えた。
「嘘だよ。滝でも見に行こうか」
「滝なの? 海とかじゃなくて? そうか、滝に打たれるんだ」
「そうじゃなくて」
ククッと由美が笑いをこらえたような顔をして私をのぞき見た。
「でも、滝に打たれるのもいいな。」
私がそう言うと、由美は白い歯を出して笑った。両目の下にあるそばかすが揺れている。つられて私も笑った。
「行こう行こう、滝に打たれて修業じゃ、修業じゃ。俊、華厳の滝がいいよ」
と、由美はまた、どこから出ているかわからないようなソプラノの高い声を上げた。
私がこの大学に入ったのは父の影響があった。中学時代から自分が住んでいる町の一角にある安い映画館によく通っていた。ある特定の監督や俳優の映画を観るというよりはたまたまその日にやっている映画を観ていたといった方がよかった。
父は小さな町工場の旋盤工だったが、大の映画好きであった。寡黙であった父とあまり話をしたことがなかった。家では寝転んで新聞を読んでいるかテレビを見ていた。若いころは大手の自動車工場で働いていたというような話を聞いたことがあるが、詳しいことはわからない。短気な性格でよく母親とけんかをしていたが、何度か職場を変えたのは、その性格が災いしたのかもしれない。何度目かの転職で、新しい仕事から戻ってきた父親の体から、油の腐ったようなすえた臭いがしていたのを覚えている。父は真っ先に風呂に入って髪の毛を洗っていた。大きなショッピングセンターなどの飲食店街の地下にある排水槽を洗浄する仕事をしていたのだ。作業服は着替えても、頭髪に染み込んだ臭いはなかなか取れなかった。
父と私がその映画館へ行くようになったのはちょうどそのころだった。その映画館は夜遅くまで、時にはオールナイトで上映することもあった。父は相変らずほとんど何もしゃべらなかったが、夜、二階に上がっていた私にふすま越しで、
「俊一、映画行かねえか」
と唐突に言う時があった。そんなとき階段を降りると、大きく見開いた目を赤くして、何か憎悪と悲哀の混ぜ合わされたような表情で父をにらんでいる母を見ることがあった。父と母は金のことでよく言い争いをしていた。私はそんな母親を横目に見ながら、黙って父の後をついて行った。父は短気だったから、多少の怖さがあったのだろうと思う。
映画館の座席に腰をうずめると、父は無心に移り変わる映像を目で追っていた。ある時、銀幕の青白い光をその横顔に反射させながら、目尻から一筋の涙を流し、それが襟元まで垂れていたのを見たことがある。父はそれを拭おうともしなかった。本来父親の存在が疎ましく思われる年頃であったが、私はそれほど嫌いではなかった。アルバイトをしながら卒業するという約束を父として、私はこの大学に入った。
車は東北道を宇都宮方面に向かっていた。カーステレオからショパンのノクターンが流れていた。私は両腕を頭の後ろに組んで、流れていく高速道路の単純な景色を見ていた。「夏子んちハイだよね。お父さん、何百人も社員のいる会社のオーナー社長で、やり手でお金持ちだし。おじいさんは優しくて紳士でとてもいい人なの。お祖母さんは夏子が小さい頃なくなっちゃったんだよね。でもその方は本当のお祖母さんじゃないんだね。本当のお祖母さんは夏子が生まれるずっと前に亡くなっちゃったんだよ。夏子のお母さんはね、もともとは由緒ある家系のお嬢さんなんだって」
「へえ……」
私は横を向いて窓の外を見た。高速道路は同じ光景ばかりが続いていく。
「由緒ね……」
私はどこかの博物館にでも展示されているような仰々しい家系図を思い浮かべた。私は自分の祖父母以前の系図などまったく知らない馬の骨だ。
「由緒って何?」
「由緒知らないの?」
「……」
「……」
由美はちらっと私の顔を見てから何かを考えていたが、やがてこう言った。
「でもね、そういうの感じさせないとっても気さくな人だったよ」
「そういうのって?」
「うん、だから、私が遊びにいくとね、いつも手作りのケーキを御馳走してくれたの。夏子ってさ、あのおかあさんにとっても性格がよく似ているんだよね。愛情のある裕福な家庭に育ってあまり不自由もなかったみたいだから、誰にでも同じように接するの。特におじいさんにはとてもかわいがられていたみたいだから、お祖母さんの血を引いているからね、そういう愛情を一杯吸い込んで育ってきたのね。わかった?」
由美がそう言った。
「素晴らしい家族だね」
とだけ、私は由美を交えたその場の光景を思い浮かべながら呟くように言った。
先ほどからカーステレオにかかっているショパンのノクターンの音色が気になっていた。
「いつもこれかけてんの?」
「たまたま入ってたんだよ」
「ふーん…… 運転してて眠くならないか?」
「大丈夫」
「夏子に借りたノクターンのCD、結局返せなかったよ」
「いいんじゃない、もらっておけば? 夏子いっぱい持ってるし。よく眠れるでしょ、ショパン」
「眠れる。あれ聞いたとき、頭の中がとけるみたいに気持ちよくなっちゃってさあ、すごいよね。朝起きた時、そのせいなのか、なんかスーッとしてるんだよ。まったくいまさらだけどショパンも聞いたことなかったなんてね。恥ずかしいよ」
確かに初めて聞いたノクターンの音色には、頭の中がとろけるような甘美な響きがあった。その音色を聞きながら、私はあの時の夏子を思い浮かべていた。
私たちは学生食堂の二階の壁際に作られた喫茶室のテーブル席に座った。夏子は私の隣に座った。大きな窓からは、隣接する白い三階建の美術学科の建物が見えた。
大方は浩介が会話をリードしていた。浩介は夏子や由美や私よりも二つ上だし、いろいろなアルバイトの経験もあり、また、遊びなれている部分もあって話題は豊富だった。しかし彼は、決して自分だけの話に夢中になることはなかった。四人の誰かを話題にしながら、差し障りのない表面的な話で常に和やかな雰囲気を作り出そうとしていた。あの時は確か新宿のフルーツパーラーの食べ放題に行った、という浩介と由美の話から、小さいころからよく両親や祖父に連れて行ってもらったという夏子が加わって大いに盛り上がっていた。私は行ったことがないので、しばらくの間そのフルーツから派生する様々な三人のはずむ会話を黙って聞いていなければならなかった。時々浩介がちらっと私の顔を見るのは、彼がこういう会話をしているさなか、それぞれがどういうポジションにいるかを無意識に観察しているからだ。
夏子は、会話の中にでしゃばって入ってくるということがなく、自分の話もするが、どちらかと言えば謙虚で控えめな性格で、話を合わせて相槌を打つか、微笑みながら聞いているかのどちらかであった。ただ、音楽の話題になると彼女は目を輝かせ、白い歯のきれいな笑顔を見せながら言葉が多くなった。
夏子はシューベルトやマーラーの曲を練習することが多かったが、ショパンのピアノ曲も好きだった。何人かの作曲家の中からショパンの話題に移ると五本の指をテーブルの上で小刻みに動かしながらそのメロディを小さく口ずさんだりした。しばらく夏子と由美が音楽の話を続けている時は、浩介は聞き役に回っていた。しかし、不器用にただ聞いている私と違って、浩介はタイミングよく合いの手を入れたり、質問をするので、事実上は相変らず三人で会話が進んでいたのだ。私はこういう時、何を言ったらいいかわからずに黙ってしまうことが多かった。そして半透明な壁の向こうで、夏子と由美と浩介の三人だけの世界が進行して時がたっているように思えた。結局それは、私の僻み根性でもあったのだが、楽器を自由に演奏できる彼女たちと、役者としての経験を積んでいる浩介との技術の上での暗黙の了解のようなものを感じざるを得なかったからである。あのときもそうで、私は初めて会った夏子が気になっていたが、音楽全般について詳しく知らなかったし、彼女が何を感じ、何に夢中になっていたか、想像することが難しかったのだ。だが、あの時、
「本当は私ね、ショパンが一番好きなの。でもピアノ下手だったからね…… 母に無理やり習わされたけどだめだったの。でも音楽は好きだったから、子供のころから面白がって馴染んで遊んでたコントラバスにしちゃった。ねえ、知ってる? コントラバスって、運ぶの大変なんだよ。学校にも置いてあるんだけど、自分のを持っていくこともあるの。エスカレーターを昇り降りするときが難しいのよね。キャリーカートに縛り付けて乗せて、それを支えながら、私が一段上に登って、くるっと反対向きになるんだよ。だから昇りだとみんな上を向いているんだけど、私だけ反対側を向いてるの。みんなじろじろ私を見てるんだよ。初めはちょっと恥ずかしかったけど、もう慣れちゃって、上手なものだよ」
コントラバスを運ぶ時の話をひたすら強調して笑った夏子は、
「ふーん」
と言った私のほうへ顔を向けた。夏子は浩介のように無意識のうちに人を識別するようなことはない。由美の言うように誰に対しても同じなのである。
「俊はショパン、聞いたことある?」
半透明な壁が唐突に破れて、私は自分の顏が熱くなるのを感じながら少しどぎまぎして答えた。
「……ドボルザークなら最近毎日聞いてる。バッハも少し……」
「へえ、バッハ」
「うん、 何か考えてるとき、バッハのチェロっていいんだよね」
「そう? どんなふうに?」
夏子は目を輝かせて私を見た。
「複雑な気持ちになった時ね、複雑なって、英語でコンプレックスって言うんだよね。なぜだかバッハのチェロを聞いているとそのコンプレックスって言葉が浮かんでね、硬くなった心がほぐれていくような気がするんだ。自分だけかもしれないけど…… でもそれだけなんだ。恥ずかしいけどショパンは知らないんだ。誰でも知ってるのにね、バッハは高校の時、一人の友達がいてね。彼がよく聞いてたんだ。その影響でかな、聞くようになったんだよ。いろいろないきさつがあってね」
浩介はあまり興味はないようだった。由美は話の流れの中で、自然に私の次の言葉を待っていた。夏子は私の話に興味を持ったようだった。それで急に話題が変わり、私の個人的な話になってしまった。それまでの雰囲気にはそぐわなかったが、夏子は耳を傾けて聞いてくれた。夏子は人の話を聞くのに、ある程度自分を犠牲にして誰にでもそうするのである。私は、浩介のようなそつのない雑談というものが苦手で、ある意味ではこんな、言ってみればぎこちない話しかできなかったのだ。私が話し出してしまったその友達とのいきさつはこうである。
