聖夜の開演
山鳥の囀り、斜陽に照らされ煌めく石の段。白む息と赤くなった鼻先。まだ寒い2月の末のこと。少年は山頂の宮を目指して橙色の山を歩いていた。
「急いだ方がいいかもしれんな、間に合わんやも」
杜若の色が混じった黒髪が揺れる。
ここはヒノモトと呼ばれる東の果て、魑魅魍魎と隣り合わせの地。
昔、帝と羅刹は盟約を交わした。日の出ている間は人が、落陽の後は邪が地を歩く。
-間もなく日が落ちる。
夜がやってくる。ここからは、悪鬼羅刹が人を喰らう時間。
-オイデ……オゐデ……
不浄の気配に少年は飛び上がる。
「もう逢魔が時か!」
まだ新芽が付き始めたばかりの枯れ木は陽をよく通し、陰が出来にくい。されど日が傾くほどに木々の影は伸び、今や沈みきった日の残り火ではもう山は照らせぬ。
-こっチへおイデ
-たノしヰ、タノしイ世
日が眠ったその瞬間、陰の落ちた木々の奥から嫌な気配がざわめき出す。誘うコエに少年は急いで親指を噛み切り、袂から取り出した札に血を吸わせた。
影から墨で落書きをしたような手が、幾つもニョキニョキ飛び出し襲いかかる。目覚めの朝食を求めて、少年へと手を伸ばしていた。此処を子供が通るのは何年ぶりのことだろう。この山は、名高い陰陽師のお膝元である。百歳獲物にありつけず、ここに縛られた者達はたいそう腹を空かせていた。あと数年も飢えの中在り続けたなら、餓鬼に転じているやもしれない。
「符よ、我が許す、己が命を全うせよ」
魔の手が伸び、少年を捕食せんと触れた瞬間。ボロボロと崩れ去り、闇の向こうからおぞましい断末魔が轟いた。音に驚いたカラス共が一斉に飛び上がり、空で待ち構えた黒い何かに飲まれる。夜は空さえも魑魅魍魎の化け物が支配するのだ。
少年は目を伏せて笠を被り直した。罪悪感が胸を刺すのである。
「陰の者達にも極楽浄土があるのならば、来世があるのならば、その時は穢れに身を落とすことがありませんように……烏達にも悪いことをしたな」
邪を屠っても誰も気に止めぬのに。むしろ誉とするのに。優しい少年はバケモノ共を化け物と呼ばず、消えた陰の者を想って冥福を祈った。
すっかり影を落とした山にため息をついて、提灯に火を入れる。
札をまた1つ取り出して、止まりかけの血をそれで拭うと提灯の側面に貼り付けた。
「汝は小さき陽なり、闇を照らし邪を退けよ」
本当は日が落ちる前に辿り着いて、驚かせたかったのだが、もはや叶わない。提灯を揺らしながら四半刻ほど歩くと、大きな朱色の鳥居が現れた。月光に照らされ朱は光沢し、夜風に注連縄の紙垂が揺れる。
山頂の大きな鳥居を見上げて、少年は息を吐く。
これより先は雷神様の住まう神域。ここには何度も拝みに来ているが、今日は違う。雷神を祖とする鳴神家の神継ぎの子として、たった一人で神に相見えるのだ。
二礼、二拍手、一礼。
「鳴神家嫡男、その血を示しに参りました」
「来たか、雷の子よ」
入れ。と許しを頂いたので、少年は神域へと足を踏み入れる。7つの太鼓を背負った緑肌の巨大な鬼が胡座をかいて待っていた。額にそびえる対の黒曜の角は、左だけが長く金に煌めく。大きくうねる白い髪と髭、つり上がった大きな目は金に光り、その中で小さな青い瞳が睨んでいる。
「失礼します」
「小さき身体で良く参ったな、ほれ、ちこう、ちこうよれ。爺ちゃんに顔をみせよ」
かと思えば、途端に頬が緩み、目尻が下がり、巨体に見合わず好々爺の顔で少年を手招いた。
「はい。あの、こちら雷神様のお好きな甘酒です」
笠を脱ぐと背負っていた手ぬぐいから、竹で作られた大きな水筒を取り出す。少し恥ずかしそうに
「本当は酒樽ごとお持ちしたかったのですが、一升でも心配なぐらいだと乳母や師に止められてしまいました……」
そう宣う姿に、もう雷神の目尻は限界まで下がる。十歳を数えたばかりの子供が二刻半かけて山を登ると言うだけで大変なのに、更には酒樽を引いて行くと言って聞かない様子を山頂から眺めていたので、知っていた。 渋々、一升ばかりの竹筒を背負う姿を見て悶えたのだった。
-俺の孫がこんなにも愛い……!