高校二年の時、「自分を取り巻く環境について」という指定された課題で、原稿用紙五枚ぐらいと言われた夏休みの国語の作文の宿題を百枚近く書いてしまって、そのまま提出したことがある。あの頃の私自身のどことなく鬱屈した精神状態を吐き出すように書き綴ったもので、ただ誰かに読んでほしかったのだった。国語の教師がそれを最後まで読んでくれて、ある日の授業で私の名前を伏せながらそのことを話題にしたことがあった。内容はともかく、それだけの枚数を書いたことを褒めたあと、八十枚目に煙草の焦げ跡があったことを付け加えて、笑いながら苦言を呈していたことを覚えている。
その教師は他のクラスでも同じ話をしたようで、その後Tという、部活で一緒だった友人が、あの作文は君が書いたのだろうから全部読ませてくれ、と言ってきた。四、五日たって、ある政治団体のデモ行進に参加してきたというTは、学校近くの薄暗くなった公園で原稿を私に手渡しながらこう言ったのだった。
「君は、政治のこととか、日本が今どうなっているとか考えたこともないだろう。」
それは別に私をとがめるわけでもなく、あるいは馬鹿にするというのでもなく、どこかにあきらめを感じさせるような乾いた口調でそう言ったのだ。だが、唐突に言った彼のその言葉に私の心のある部分がボソッと砕かれたような気がした。確かに政治とか、日本がどうなっているかとか、そんなことは自分の知ったことではなかった。生まれ出たこの世界で、私は様々な矛盾を感じながら、自分を脅かすものや、悩ますもの、あるいは満足させるものをありのままに受け入れ、あるいは翻弄されつづけていたような気がする。最大の関心事は、この世の中という広大な水面に、それが環境であるということにも気づかないまま揺られている自分自身そのものであった。
日が暮れて、背後からの外灯の光がTの顏を半分陰にしていたが、その目の表情はよくわかった。私は雨ざらしになっている古びた木製のベンチに腰かけていた。Tは笑っていたが、その笑いは妙に寂しそうだった。
「いや、俺も、ただ、行ってみただけさ。たまにはこういう世界もいいと思ってね。ところで、君はこんな詩を知ってるかい。」
そういって、彼はまるで舞台俳優が宙に向かってセリフを説くように、身振り手振りを交えて、誰かの詩の一節をそらんじ始めた。だが、それは私の理解するところではなかった。Tの目は、何か、底知れない寂しさのようなものを秘めていた。そして眩しそうに彼の顔を見上げている私を、コミュニケーションのとれない一方的な微笑で時々見下ろすと、おそらく、何を言ってもわからないだろうというような独善と孤独を感じさせながら、なお、不思議な言葉の羅列によって何かを訴えかけようとしていた。だが、しばらくしてふと口をつぐんだ彼は、やがてこう言った。
「みんなの中にいつもいるんだ。いろんな奴がいる。気のいい奴も、難しい奴も。ワイワイやりながら、毎日が過ぎていく。俺はいつものTだ。冗談も言うし、人一倍陽気な時もある。そんな俺をとがめるやつもいないし、変に思うやつもいない。だけどその中を俺は、一枚の葉っぱのようにくるくると回りまわって、水たまりの中に落ちていく。いろんな奴と話している。いろんな奴と冗談を言い合っている。だが、俺は一人だ。いつも。家族の中にいても。」
私はうつむいて聞いていた。わかるような気がした。いつも自分が感じているあの感情を言っているのかもしれないと思った。だが、私はTほど冗談を言わないし、人一倍陽気な時もなかった。私にとって、Tは、むしろ、非常に輪郭のはっきりした人間に見えていたのだった。成績は私より上だし、彼の家庭環境も、また経済状況も私とは比べようもないほど恵まれた状態だった。それは私が自分自身に描いていた、存在感の薄い、周囲に埋没してしまいそうな危ういイメージとは対照的なものであった。私は言い返すべき言葉を探していた。それは自分の胸を深く探らなくては出て来なかった。
「気のきいた返事ができなくてごめん」
と、私は言った。
「俺の口から、誰かの詩の一節なんかも出ないし」
Tと私は同じ姿勢のままずっと黙っていた。
「そうか、でもよかったよ。君の前でこの詩をそらんじることができて。いや、こんな瞬間があって。あの連中の中で、俺はいつも快活を装って、気の利いた冗談を言って笑わせて、難なくうまくやっているように見えるけど、俺は何もしゃべっちゃいないんだ。俺はいつも黙っているんだ。このたまりに溜まった心の中の袋をちょっとでも開けようものなら、彼らは急に白けて、やり場のない困った顔や作り物の笑いを見せながらこそこそと俺の前から去っていくんだ」
三年生になると、部活は実質もう終了していた。クラスも違っていたので、Tとはあまり顔を合わすことはなかった。だが、受験に対する周囲の雰囲気も本格的になりつつあった十月のある日、私は、しばらくTを見ていないことに気がついた。Tは夏休み明け、風邪を引いたということで休んだが、それ以来姿を見せなくなっていた。そのうちに、彼がいないことを誰も気に留めなくなり、担任の教師からも何の説明もないまま、いつの間にか級友たちから忘れ去られてしまったようだった。
年も押し迫ったころ、私は、神奈川の新興住宅地に建てられた真新しいTの家を訪ねた。彼は自分の部屋のベッドに半身を起こしていた。小さな音で流れているのはバッハの「チェロ組曲第三番ハ長調」だと教えてくれた。私がその音色を聴いていると、Tが言った。
「いつも聞いているんだ。よかったらCD何枚か持っていくといいよ。きっと気に入ると思うよ」
Tはベッドの頭にある小さな引き出しから三枚のCDを出して私に差し出した。
「ありがとう、聞いてみるよ」
私はそれをショルダーバッグの中にしまった。Tの母親が、優しそうな笑顔を浮かべて、紅茶とケーキを運んできてくれた。その表情の裏に隠された疲労と憔悴のようなものを私は感じた。
「よく来たね。すぐにわかったかい」
Tは改まったように私の顔をみて言った。
「少し迷ったけどね。新興住宅地で似た感じの家が多いんだね。」
彼の家は高台にあって、部屋の窓からはその住宅地のほぼ全景が見わたせた。
「体の具合どうなんだ?」
Tは陽気さを装って笑ったが、どこか寂しさを隠しきれなかった。
「こういうことなんだ」
Tは枕元に置いてあった大学ノートを開いて、そこに細かく書かれた文字や記号を私に見せた。そこには文章の合間に数式や化学の方程式などが書き込まれていた。彼はそれを私の知らない専門用語を交えて説明を始めた。それが、彼が今飲んでいる薬の成分や効能であることがわかったのはしばらく後だった。そしてその薬が、肉体的な病状を治療する薬ではなく、彼の精神に作用する薬であることもじきにわかった。
「しばらくはかかるかもしれないけど大丈夫だよ。今は休養の時期かもしれないな。大学受験は一年あきらめるしかないけどね」
そう言ってTはまた陽気さを装って笑った。笑い終わってから、薬が影響しているのか、Tはひどく眠そうな顔をした。バッハの「二つのバイオリンの為の協奏曲」が静かに流れていた。これもその時、彼が眠そうな声で教えてくれたのだ。
Tはそれから一回も登校せず、卒業式にも姿を見せなかった。
その後、連絡は途絶え、彼と会うことはなかった。私は大学生になっていた。Tが死んだという話を聞いたのは二年生の夏休みに入った頃だった。その前の年の九月、オートバイを飛ばしてそのままなだらかな下り坂の緩いカーブの白いガードレールに激突して死んでいたのだった。
そのような内容の話だったが、私は思うように三人にうまく伝えることができなかった。何を伝えたかったのか、自分でもはっきりしていなかった。浩介は白い歯を見せてにこやかな笑みを作りながら、このひとときをお開きにしようと腰を浮かせた。
「俊はまじめで、難しく考える方だからね。その友達も。だけど俊、とらえ方ひとつだと思うよ。嫌なことあったってすぐ忘れちゃえばいいんだし。それ以上に楽しいこといっぱいあるじゃん。そっちの方に目を向けた方がいいと思うんだ。あ、ごめん、なんか偉そうだったね。さ、行こうか」
そう言って立ち上がり様、浩介は愉快そうに由美と夏子に目配せをするようにして笑った。由美は浩介が立ち上がるとつられたように腰を浮かせたが、夏子は座ったままで私を見ていた。そしてどんな言葉を出そうか迷っていたようだったが、やがてこう言った。
「……あたしもバッハもう一度よく聞いてみるね。それから、今度ショパン、私の貸してあげるから聞いてみてね。聞いてると、頭の中がとろけるようになってすごく気持ちが良くなるんだよ」
夏子はそう言って目を輝かせて笑顔を作った。不思議な子だと私は思った。その笑顔を私は今でも忘れていない。
「降りるよ、俊」
由美が言った。いつの間にか目的地に到着していた。まだ免許をとって間もない由美は、少し緊張した顔で駐車スペースにバックしながら一度車を止め、右の窓を開けて頭を突出し、後部車輪の位置を確かめながらまた後ろに動かした。この時、車の横に茂っていた灌木の枝葉が由美の髪の毛を撫でた。
「バックって難しいよね」
由美は車を止め、窓を閉めると、突然黄色い声を張り上げた。
「わあ、蜘蛛! 何でいるんだろう、こんなとこに」
見ると、右側のドアの取っ手の下に体長一センチぐらいの蜘蛛が這っていた。
「今そこの木の葉っぱにいたんだよ」
「うわあ、とって、とって、俊!」
私は備え付けのティッシュペーパーを抜くと手を伸ばしてその蜘蛛をつまんで紙の中に丸めた。
「ああ、びっくりした。夏子だったら卒倒しちゃうよ。蜘蛛大嫌いなんだよね」
「そうなんだ」
私は蜘蛛の入ったティッシュペーパーをさらにくちゃくちゃに丸めて座席の下のくずかごに捨てた。
それから私たちは車を降りて華厳の滝のエレベーターの入り口に向かって歩き出した。日曜日ということもあって、かなりの数の観光客で賑わっていた。
「焼きトウモロコシ食べようか」
由美がいたずらっぽい目をして言った。
「俺はいいや……」
私がそう答えたので二人は醤油の臭いのするトウモロコシの焼台の脇を何も言わずに通り過ぎた。
「俊てさあ……」
「何だよ?」
「夏子たちとみんなでいたとき、いつも先帰るって言ってどっか行っちゃったよね」
「そんなことないけどね……」
「いつだったかも、夏子とあたしと浩介と俊と四人でパスタを食べに、店の入り口まで来て、用事があるからって」
「バイトしてるし」
「バイトって学校行ってるときは五時からじゃないの?」
「早いときもあるんだ。何で聞くの? そんなこと」
「夏子少し気になってたんじゃない? 俊のこと」
「……それはない」
「どうして?」
「どうしてって…… 話していればわかるよ。ニコニコして、話聞いてくれていたけど、本当は窮屈だったんじゃない? 気の利いた話できないし。逆に浩介と話している時なんかはずいぶん楽しそうだったよ。目を見ればわかるよ。そんな時がたくさんあったし」
私は自分を否定するようにそう言った。それは私の癖だった。
「そうかもしれないけどさあ…… 浩介は小さいころからドサ回りしてたから、いろんなこと知ってるしね。それにあたしたちより二歳上で苦労人だし、遊び人だし、ずっと大人だよ。セックスのことだって俊には恥ずかしくて言えないこともたくさんあるんだよ。だからしょうがないよそんなこと。俊はまじめだから……」
由美はそう言いながら少し顔を赤くして下を向いた。
「たくさんはないけど…… でもそうだった?」
「何が」
「夏子が浩介を見る目」
「……」
私たちは、急にしらけたように何もしゃべらないまま、華厳の滝エレベーター昇降券売り場まで歩いた。穴の空きそうな汚れたスニーカーが、ひたひたと交互に出て私の影を踏んでいた。
「エレベーター代払うよ。おととい給料入ったんだ」
「いいよ無理しなくて。あたしたち別に恋人同士じゃないんだから。ねえ、夏子のこと好きだったんでしょ」
「何で?」
エレベーターは隙間のないほど混んでいた。特に子供が多く、その喧騒の中で私と由美は隅っこに押しやられた。
「今日は普段より風が強くしぶきが舞っていいますのでお気を付け下さい」
年輩の係員が丁寧な口調でそう言った。
エレベーターを降りて、白くに塗られた通路を抜けると、いきなり冷たい水しぶきを浴びたような気がした。
「ひゃっ」といって由美はバレリーナのようにくるっと一回転した。
「ナイアガラには全然負けるけど、結構迫力あるね」
「あるね」
由美は、華厳の滝に、夏子との別れのために持ってきていた小型のデジタルカメラを向けて何回もシャッターを押している。子供のころ一度来たことがあったようだが忘れてしまった。半分馬鹿にしていたが、少し見直して、私はその水しぶきに見とれていた。
「写真撮ってもらおうか」
由美が言う。私は由美の顔を見た。髪の毛に細かい霧状の水滴がついている。
「何で」
「何で何でって、思い出じゃん、ただ学生時代の。卒業しちゃったら、多分もうみんな会えなくなるんだよ。本当は夏子と並んで撮れれば良かったのに」
私は答えなかった。由美は私の顔をのぞき見ていたが、ふいっと後ろを振り向くと、笑顔を作ってまだ幼い子を連れた若い夫婦に声をかけた。奥さんが快い返事をして由美のカメラを受け取っている。私はその場を離れて、土産物屋に入った。
「俊」と由美が言ったので、私は苦笑いをしながらその若い夫婦に軽く会釈をした。彼らは由美を気づかうように見ている。由美は済まなさそうに頭を下げて奥さんからカメラを返してもらうと、呆れた顔で私のそばまでやって来る。そして、しばらく、私が土産物を見て回るのについて行った。
「俊。変な女に引っかからないでね」
「変な女?」
「卒業してからの話。俊て何にも知らないじゃん。ひょっとしてまだ童貞?」
「……」
私は自分の顏が赤く熱くなったのがわかった。ぺっと唾でも吐きたい気分だった。そうだよ、何も知らないんだよ、と私は思った。男と女のことなんか…… 由美の言葉に反発するように、くだらねえ、と私は心の中でつぶやいた。――だいたい、浩介と付き合っていながら、なんで今ここで私と一緒にいるんだ……。
「帰ろうか」
しばらくして私は言った。由美は黙っているが、私が何も買わずに店を出るのでその後をまたついてくる。
「鈍感だしね」
そういって由美は私の足もとを指さした。
「絡むじゃん今日。自分こそ浩介とどうなんだ」
そう言いながら私はふっと何かにつまずいた。左足のスニーカーの紐がほどけていたのに気がつかずに歩いていて右足で踏んでしまったのだ。かがみこんで、足元の水に濡れていた靴紐を結いなおして立ち上がると、由美の疲れた顏が見えた。
その時、遠く離れた滝つぼのほうから、(私はそう感じた)強い風が突然舞い上がってきた。服に湿り気を感じるほど水分を含んだその風にさらされて、私は思わず滝の方を見た。そそり立つ岸壁の上から勢いよく流れ落ちてくる水の塊は、風に揺らめく絹の布のようにゆっくりと舞い降りたかと思うと、四、五秒もたたないうちにその中間あたりに位置している岩にぶち当たり、白いしぶきが飛び散って、立ち昇った風のせいかある部分は霧となって空中を舞いながらこの展望台の上をさまよってキラキラと無限に光り輝いていた。それでも多くの人は髪の毛や衣服が濡れてしまうのを厭って一分間もこの光景を見続けてはいなかった。カメラを構えるか、自分たちが記念撮影の対象になって、入れ代わり立ち代わり流れてはその場から消えていった。そうした中で私がその輝きをじっと眺めていたのはあの時のことを思い出していたからだった。
一度だけ私は、父が何回目の転職の合間に一時期やっていた排水槽清掃の仕事を頼まれて手伝ったことがある。いつも四人でやるのだがそのうちの一人が体調を崩したので、急きょその代りを父に頼まれたのだった。その排水槽と汚水槽は、東京の都心にある高層ビルの地下三階のさらに下にあった。高層ビルは地下一階と地上三階までが高級な飲食店街になっており、四階から二八階までが様々な企業のオフィスとなっていて、スーツに身を固めたビジネスマンや、飲食店街の客たちでにぎわっていた。地下二階と地下三階は駐車場になっていて、そこには一流企業のロールスロイスやベンツなどの高級社用車が停車していることが多く、たまに赤いフェラーリが何台か止まっていることもあった。
地下三階の駐車場の隅に黒いマンホールの蓋がある。それを開けると、中には三メートルほどの鉄の梯子があり、その梯子を降りると、灰色のコンクリートの荒壁に囲まれた幅十メートルほどの薄暗い通路が伸びている。コンクリートがはげ落ちた部分が、淡い蛍光灯に照らされて、どこかの地方の腐りかけた地図のように見える。どこから吹いてくるのか首筋を冷たい風がなでる。通路の行き止まりの右側に人の背丈の一・五倍、そして、間口が二十メートルほどの高さの建造物があり、扉を開けると、中には、薄汚れた大きな排水ポンプが四台並んでいる。そのポンプに接続されている太い配管が壁を貫通している。そして床の部分には二つの長方形の大きな黒いマンホールの蓋がある。この下に、八畳間ぐらいの広さで深さが四メートルほどの暗黒の排水槽と汚水槽がある。階上の飲食店で出た調理の油や排斥物、そしてトイレで排出されたこのビルの人々の糞尿などがこの槽にいったん集まり、排水ポンプによって道路下に設置された排水管に流れ出て行くのだ。この地域の地盤は、江戸時代の埋め立て地らしく、排水槽のあるその建造物の向かいは深い堀のようなくぼみになっていて、そこは照明もないために暗く、よく見れば暗黒の水がどのくらい底が深いのかもわからず不気味にたまっていた。この辺のビルは水の上に浮かんでいるようなものだ、だから、大地震が来たら大変なことになる、と父が言っていたのを思い出す。階上は大都会の様々な表層の出来事や物であふれ返っているが、ここは薄暗くすべての装飾もはがされたような沈黙の世界なのだ。そしてこの沈黙の中で、あの表層の巨大な排斥物が黙々と処理されている。
私の役目は、蓋のあいたマンホールに人が近づかないように監視しながらずっと立っていることであった。そのマンホールの隣にある駐車スペースに、槽の中の、排水管に流れ切らずにたまった油の塊などの廃棄物や汚物を吸い取るためのバキュームカーを止め、そのホースを下に通すためマンホールは開けたままにしておくからだ。地下四階に出入りする扉はあるのだが、この場所からかなり離れたところにあり、しかも、オフィスや飲食店で使った什器などがそのまま乱雑に置いてあって開閉ができなかったのだ。
しかしこの時間、人がこの場所に来ることはめったになく、あまりの退屈さに、私は父に黙ってマンホールの中へ降りて行った。排水槽のある建造物の扉をそっと開けた時、鼻を突くような酸の臭いがした。マンホールの中をのぞきこんでいる作業員の低く落ちついた声が響いた。父の声ではなかった。
「右側のポンプ、ゴミが詰まっているかもしれないから、あとで見てくれる?」
「うおーい。了解」
父の声は排水槽の底からもっと大きく響いていた。その声は、一見過酷に見えるこの労働に似合わず、ゆったりと落ちついていた。いや、あえて落ち着いているように努めているようにも思えた。
それから私は、あの輝かしいほど燦々ときらめいて飛び散っているしぶきを見たのだ。それは蓋を開けられ、バキュームに吸い取られて空になった汚水槽の中に腰まであるゴムの長靴をはいて入った父の、ホースの先から勢いよく放たれた水が槽のどろどろに汚れた壁にあたって激しく飛び散り、そのしぶきを、強力な作業用のライトが見事なオレンジ色に染め上げたものだった。しぶきは父が向ける放水の位置によってライトの光の当たり具合が変わり、小さな虹ができたり消えたりしてその色は微妙に変化していった。私は唖然として、おそらくわずかな人間を除いては見ることもできない、この大都会の地面の底に舞っている輝かしいしぶきの光をじっと見ていた。それは、目の前のやらねばならない仕事に持ち合わせている力の限りを打ち込もうとしている父の孤独な勝どきの炎のようにも思えた。
夏休みが終わり、九月になった。
窓のガラス戸がガタガタと揺れる音で目を覚ました。外では季節外れの大型の台風が暴れまくっていた。小さな三階建の古びたビルとビルとの間にはさまれた狭い木造の自宅の玄関を出ようとして、強い風に帽子を飛ばされた。それは勢いよく舞い上がって隣のビルの屋上の囲いに引っかかったと思うと、すぐまた遠くへ飛ばされて見えなくなってしまった。
駅へ向かうと、小田原行きと新宿行きの電車が踏切のわずか数メートル手前で止まっていて、警報機が長い間鳴り響いている。雨はそれほどでもないが、一本のビニール傘が強い風に吹き飛ばされて線路にたたきつけられていた。
しばらく電車が動かないこと知った私は、今来た道を引き返そうとしたが、その時、突然二匹の野良犬が私の足もとを擦るようにして車道に飛び出していって、急ブレーキを踏んで止まった黒い高級車の前を間一髪走り抜けた。
乗用車を運転していた初老の紳士の隣には、目を大きく見開いた髪の毛の長い若い西洋人風の女性が両手で口を押えていた。その顔は私をひどく驚かせた。やがて車はまた動きだし、そのまま交差点を左に曲がってしまった。私はしばらく今車が曲がって行ったばかりの交差点を呆然として眺めていた。人違いだよな、と私は思った。
何かに感動したり、少しオーバーに驚いて見せたりするときに目を見開いて両手で口を押えるのは夏子の癖だった。顔半分が両手で隠されていたが、あれは夏子に間違いない。そして夏子の家は、この沿線の10キロほど小田原寄りにある高級住宅地にあったのだ。だが、すぐに私は冷静になった。他人のそら似というのは本当にあるものだ。本人であるわけがなかった。夏子は今ロンドンにいるのだ。
しばらく電車は動かず、その日は結局大学には行けなかった。
それから二週間ほどたったある日、午前中の授業を終えて学食へ行くと、日焼けした浩介が一人で空になった天ぷらそばのどんぶりを横に置いてカレーライスを食べていた。以前よりも派手な格好をして耳には小さなピアスをしている。
「帰ってたのか、浩介」
「久しぶりだな、俊。先月帰ってたんだけど、帰ってから別な仕事もあって。俺今、夜新宿でアルバイトしてんだよ。ホストクラブなんだ。これいいからね」
といって、浩介は親指と人差し指で輪っかを作った。
「ホストクラブ? へえ…… すごいところでバイトしてるんだね」
私は妙に感心して浩介をまじまじと見た。私とは全く別の世界にいる人間なのだ。
「いい色に焼けてるね」
「これは日焼けサロンだよ」
「ふーん…… 今日はひとりか? そう言えばここ二週間ぐらい由美とも会ってないな」
浩介はさっと顔色を変えた。
「あいつ…… ちょっと今調子悪いんだ」
「え? どこが悪いの?」
「ちょっとな……」
「……」
浩介が一瞬自分のへその下あたりを押さえるようなしぐさをしたような気がした。俊て何にも知らないじゃん、と言った由美の言葉を思い出した。私は浩介の前に座った。自分だけが取り残されているような気もした。
「忙しかったのか、撮影」
「俺なんかの場面はとっくに終わっちゃったんだけどね。そのあとも撮影にかかわっていたかったから荷物運びや小間使いみたいなことやらせてもらってたんだ。おかげで何人かの俳優さんと知り合いになれたよ。いろいろ話せば長いんだけどね。それでさあ、聞いてくれる? 何とYにも声かけられて、再来年封切りになるY主演の映画に出させてもらうことになったんだ」
「え! Yって…… 俺ら学生にとっちゃ、雲の上のそのまた上の人じゃないか。その映画に出られるの。それはすごいなあ、浩介」
「そうなんだよ、声かけられただけでも舞い上がっちゃうのにさあ、Y監督主演の映画に出られるんだぜ。セリフも結構あるんだ。俺頑張るよ、こんなチャンス、一生に一度あるかないかだぜ」
浩介は目を輝かせてそう言った。
「うらやましいよ、そういう浩介が」
「俺思ったんだよ。何でも動いてみれば、いろんなチャンスにぶつかるよ。それを確実につかんでいかなくちゃ、俺たちの世界は拡がっていかないんだ。こう言っちゃなんだけど、毎日毎日まじめに大学に通ってるだけじゃやっぱり駄目なんだ。経験がないからさ。ひょっとしたら俺単位が足りなくて、留年しちゃうかも知れないけど、いいんだ。俊だってもっともっといろんな経験してみればいっぱいいいシナリオが書けると思うなあ。例えばこっちの方だってさ」
そう言って浩介は白い歯を見せて笑いながら右手の小指を立てた。私もつられて無難に笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「毎日まじめに通っているだけってわけじゃないさ」
私が少しむきになりかけてそう言うと、浩介は人懐こそうに笑った。
「俊、今度おもしろいとこ連れてってやるよ。」
「おもしろいとこ?」
「新宿だよ。ゲイバーもあるんだ。行ったことないだろ。だけどああいうとこには面白い奴がいっぱいいるんだ」
「へえ…… 知らないんだ、そういうとこ。確かにおもしろそうだけどね、でもやめとくよ」
私はジーパンのポケットにごそごそと手を入れて、小銭を探していた。財布には、アルバイトでもらった一万円札が入っていたが使いたくなかった。
「飯はやめとこう。あんまり食いたくないし、金もないし」
「俊はまじめ少年だからな。だけどそこが俊のいいとこさ」
浩介はそう言うと、何か滑稽な男でも見るような笑い方をした。
私にとって浩介は全く異次元の世界にいる人間のように思えた。彼は髪の毛をブロンズに染めていたし、着ているものも私のような貧乏学生のそれとちがって、ブランド物のカジュアルシャツに、シルクのネッカチーフをして、両耳にはピアスもしていた。日焼けサロンの効果は抜群で、彼の皮膚はまんべんなく程よい色に焼けていた。ホストクラブでいい金をもらっているのだろう。ひざの擦り切れたGパンに、汚れたスニーカーをはいた私とでは、どう見てもつり合いは取れそうもなかった。ただ、私は浩介と私のそのような格好の違いにほとんど興味はなかった。
「ところで……」
と、浩介は言った。
「おととい新宿で、夜、夏子を見たような気がするんだ。」
「……夏子に?」
私は一瞬どきっとした。
「駅前さ。俺夜バイトでさあ、南口のあたりを歩いていたら小田急の方の改札に向かってきて一瞬すれ違ったのさ。彼女小田急線だろ? 顔はよく見えなかったけど。でもまさかと思ったからさあ、そのまま通り過ぎてしまったんだけどね…… 外人ぽい顏だから区別つかないところがあるからな。それにあいつ今はイギリスだもんな」
「だってこの間行ったばっかりじゃないか。そんなのあり得ないよ」
「そうだよな。他人のそら似さ。日本にいるわけないもんな」
「似ている人間ているもんだよ」
ある意味では、この間、私が自分の家を出たところで見たあの西洋人らしい女性のしぐさは、夏子に限ったことではなかった。若い女性なら誰でもやることなのだ。しかし私は、すぐ「夏子」を思った。浩介もそうだったのかもしれない。新宿の雑踏の中に、いつも見慣れていた「夏子」を見たのだ。
私が黙ったので浩介も黙った。二人はしばらくそうしていた。
にぎわっている学食はふだんとまったく変わりがなかった。もっとも私にとってこれだけ大勢いる学生たちなど何の意味もなかった。私たちの学生生活はいつも三々五々、知り合って心を通わせた限られた友人たちとの日常の繰り返しでしかなかった。学食のにぎわいは変わらなかったが、私の日常の中では夏子が一人いなくなっていたのだ。それは浩介も同じだったのだと思う。私は学食の大きな窓から外を見た。
三階建の白い美術棟の裏の一階にある赤い両開きの通用口が開いていて、そのすぐ外側に例の男がいた。その通用口の内側は美術棟の学生たちの作業場になっていて、建物と砂利道の通路の間の幅三メートルほどのすり切れた芝生のスペースでも、雨の降らない日には何人かの彫刻科の学生が建物の外にブルーシートを敷いて作業している場所だ。その男は週に何日かそこで自分の頭ぐらいの粘土を形作っていたり、アラバスタ―の石を削ったりしていた。夏子がイギリスに飛び立った日、アルバイト先ですれ違い、そして由美が車でやって来た工場の前の川沿いの緩やかな坂道を登って行ったあの男だ。そして、浩介の友達が主催した絵画展で、一人ポツンと受付の椅子に座って私たちを見ていた男だ。小柄で上半身の肉付きがよく、首元が伸びきって大きく垂れ下がった白いTシャツを着ていた。猫背の肩の上のぼさぼさの髪の毛は、確かあの時と同じだ。あの時その顔に浮かんでいた人を小馬鹿にしたような奇妙な微笑は遠くからではわからなかった。私は少し前から彼の存在に気がついていたが、特にどうするということもなかった。話したこともないし、だいいち、あの時のあの不遜な表情には生理的な嫌悪感があったからである。だが、この日、私はこの男になぜか興味を持った。今目の前にいる浩介の世界とは真逆の雰囲気をかもし出していたことに興味があったからかもしれない。
浩介と別れて、私は美術棟の裏に近づき、大きな欅の木陰に腰掛けながら、彼が扉の外で石を削っているのを見ていた。彼は、おそらくあの時と同じ、解析不能な薄ら笑いを浮かべながら、ちらっと横目で私を見たが、しばらくして左手の掌を痛そうにぶるんぶるんと振った。
「左手の小指と薬指が動かないんだ、小さいころから。三本ヒかきかないから痛いんだよ」
と言って、彼は顔を赤らめた。
「それと聞きづらいだろうと思うけど」
彼はブルーシートの上に「し」と書くしぐさをして、言い訳をするように言った。
「これ、ヒとヒか発音できないんだ。どうヒてか、じ、は言えるんだけどね」
「そうなんだ」
私は彼の書いた「し」の字を思い浮かべながら彼の口元を見た。
「あと、笑うと右の唇がひん曲がる。だから、笑うのが嫌いなんだ。でも笑う時には笑わなくちゃならないからな。これで俺は小学校や中学校の頃、クラスの奴らが面白がって格好の餌食になった」
「……」
今まで話したこともない人間に向かって唐突に自分の恥部をさらけ出すような態度に
まず私は驚いた。彼はそういう私の反応を無視していぶかしそうに顔をゆがめて言った。
「何学科? よく学食で見かけるけど。と言ってもあのでかいガラス窓越ヒからだけどね。よく見えるんだ、ここから。それと七月にやった絵画展でも見たね。よく覚えているよ。記憶力はいいんだ、小さいころから」
彼は左手の親指と人差指と中指をさすりながら、削っている石にまた目をやってそう聞いた。
「映画。シナリオの方だけどね」
「ふーん」彼はそう言ってハンマーを振る手を少し休めた。私は彼に言った。
「この間空港の裏の段ボール工場の前であったね」
「ああ、入り口のとこでな。俺もあそこでバイトヒようと思ったんだけど、やめにヒたんだ」
「気に入らなかったのかい」
「ああ、五分で見切りをつけたね」
「五分でって、何が気に入らなかったの?」
「顏がさ」
「え?」
「面接をする男の」
「……」
私は彼の顔をまじまじと見た。それからあの社長の間延びした、そのくせ、どこか腹の底で人を食っているようなまなざしを思い浮かべた。
「それだけでやめてしまうの?」
「悪いか?」
「いや、悪くないさ。だけど金がいるんだろう?」
彼は、何も答えず、のみを軽く小刻みにたたいた。
「いつもそこで石を削ってるね」
彼は一瞬にやりと薄くたるませた目を私に向けてからまたハンマーとのみで石を削り始めた。
「粘土をいじくってることが多かったんだけど、最近はこっちをやってるんだ。ところでいつもって言うけど、それは皮肉かい」
私は少し狼狽した。
「皮肉って…… いや、別に皮肉なんかじゃないよ。なぜそういうふうにとらえられるんだろう。ただ、みんなが学食でワイワイやってる時間にも君はそうやって石を削ってるからさ。君のことは知っていたよ」
彼は私と視線を合わさなかったが、一瞬私がどんな表情をしているのか確認するように目を動かすことがあった。二つの目は赤く充血した部分が目立ち、ある瞬間、その中に小さな光がよぎることもあった。彼は日焼けした顔をくしゃくしゃにしながらひきつったように笑った。
「学食でお話ヒかい! 二十回も洗って色落ちさせたジーンズで決めて、長い髪の毛にシャンプーの匂いをさせて、ちょっとカッコよく束ねた二冊くらいの教材を小脇にかかえて、ある意味じゃ心のどこかに何か物欲ヒそうな鬱屈を抱えながら、それでも楽ヒそうに、快活にふるまっている学生たちか!」
彼はそう言いながら自分の言葉に照れたかのように妙に顔を赤くした。このアンバランスな印象の中身が私にはよくわからなかった。
「いや、ごめんな、だってそうじゃないか。あの連中は自分が無力であることをよくヒってるんだ。それに芸術ったって、どれだけの芸術家が集まってんだいこの大学に。そんな話をヒたら長くなっちまうからやめとくけどな、九割九分がえせで、最初っからこの世界で生きていくなんてのはとうてい無理な人間が集まって、それがこの大学のカラーになっちまっているんだ。ちょっと積み上げたものが、ガタガタと崩れていくような、彼らはいつもそんな光景を心の隅に背負い込みながら集まって来るのさ。集まって来ざるを得ないのさ。だって極端な話、彼らの学生生活っていうのはあの学食ヒかないじゃないか。高い金払って、四年間も費やヒて過ごす巨大な幻想だ。いや飛躍ヒちまってごめんな。俺はどうも脳に欠陥があるらヒいんだ。小さい頃いやというほど石に頭をぶつけちまったらヒくてね、話の途中を欠落させてヒまっていきなり結論を言ってヒまうんだ」
「確かにそれはちょっと極短な話しだと思うね。君の目から見ればそう見えるんだろうけど、それだけじゃないと思えるんだけどね」
「おかヒいかい? 俺の言ってることは独断と偏見に満ちあふれてるってわけだろ?」
彼は口惜しそうに口元の右側をゆがめながら少し落ち込んだようだった。
「いや、そんなこと言ってないさ。でもそんな見方もあるんだなって思っただけなんだ。自分にもそういう部分はあるかもしれないけどね」
私はその場を取り繕うようにそう言って笑った。この男と会話を始めてしまったことに後悔していた。
「じゃあ、その笑いは自分をあざけっているわけだな」
彼はしつこくからんできた。
「え? 自分をあざける? 皮肉だの、あざけるだのって、どうしたらそんなふうなとらえ方ができるの?」
私がそう答えると彼はちらっと私を上目づかいで見てしばらく黙っていたがやがてこう言った。彼の目は私を見ながら、同時に自分に向いているような気がした。
「もぐらだよ、俺は」
「もぐら?」
「地面の中にいて何かを彫っている。何を彫ってるかというと、どうやら他人の顏やらなんやら彫ってて結局自分を彫ってるらヒい。自分を彫るなんて言葉にヒてみればどうも嘘っぽくなっちまうね。俺は本気なんだけど。だから言葉の世界ってのはどうもいやだね。 違ってたらごめんな。言葉っていうやつは真実を偽って納得させちまう魔力もある。で、いつの間にかそれが定着ヒちまって薄っぺらい文化みたいなものや常識みたいなものができる。だいたいいっぱヒなことを言いながら、そいつは不埒なことだって考えているヒやっている。あるいは彼らが否定ヒようがその言葉からはみ出ちまったところで生理的に生きるためのそれこそ言葉にならないようなありふれたことやあるいは罪深いことだってずいぶんやっている。むヒろその時間の方がめちゃくちゃ長いんだ。だから、言葉でうまくつくろってかっこつけたってだめさ。話がまた飛躍ヒちまうけどさ、俺が自分をもぐらだっていうのは、ただもぐらが気に入っててね、自分のことをそう決めちまえばあんまり怖いものはないよ」
「そうか…… じゃあ、そうすると、君は彫刻をするスペシャルなもぐらってわけだね」
「はあ?」
彼はなぜか多少の怒気を込めてあごを私に突きだした。
「スペシャルなもぐらとはどんなものなんだ? 基本的に俺は自分をあのもぐらと一緒だとそう思ってるだけで他に意味はないんだ。汗の臭いをぷんぷんさせながら、あの華やかな若者たちの中に入って行くのは気が引けるんだ。まあ、これは俺の問題さ。もぐらだからさ。何せ俺は、自分が彼らと全く違う人種のように思ってヒまうことがあるんだ。だけど俺がもぐらだったらそれはあり得るだろ? うまい逃げ口を我ながら見つけたもんだと思うよ。俺が飯を食う時間というのは、誰もいなくなった頃さ。気が引ける、と言うよりも、俺はあの時間あそこへ行っちゃいけないとさえ思うことがあるんだ。なんていうんだろう、気分的にテンパってる俺があそこに行った時の、あのいやな混ざり合い、中和っていうやつかな、世の中の大方の流れの中に、俺の半分が流されて失われていくみたいな感じだよ」
どこか私と似ているところがあるような気がした。彼のTシャツは汗でびっしょり濡れていた。小柄だが、上半身のある部分だけが発達しているように見え、その体は運動選手のそれとはまったく違って全体的にはアンバランスな感じだが、肉体ばかりでなく精神的にも角張ったいびつな部分と脆くて柔らかい部分とを同居させているような気がした。
「この大学でどれだけものになるのかね、毎日馬鹿みたいに顏彫ってる」
まだ粗削りな状態で、形にはなっていなかったが、その石の凹凸には人間の顏の面影が浮かび、しかも眼と鼻だけを先に彫ったのか、その鼻柱の両脇にある目の玉は、どこか誇らしげに遠い宙を睨んでいた。
だが彼は、しばらくその目を見据えると、突然ハンマーでその鼻と片方の目を打ち砕いてしまった。
砕かれたうちの小さな石のかけらの一つが私の足首のそばまで飛んできた。私が驚いてその石のかけらを見ていると、彼は何事もなかったように、しかし皮肉を込めた目でこう言った。
「で、君はいま何をヒてるんだい」
私はしばらく彼がその目と鼻を打ち砕いてしまったことに驚いて言葉がでなかった。そして、今彼が壊したその彫刻の顔面の部分をのぞき見た。
頭部はまだ出来上がっていないが、粗削りな額の下に安定したおだやかな鼻梁が通っている。眉毛のやや盛り上がった部分から三センチほど下がったところに目があった。深くえぐられた二重まぶた。下まぶたは少し盛り上がり、くっきりとした形を見せる頬骨の上でわずかに微笑するように湾曲していた。瞳は大きく、上下のまぶたに接し、外側の事象と深い内面の両方を誇らしげに見つめているようであった。口元からあごにかけての形はまだ彫られていなかった。鼻の左側にあった目の部分はすでに大きくえぐられていた。
私はその片目の石から目を放すと、反対側を向いてしまった彼の耳の後ろに、ミミズ腫れのような傷跡があるのを見た。右肩が少し下がり、どこか気落ちしたように背中が丸まっているように見えた。私は先ほどの彼の質問に答えた。
「何をやってるのか自分でもわからないんだ」
「そうか」
「だから君のその、のみとハンマーがうらやましいよ」
と言った。
「何が、え、何が?」
「目の前に彫る石があるってことがさ」
彼は私を蔑むように見てから何かを認識し終わった時のような一種のあきらめ顔になって言った。
「君にはないのかい」
「ないと言えば嘘になる。でも君のその石みたいに、現実のもので、硬くて、手ごたえのある物じゃないんだ。彫るのがつらくて、汗を流して、でも、彫らなくちゃいけないというような」
彼は突然、引きつけでも起こしたように、顔をくしゃくしゃにしながら大声で笑った。
「目の前に彫る石があるだって? のみやハンマーがうらやまヒいだって? そんなどこかの言い古されたキザなコピーみたいな、幼稚な例え話を言うとはね! じゃあんたの前には何もないのかい。あんたは何も持っていないのかい。そんなばかなことはないだろ? あんたがそれを見てないだけだヒ、わかってないだけじゃないか。それこそあそこらへんにいる学生と全く一緒だ。中身もないくせにかっこつけて甘ったれてな。石や道具じゃなくて、問題はあんたなんだろ」
私は一刀両断に切られたような気がして、顔面が熱く火照った。
林田は黙って石を転がした。そしてもういらないというふうにそれを無造作に横にした。その時私は、もう一度、彼が片目を潰した顔を見た。先ほどは顔の正面をやや下からのぞき込んでみたのだが、今度はその横顔が見えた。その角度から見た時のなだらかな鼻の線に(女だ)と、私は思った。
「女の顏だね」
「……」
彼はじっとその壊れた石の顔を見ていたが、やがてこう言った。
「……きみはああいう顔を見たことがあるかい? 誰もが通勤中の後ろ姿を見せて昇って行く、あるいは気むずかヒい顔をヒながら延々と降りてくる朝の長いエスカレーターだ。その背中ばかりの昇りのエスカレーターにたった一人だけこっちを向いて大きなコントラバスを抱えている外国人の若い女がいる。初めは恥ずかヒそうだったが、やがて彼女の顔は毅然とヒて、輝くような微笑に変わっていった」
そう言って彼は赤くなってまた自分を卑下するような笑い方をした。
「え……」
私はそうつぶやいた。その光景を見たことはないが、コントラバスをエスカレーターに乗せて運ぶ時はそうするのだと、あの学食の二階の喫茶室で夏子に聞いたことがある。コントラバスをキャリーカートに縛り付けて乗せて、それを支えながら、夏子が一段上に登って、反対を向いてそれを支えるのだと。だから昇降客とは常に向き合わなくてはならないのだ。
「何回も言うようだけど瞬間的なものを捉える記憶力だけはいいみたいでね、小さいころから」
「君の知っている人か?」
「知らないよ。だけどこの大学の学生だってことは知ってたよ。ここから見てるとあの窓から学食の中が良く見えるって言ったろ」
「……」
私は振り返って隣に立っているコンクリート二階建ての学生食堂の大きな窓を見た。昼食時間を過ぎても中はまだ多くの学生達で賑わっていた。二階の窓には、私たちもよく利用する喫茶室で数人の学生たちが談笑しているのが見えた。この男は夏子の顔を彫っていたのか? 私はそう思った。
「なぜ壊したんだ?」
私は彼に聞いた。
「気に入らないからだ、特にこの顏は彫れば彫るほど」
彼はその顔をじっと見ながら言った。
「じゃあ、なぜ彫るんだ?」
「彫りたいからさ」
「何だって? からかってるのか?」
「からかってなんかいないよ。だけど彫れば彫るほど壊ヒたくなるんだ。それも、完成に近いと思えば思うほどそうヒたくなるんだ。壊すために彫っているようなもんだ。彫れば彫るほど、その彫りたいという気持ちある意味で憎ヒみに変わっていく。この感情を憎ヒみというならね」
「憎しみに?」
彼は私に何か言いたそうだったが、やめてしまった。
「なぜ憎しみに変わるんだ? 君の言っていることは支離滅裂で何が何だかわからないよ」
私は少し色をなしてそう言った。
彼は壊した石の顔をじっと見ていたが、やがて小さなため息をついた。そして、何か急に呆れたように私を見ると、唐突に、乾ききったような感情の響きのない声でこう言った。
「損ヒたな、五分」
「……」
「今君と話ヒていた五分さ」
彼はそう言って唇を右の方に曲げて薄く笑った。私は立ち上がった。立ち上がるときに無意識にポケットに手を突っ込んだが、相変わらず小銭が少し入っているだけだった。私はその小銭を握りしめた。そしてなぜかやみくもに歩き始めた。目的地もなく、右に曲がり、左へ曲がり、同じリズムで歩いた。駅が見えると通り越し、また二つ目の駅も通り越し、今度は駅に向かわない方向をまたあちらこちらに曲がって歩いた。
私はよく得体の知れない焦燥感にかられてそわそわし始めることがあった。何かがきっかけとなってそうなることが多かった。その焦燥感というのは横隔膜の上のあたりの背中寄りからわきあがってきて、じわじわと痛みを感じさせるものだった。何かこう、本源的な苛立ちとでもいうか、本来「やること」があるはずなのにそれが見えず、しかしそれをし忘れていることだけははっきりわかっているというようなもので、言葉で言い表すことは難しかった。
どれだけの距離を歩いたのだろう。実際に私はそれだけの長い距離をあるいてしまうことがあったのだ。私はいつの間にか自分の住んでいる町も通り越し、かつてあのディズニーランドの帰りに夏子を送って行った道を進んでいた。
夏子の自宅は大きな二階建てで、同じような高級な家が立ち並ぶ一角の角地にあった。私のいく方向から見えるのは玄関のある正面側ではなく、一間半ほどのバルコニーがある側面だった。バルコニーの片側には飾り程度に設置されている物干し竿があり、そこには取り込み忘れたに違いない薄い緑色のブラウスが一枚ぶら下がっていた。そのブラウスには見覚えのある夏子の面影があった。奥のガラス戸の中の部屋の明かりは消えていたが、そこはきっと夏子の部屋なのだろうと思った。私はそこを通り過ぎ、その先の二つ目の十字路で立ち止まった。そして今来た道を引き返した。この方向からは夏子の家の玄関が見え、家屋の左側の一階と二階の明かりがついていた。しかし、私は再びブラウスが一枚かかっているだけの暗いバルコニーに向かい、そこを通り越し、またしばらく行っては立ち止まり、そしてまた引き返した。私の馬鹿さ加減はこの往復運動を七回も繰り返したことである。携帯電話は普及し始めていたが持っていなかった。夏子の自宅の電話番号も知らなかった。玄関の呼び鈴を鳴らすだけの勇気はなかった。空から鳥瞰して見たらどれほど滑稽だっただろう。それでも七回目でそのブラウスを物干し竿から取り込もうとしている黒い影を見たのである。私は思わず走り寄ってその影に向かって大きく手を振った。その影はすぐ私に気がついた。影は私に向かって手を振り、すぐそのバルコニーから消えた。それから一分ほどして、玄関側の道の角から夏子が姿を現した。夏子は目を丸くして私を見た。
「どうしたの、俊……」
「ごめん、びっくりした?」
「誰かと思った」
「いつだったか台風の時、うちの近くを車で通りかかったよね。犬が飛び出してきて、急ブレーキかけて」
「ああ…… あの時いたのね。母が風邪ひいたみたいでちょっと具合が悪くて動けなかったから父と日用品の買い出しに行く途中だったの。急に飛び出してくるからもうびっくりしちゃった」
「そうだったんだ…… 夏子、イギリスに行ってたんじゃなかったの……」
「行ってたよ。 ……ちょっと用事があってね、帰ってきたの」
「用事?」
「うん、いろんなことが重なって……」
「……何だか疲れてるみたいだね」
「俊もね」
「大学から歩いてきたんだ」
「え! 大学から?」
「たまにあるんだ、こういうこと。やなことがあったりしたときにね。病気みたいなもんだよ」
「何かいやなことあったの?」
「……夏子、聞いてもいいかい?」
「何?」
「その用事って?」
「……」
「ごめん…… 調子に乗って…… もうよすよ」
夏子は下唇を噛んで、私をしばらく見ていた。
「父の会社、倒産しそうなの」
「え……?」
「だから、大変なの、今。この家にももう住めなくなるかもしれないし、留学だってどうなるかわからないわ」
「……」
「民事再生法っていう法律があるんだけど、今それをやってるみたい。父はあたしのことは心配しなくていいって言うんだけど、そんなわけにはいかないわ」
「……」
「でも債権者の承認が取れてその民事再生がまとまればなんとかやっていけるみたい。そりゃいままでみたいにはいかないけど、みんなで頑張れば絶対に立ち直れるわ。個人的には私、大学やめて働いてもいいし」
「……うん。でも大学やめなくていいようにきっとなるよ。留学も」
「そうなるといいね。それとね、俊……」
「何?」
「……」
「どうしたの?」
「もう一つ、すごい心配事があるの。俊は美術学科の林田って人知ってる?」
「え!」
林田! と私は頭の中で反芻した。
「知ってるよ。知ってるどころかほんの少し前までその男と話をしてたんだ。実はあいつのことで頭がいっぱいになってたんだよ。浩介や由美たちと行った絵画展にいた奴だよ。あいつ夏子の顏彫ってた。何で? あいつのこと知ってたの? あいつと夏子ってどんな関係なの?」
「関係なんてないよ!」
夏子は語調を強めてそう言ってからまた続けた。
「イギリスへ出発する日ね、みんなが見送りにきてくれて、その中に紛れてあの人がいたの。最初気がつかなかったんだけど、みんなとの別れ際にあの人が手を伸ばして私に白い封筒をさしだしたの。私はついそれを受け取ってしまってね、それでその人の顏を見ると、耳まで真っ赤になって、うつむいて友達の間に紛れ込んでどこかへ行ってしまったわ。その封筒を飛行機の中で開けて見たらね、俊、覚えてるでしょ、あの絵画展で見た粘土像。小さい女の子が右手を上げて大人の大きな手を掴んでるあの粘土像。あの写真だったの! 中に手紙が入っていて、会って話がしたいって言う意味のことだけが書いてあったわ」
夏子の顏は血の気が引いて蝋のように蒼白になり、そして小刻みに震えだした
「あの手をしばらく見ているうちにね……」
「どうしたの?」
「思い出しだの」
「何を?」
「手を」
「手を?」
「私がつかんでいる手。……そうじゃない、思い出したんじゃないんだ、いつもあったんだ。 例えば…… なんて言ったらいいの? 頭の中に映画フィルムがあって、その一コマ一コマの中に、仮に三十コマに一コマの割合である同じ映像、思い出したくない映像が繰り返し、繰り返し入ってたらどうする? たぶん私、それを忘れよう、忘れようとするわ。俊、私ね、私のために死んじゃったかもしれない子がいたかも知れないの」
「え? どういうこと?」
夏子は今にも泣き出しそうな顔をした。
「今まで黙っていたのよ。誰にも言えなくて、でも忘れようとして、時がたって大きくなるにつれて確かに忘れていたことが多かったわ。でも、忘れられないの、はっきり覚えているの」
「何をさ? わからないよ。何があったんだ、夏子…… 林田って男もそうだったけど、いったい何の話をしてるんだ?」
夏子は顔を上げて一人呟くようにこう言った。
「……細かいことはよく覚えてないの。その経緯もわからないわ。だけど…… 三歳か、四歳の頃だったと思う。頭の芯に血の塊のようになってくっついているの。あの記憶の始まりは車の中。ここにいなさいってだけ言って出て行った人、その人のぼんやりとした横顔と歩いて行く後ろ姿。出て行ったらふっと空気が変わっちゃったみたいに白っぱくれて、それからずっと一人きりでいて、もしかしたらこのまま誰も帰って来ないんじゃないかと思って…… なぜかそう思ったの。怖くなって、泣き出して、それで外に出たんだと思う。今思えば車の鍵はかかってなかったんだわ。草むらの中を歩きまわって、そこがどこだかわからないんだけどずっと泣いてたわ。そしたら誰かが私の肩をたたいたの。振り返ったらね……」
夏子は目を大きく見開いて言った。
「大きなあれがいて……」
「あれって?」
「あれ! 細くて長い手足が何本も蠢きながら広がって、その真ん中の不気味な目が私をじっと見つめているあれ! 」
「え? 何?」
「それで私怖ろしくなって、本当にパニック状態になって思いっきりそれを両手で突き飛ばしたわ。そしたら、わあ! っていう声がして私と同じぐらいの背丈の男の子がスーッと仰向けに倒れて草むらの中に消えたのよ…… 私、すごく怖かったけど…… その子が倒れたとこをのぞいたんだ。深い穴のような、窪みのようなその底で…… 大きな石があって、水たまりがあったわ、その水たまりに小さく私の顏が映ってた。その隣で、男の子が真っ赤な目を見開いて……」
こう言って、夏子は声を詰まらせ、唾を飲み込むようにして咽喉元を手で押さえた。
「……何か信じられないようにじいっと私を見つめてた!」
夏子は目をつむり、両手で口元を覆って、顔を何回も振った。
「誰か私の名を呼んでたわ。母じゃなかった。母だったら私無条件で安心するもん。車から出て行った人。私とあまり話をしない人。血のつながっていない祖母だったような気がする。あの人はね、私が小学生の頃亡くなられたんだけど、ずっと心が病んでいたって父が言ってたわ。私の本当の祖母が亡くなって、祖父があの人と再婚した頃は元気な明るい人だったんだって。どうしてそうなったのかはわからない。たぶんその人の手だと思うの。私の目の前にその手が差し出されたの。でもこの時は私はもう泣いて、泣いて、その時すがるようにその手にしがみついたわ。とにかく誰の手でもいい、その手が、どれだけ私を安心させたか! でも、それからのことは覚えていないの。私はただ泣いていただけで、何もしゃべらないでその人に連れられてどこかへ歩いて行ったような気がする。だからよくわからないの!」
夏子は顔を上げ、少し怯えたような目で向かいの家の屋根のあたりを見ていたが、やがて思いつめたようにこう言った。
「私あの人に会わなくちゃいけないわ」
それから三日が過ぎた。学食はいつものようににぎわっていた。浩介とはあの時以来顔を合わせていなかった。おそらく映画やホストクラブのアルバイトで忙しいのだろう。由美はここ二週間、大学に来ていない。
窓から美術棟を見ると、相変わらずいつもの場所に林田はいて、この時は石材や道具を片付けているところだった。私は彼のところに行った。林田は私に気がついたがそのまま目を落として道具を入れた麻袋を縛り始めた。私はこの男から話を聞かなくてはならなかった。
「この間、名前も言わなかったね。佐々木って言うんだ。佐々木俊一」
「俺は林田圭一」
「七月にお茶の水で絵画展を開いたね。あの時、『親子』というタイトルの彫刻があったけど、あれは君の作品だよね」
「そうだよ。覚えていてくれてありがとう」
「やっぱりそうか。あれはちょっと不思議な作品だね」
「見たままを彫っただけだよ」
「見たまま? あの作品の『親』は手だけであとは省略されてるんだけど、あれはどうしてなの?」
「親は手だけヒか見てないから形にできなかったんだ」
「そうか。夏子を知っていたんだよね。君が彫っていた顔のモデルさ。君はあの粘土像の写真を夏子に手渡したんだよね。あの粘土像がどんな意味を持つのか知りたいんだ」
私は注意深く林田を見ながらそう言った。林田は、私の目を凝視した。そして何か深く考え込んでいるようだった。次第に彼の顏が少しずつ紅潮してくるのがわかった。何かを理解したようだった。彼は私を見て言った。
「やっぱりそうだったのか。やっぱり彼女だったのか。直感でそんな気がヒていたんだ。だけど確信が持てなかった」
「……」
林田は何かに深く感動したようにしばらく茫然とした面持ちだったがやがてこう言った。
「今日はこれから何か用事があるのかい?」
「特にないよ。講義は終わったしアルバイトもないし」
「そうか。俺は三時半まで講義だから、そのあと、どこかで会わないか。そうだな、N病院という大きな公立病院があるんだ。行き方は今書くよ。そこの正門の前が洒落た公園になってるからそこに四時半でどうだ?」
「わかった。そこは君にとって特別な場所なんだな?」
彼はそれには答えず、ナップザックからスケッチブックを取り出すと、その画用紙の上に電車の線路を含めた地図を書き始めた。
小一時間ほど大学の図書館で時間を潰した後、私は林田と一緒にその病院へ行ってもいいとも思ったが、結局一人で行くことにした。
指定された駅で降りてTの字形に三方に別れた道の真ん中を行くと閑静な住宅地を通るなだらかな坂道があり、そこをしばらく行った右手に七棟の白い建物が立ち並ぶ大規模な病院があった。正面入り口の前の庭はきれいにレイアウトされた小さな公園のようになっていて、直径二十メートルくらいの人口の池の周りに等間隔に植えられた背丈のそれほど高くない樹木が豊富な緑の葉を揺らしていた。その池の水面に、病棟の上の青空に浮かんだ、綿菓子のような雲が静かに移動している様子が映っていた。秋日和のやわらかい日差しが木製のまだ新しいベンチに注いでいた。私は正面入り口の脇に置いてある自動販売機で缶コーヒーを二缶買うとそのベンチに座り林田が来るのを待った。
しばらくして、砂利を敷き詰めた五十メートルほどの散歩道をナップザックを肩にかけた林田が歩いてきた。林田は一瞬ちらっと私を見たがそのまま表情を変えずうつむき加減でベンチのそばまで来た。
私は林田が座れるように右に腰をずらすと、缶コーヒーの一缶を林田に差し出した。
「ああ…… ありがとう」
と言って林田はそれを受け取った。そしてこう言った。
「この間は君にヒつれいなことを言ってヒまったようだな」
「いやそんなことはないさ。あれは自分にいつも言ってることなんだ」
「そうか。でもそれは少ヒ内省的過ぎやヒないか」
「多分ね」
林田はプシュッという音をさせて缶コーヒーを開けた。それから彼は一呼吸置いて話し始めた。
「あんな写真を渡ヒてヒまったことを後悔ヒたよ。まるでストーカーみたいでね。だけど、朝、いつも同じ時間にあの上りエスカレーターでコントラバスを運んでいる彼女を何回も見なければ、おそらく俺は忘れていたんだ。初めて彼女の顔を見た時は、なんて美ヒい顔だろう、と思ったよ。顔形というよりは、女の一種のあどけない誇りみたいなものかな。わかるかい? 俺も彫刻の物まねみたいなことをヒているが、コントラバスを抱えて、あの殺伐とした朝のエスカレーターに乗って反対向きになって、なんていうんだ、あの笑顔、言葉で言えないから、俺はあの顔を彫刻で表現ヒようと思ったのさ。だから彼女の顏のディテールを俺は完全に頭に刻み込んでヒまった。その美ヒさを完成させるために何度も何度も彫っては壊ヒ、彫っては壊ヒているうちに、俺はこの石の顏の中に、特にその目に、吸い寄せられるようにヒてあの日のことを思い出ヒたんだ。思い出さなければ、俺はこんな自分であることを、あたりまえなんだと、ヒを――」
彼は顔をゆがめ口をすぼめて(し)と発音しようとしたがやはりだめだった。
「ヒとヒか言えないでずっといじめにあったこともあたりまえのことで、俺のせいなんだと、ただそう思って生きていたんだ」
彼は小さなため息をついて数人の若者たちが雑談しながら通り過ぎるのをじっと見ていた。
「そのあの日のことというのを詳しく話してくれないか」
林田はベンチの上に右足をのせて立てひざをついた。そしてその上に右ひじを置いて頬杖をついた。そしてしばらく遠くを見ながら何かを考えていた。
「ああ…… 」
彼はそうつぶやいてから、頬杖をついている掌を目の前に出し、その小指と薬指をじっと見ていた。
「四歳の頃か五歳の頃かな…… 昔から一瞬の断片的なことだけはなぜだかよく覚えてるんだ」
そう言って彼は話し始めた。
「もう日が暮れそうだったな。この病院で、今はこんなにきれいに整備されてるけど、あの頃は草や木が茫々と生い茂ってんだ。あそこらへん(と言って彼は一番遠くにある二棟の病棟あたりを指差した)はだだっ広い空き地でね、今は看護学校になってるんだけど、あの空き地でヒょっちゅう遊んでたんだ。ひとりの時もあったヒ、何人かの仲間の時もあったよ。看護学校の建設予定地だったから、もっと大きくなってから知ったんだけど、あそこは入ってはいけないところだった。だけど金網には人が入れるぐらいの穴が空いてて、何も知らない子供たちはみんなそこから入って遊んでたんだ。遊ぶったって、ただ草むらをかき分けて走り回ったり、うっそうとヒた林の中に入って大きな木の梢に登ったりするだけなんだ。要するに探検ごっこってやつだよ。君もやったことがあるだろ? 今はもう伐採されて何もないが、俺がよく登った大木は、樹齢も古い黒ずんだやにだらけの松の木で、あの頃の俺の背丈の五倍くらいの高さのところで大きく幹が二股に別れて、そこに腰かけていると、曲がっている太い幹がちょうど背もたれみたいになっていて、俺はそこが大のお気に入りだったよ。天気のいい日は毎日のようにそこに登っていたような気がするよ。そこへ登るとまず、冒険家が良くやるように、こうやって四方を見渡すんだ」
と林田は、両手の人差し指と親指で輪っかを作り双眼鏡をのぞく真似をした。
「あの頃あった空き地は東西南北の、まあ、どっちが東でどっちが西だかわからないんだけど、たぶん、あそこの調剤薬局のある方が東だろうな、三方が灌木の茂った草深い土手に囲まれていて、それは子供にはずいぶん高く見えたけど、二メートルはなかったんじゃないかと思うよ。その土手の上は金網の柵で覆われていたんだ。なぜこんなに詳ヒく覚えているかというと、ここは俺が小学校高学年になるまでずっと変わっていなかったんだな。だから風景に関する記憶は大きくなってからのものもあると思う。土手のない空き地の向こうは五棟ぐらいの病棟が立ち並んでいて、左側の三棟が新ヒい白い色をした建物で、右側の二棟は灰色の壁がところどころ黒っぽくくすんだ古い病棟だった。誰かがあれは精神病棟なんだって言ってたのを覚えていて、俺はずっとそう信じていたけど、実際そうだったのかはわからないよ。自分が登っている木とそこの病棟までは五、六百メートルぐらいはあったように思えたけど、大きくなって見たら二百メートルぐらいだったね。あの頃から、五、六年あそこへはまったく行かなくなっていたから、久ヒぶりに行った時、その距離感の違いを不思議に思ったよ。それであの日―― あの日って言うのは、さっき言った俺がまだ四歳か五歳の頃のことだけどね、空き地のあったほう、ここから言えばあそこの一番遠くにある二棟の病棟の方なんだけど、その手前には、駐車場があったんだ。何台かの乗用車や、今思えばあれは病院のだと思う、白いマイクロバスのようなものが止まっていたよ。止まってないときもあるんだ。そんなものを一つ一つ本物の冒険家みたいに確認するのが俺の遊びだったからね」
こう言って、林田は少し自嘲気味に笑った。
「左端の黒い、あれはセダンの車だったと思うよ、そのドアが小さく開いてその下の隙間に細い足が見えて、一人の女の子が体をすり抜けるようにヒて出てきたんだ。女の子は肩を上下に激ヒく動かヒて泣いているようだった。車から出ると、何かを求めるように両腕を前に差ヒ出ヒて歩き出ヒたんだ。どこへ行くあてもないように、ただトコトコと泣きながらね。俺が記憶ヒている映像に今解釈を加えればそんなとこだよ。その子は泣きながら近づいてきた。時々ふっと泣き止んで大きくヒゃっくりをするとまた泣きはじめて、顔がわかるほど近づいてきた時、ガイジンだ、と思ったね。でも髪の毛は黒かったよ」
「……」
「どうヒて俺はその子がとても愛おヒく思えたんだろう。その子は俺のいた木のすぐ下まで歩いてきた。俺らの体の何倍もある太い木だったヒ、俺がよじ登っていたいつもの場所は高い所にあったから彼女は俺に気づいていなかった。俺はなんだか、この子が一人置き去りにされて誰かを探ヒに来たんじゃないかと思ってひどく可哀そうになったから下に降りたんだ。木の根元のところは半分が崖のような深いくぼみになっていて根っこが何十本も分かれてむき出ヒに見えていた。今思えば何か掘削作業でもあって、それが中途半端に終わっていたんだろうな。くぼみの底には大きな石ころがごろごろ転がっていて、どこから流れてくるのか水が少ヒ溜まっていた。だからそこに落ちないようにくぼんでない方へ体をよじらせながらうまく降りるんだ。もちろん、登るときもそうだ。俺は腰のあたりまで草の生えている地面に降りて、向こうを向いてヒゃくりあげている彼女の肩をたたいたんだ。彼女が驚いて振り返ったところまでははっきり覚えている。そのあとドーンと胸を押されて俺はふわっと宙に浮いた感覚になって、背中から後頭部にかけてもの凄い衝撃を受けたあと、目の前が真っ暗になったんだ。彼女は俺を突き飛ばヒたんだ。俺をいじめっ子だとでも思ったのか。だけど俺は彼女が可哀そうでならなかっただけなんだ。それから、何秒か、あるいは何分か、どれだけの時間が経ったのかわからない。気がついた時、背中から後頭部にかけてもの凄い痛みが走っていたよ。仰向けに倒れていたんだ。あの窪みの崖の下からそんなふうに上を見上げたことはなかった。女の子は泣くのもやめて驚いたように、というかね、あるいは本当に恐ろヒそうにというかね、また今でも泣き出ヒそうにのぞき込んで俺の目をにらんでいたと思うと、大声で泣き出ヒて俺の方に両手を伸ばヒたんだ。少ヒ前かがみになって、へたをすれば自分も俺のところまで落ちてヒまうかもヒれない体勢になって。その時だよ。その子の顏の前に手が差ヒ出されたんだ。大人の手だった。手だけヒか見えなかったよ。俺はあの手を今でも覚えているんだ。たぶん、親の手に違いないよ。女の子は一瞬泣き止んだ。大きく目を見開いてその手を見たんだ。そヒてその手首のところをぎゅっと握りヒめると今度はもっと大きな声で泣き叫んだんだ。でもその手は五本の指が開いたままで、その子の手を握り返すでもなかったんだ。どうヒてなんだ? なんであの手はぼんやり開いたままだったんだ? なんであの子の手をぎゅっと握ってやらなかったんだ? もっともこんなことは今だから思うのさ。あの瞬間の映像はヒっかり頭の中に残っているけど、その時は何が何だかわからなかったんだ。そヒてやがて、いや、ほんのつかの間の後にそれは俺の視界から消えた。女の子もその手に引っ張られるように消えたんだ。それからはただ、青い空に白い綿雲がぽっかり浮かんでいるのヒか見えなかった。まるで何事もなかったかのように! 何事もなかったことが当たり前のようにさ! ここに俺がいるって、大声を出そうとヒたんだけど何もできなかった。あの大人の手はついに俺を助けに来なかった。それから俺は気を失っていたらヒい。両親が一晩中探ヒて、見つかったのは次の日の朝だった。後頭部から血を流ヒていて、もう少ヒで危ないところだったらヒいよ。指が二本動かないのも、ヒを(彼はまたしても口をとがらせて懸命にそれをシと発音しようとしたがだめだった)ヒとヒか言えないのも、笑うと顔が引きつるのも、全部この時の後遺症さ」
林田はそう言ってうつむいた。私はしばらく林田の横顔を見ていた。そして大きなため息を漏らした。何を言おうかと考えていたが何も思い浮かばなかった。しばらく沈黙があった。それから私は、彼に会う前から決めていた質問をした。
「それで…… 君は後悔したと言ったけど、あの粘土像の写真を夏子に手渡して、どうしたかったんだ」
「……どうヒたかったというものはないよ。何かをすればどうにかなるというものはないんだ。ただ俺はこの胸にへばりついたチューインガムのカスのような思いをずっと持ち続けていくヒかないんだ。誰の記憶にも残らないような出来事をいまさらどうこう言ったって始まらないよ。おそらく彼女だってもうちんぷんかんぷんなんだろう。あったっていう証拠なんかどこにもない。そんな事実はなかったと言われてヒまえばそれで終わりだ。いまさら言うほどのことでもないが、時ってやつがすべてを風化させる? だけど時じゃないだろう。君はどう思う? 全く当たり前の話だけど、風化させるのは時じゃなくて人間だろう。あったことをなかったと言いたがり、なかったことをあったと言いたがる人間だろう。あるいは仮に記憶に残っていたらどうなんだ。賠償か? そんなものはどだい不可能な話だヒ、俺自身望んでもいないヒ、だいいち俺の心をよりよくさせるための何の効果ももたらさないよ。ただ一つだけ確かなことがあるんだ。実際これだけは確かなんだ。それは俺自身があの時の光景をはっきりと覚えているということなんだ。本当に俺ははっきりと覚えているんだよ。俺は、病的にある一瞬の出来事を記憶ヒてヒまう癖があるんだ。そんなことはなかったと言えばいくらだって言える。だけどあったんだよ、覚えているんだよ。だからどうヒていいかわからないんだよ。ただ、あったという事実を知らヒめたいんだよ。ほんとはいい加減にこの女の顔を、まるで強迫されたように掘るのはやめにヒたいんだ。なんて狭苦ヒい毎日かと思うことは何度もあるんだ。だけど俺は彫ってヒまう。掘ってまた壊ヒてヒまう。完成ヒたかと思えば思うほど、壊ヒてヒまう。壊ヒたいんだよ。なぜなんだって? 俺の心の中にある何かがそうさせてヒまうんだ。何でだろうな。俺は口で説明できないんだ。ただ言えることは、あったからだよ。要するに、事実とヒてあったからだよ。あの時、あの出来事はあったからだよ。この脳裏にはっきりと焼き付いているからだよ。あったんだよ。あんたにわかるだろうか? この単純なことが! だから俺は俺がはっきり覚えているように、同じように彼女にもはっきり覚えていてほヒいだけさ。俺は彼女に何の恨みもないさ! 何の恨みだって抱きはヒないよ! それどころか、彼女を愛ヒているよ! 本当だ! なぜだって? なぜだって? 彼女はあの時、わんわん泣きながら、あの小さな両手を俺に伸ばヒたんだ。自分も落ちそうになって、俺を助けようとヒたんだよ。俺はそう信じている。あの、大人の手が出てくるまでは! だからさ! だから! 要するに事実とヒてあったことを共有ヒていくことだけなのさ。それは辛さを伴うことだけどな! 酷く辛いことだけどな! 後は何もいらないよ」
二人は長い間沈黙をしていた。私はしばらく何も言いだすことができなかった。
「……本当にそう思うのかい?」
「本当さ」
「夏子ははっきりと覚えているんだ。日常生活の中で忘れてはいても、頭の隅にこびりついているんだ。忘れていること自体が君には許せないんだろうけど…… その時何もしてくれなかった大人の手っていうのは…… きっとあの病院の精神科に通っていた血のつながっていないお祖母さんの手だったと思うんだ。そのお祖母さんというのは普段あまり話したことがない人だっだそうだよ。だけど一つだけ覚えていることがあるって言ってた。夏子が小学校一年生ぐらいの時らしい。だから亡くなる少し前だったと思うよ。そのお祖母さんは夏子の髪の毛と頬を両手でなでながら、『あんたは死んだお祖母さんの生まれ変わりだねえ』って言ったそうだ」
「それはどういう意味なんだ?」
私は知っている範囲の夏子の実の祖母や後添いのその人のことを林田にかいつまんで話した。
「何で一緒にあの病院に来たのかはわからないんだ。あの時、そのお祖母さんは君がその穴に落ちていたことを知らなかったんだと思うよ。もう亡くなられているからわからないんだ。そうだとしたら、夏子が君のことを言わなかったんだ。彼女は穴に落ちた君の姿を誰にも言わずに、あるいは言えずにずっと生きてきたのかもしれないね。彼女は君があの穴に落ちたあとのことはあまり覚えていないと言っていたけど、その一点だけ多分彼女は嘘をついているんだ。君のことを言わなかったという事実を、言わなかったから君を助けられなかったという事実を彼女は忘れられなかったんだと思う。初めは子供心になんとなく感じていたことだけど、それが年齢を重ねるうちにはっきりとした形で彼女の心に焼き付いていったんじゃないかと思う…… 夏子を許してやってくれ」
私は少し間を置いて、その先を少し躊躇しながら続けた。
「ただ…… 」
私は林田の目を見据えながら言った。
「ただ…… これはあくまで、もし、なんだけど、もし君が、一歩足を踏み外したら深い穴に落ちてしまうかもしれないような、そんな危ない場所にいなかったとしたら? もし、彼女の肩をたたかなかったら? あるいは、たたいても、君の胸に大きな蜘蛛が止まっていなかったとしたら?」
「蜘蛛?」
「君の胸には、その草むらのどこにいたのか大きな蜘蛛がはりついていたんだよ。肩をたたかれて振り向いた時彼女はそれしか見えなかったんだ。夏子は蜘蛛を見ると体が震えるほどあの不気味な姿が生理的に嫌いなんだ」
「……」
「君はあの危ない位置からうまく木を降りて、胸に彼女が嫌いな蜘蛛がついているのを知らずに肩をたたいた。だけどもしそうしていなかったら? そうしていなかったら、彼女は長い間、ある種の人たちが持つ特有の自責の念によってね、まるで、まさにその蜘蛛が胸の中で蠢いているような、そんな不安感にさいなまされることはなかったんだろうね。断っておくけど、これは君を非難してるわけではまったくないよ」
林田は右手のこぶしを握りしめた。だが薬指と小指がだらんと残って震えていた。彼は長い間黙ってその二本の動かない指をみていた。その後遺症のために苦しんできた長い年月を思い出しているようだった。それがどんな思いであるか、私には想像しかねた。だが、やがて彼はふっと眉毛を動かして遠くを眺めるように視線を投げた。そしてその目の下にかすかな微笑をたたえた。
かつて空き地だった場所には、シンプルな幾何学の連続模様をあしらった、斬新的なデザインの看護学校があり、色とりどりの格好をした学生達が出入りしているのが見えた。その手前には五階建ての新しい病棟が二棟建っており、これは林田が言っていた、かつては精神病棟だったという「黒っぽくくすんだ色の病棟」が建て替えられたものだった。左側の斜め上から差し込んだ太陽の光が隣の病棟に半分遮られて、その新しい病棟の壁に大きな影を作っていた。人口の池の表面には相変らず青空に浮かんだ綿雲が三つ浮かんでいた。
やがてその池の小さな岩の陰から高さ五メートルほどの弧線を描いて噴水が上がった。その噴水はいくつもの小さな水の塊にばらけながら、ほんの瞬間この世に躍り出てはおだやかな水面にぶち当たって消えていった。ふと、私は昔父が入ったあの汚水槽の中で、オレンジ色のライトを浴びながら燦々と輝いていた水のしぶきを思い出した。
「夏子はまたイギリスに行ったよ。君に会うってきかなかったんだけど、俺が話すからって説得したんだ。それで良かったかい?」
私がそう言うと、林田は小さくうなずいた。
「ところで君は……」
私はまた林田に言った。
「君を見つけてくれたご両親に、その時なんて説明したんだ」
林田はいつになくおだやかな微笑をたたえたまま黙っていたが、やがてこう言った。
「自分で落ちた、と」
林田とこの病院で別れてから、私は何度もいつものとおり学食の脇の美術棟の下で石を彫っている林田を見かけたが、ほとんど声をかけることはなかった。それから何年が過ぎただろうか。もうすでに大学を卒業して、映画の道には進めずに一般企業に就職してしまった私は、仕事の合間に立ち寄った都内の大きな書店で日本を代表する有名な美術展の彫刻部門の優秀賞受賞者に林田圭一の名前を見つけたのだ。その彫塑の顏は夏子をモデルにしたものではなかった。林田の顔写真の口元のゆがみは彼に独特の魅力を与えているように見えた。 〈了〉