そんな具合である。
ピリピリと鳴神の子らは皆緊張しているが、雷神からすれば、幼子の初めてのお使いを見守っているような心持ちなのである。BGMは『ハニホヘ大丈夫』だった。なんせ、自分を爺ちゃんだと思っているので。
「そうかそうか、重たくなかったか?」
「平気です。雷様のようには程遠いですが、鍛錬もしています」
「そうか、俺のようになりたいか、良い良い」
破顔とは是この通り。機嫌が良くなりすぎて、何も見る前から花丸と駄賃を付けて帰してやりたいくらいだ。
「はいっ。おれは弱きを助ける騎士になりたいんです」
ないと。はて、それは一体なにか。雷神の知らぬ語彙である。知ったかぶりをしても仕方あるまい、雷神は戸惑いつつも大人しく尋ねることにした。
「な、ないと、とはなんだ」
「外つ国の武士、侍です。おれは魔法という術を使い、空を駆ける獣に乗ります」
「……あぁ、嗚呼! 成程。合点がいったぞ。お前は西洋の物語を好んで読んでおったな」
「はいっ、おれは|究極至高《アルティメット ワン オブ ザ 》|暗白堕天使《ヴァイス シュヴァルツ ブリューグンド》として、魔法を学び魔法騎士になります!」
「ある、ぶりゅ? ……そうか、励むと良い」
ニコニコぴかぴかと夢を語る子。
やはり羅列される知らぬ単語に首を傾けながら、まァ幼子はこんなものだろうと納得した。爺に外国語は難しい。言っていることは半分も理解出来なかったが幼子が笑っているだけで宝だ、夢を語る童に冷水をかけることもなかろ。
雷神の知ることでは無いが、少年は洋書に感化され、思春期に脳を犯されていたのである。これを機界の日ノ本ではこういう。
厨二病。と。
「応援してくれるんですか、雷様!」
「良い良い、励め」
当然この夢を家の者は誰一人として肯定してくれない。開国が始まった今、西洋に渡り魔法を学びたいと何度も両親に頼み込んでいるのだが、まともに取り合って貰えない。
それを他ならぬ雷神に認められ、少年はすっかり緊張が解けていた。
「では、雷神様に鳴神の血を示します」
「良い、とくと見せよ」
「天よ唸れ! 我が名の元に神雷を下す」
本来なら唱えない、少年のオリジナルの呪言に合わせて暗雲が立ち込め、月を覆い隠す。紫電が雲の中を弾け、少年からの命を待ち濃縮されていく。
「これは……」
一面の空を覆わんばかりの立派な暗雲の呼び寄せに雷神は目を見張った。ここまでの規模を呼び寄せた子供は実に久しい。しかも暗雲の中の電圧を頭上一点に集約させようとしているのが紫電の流れを見ればわかる。
「鳴轟雷来……!!!」
少年から発せられた言霊に従い、轟音を連れだって紫の巨大な雷が雷神へと降り立つ。
巨体を貫いた雷は循環し、やがて7つの大太鼓に収まった。バチバチと音を跳ねさせ、輝く太鼓はご機嫌に唸る。
「……良い」
放心のため息ののちに、喉から漏れたのは人の子への心からの賞賛だった。これ程に雷雲へ語りかけ愛される子は実に七百と三十年ぶりのことであった。鬼になる前、青年だった自分を思い出していた。
「雷神さま?」
評定をジッと待つ少年の声に我に返る。
「いや、いやいやいや、まったく。よくやった雷の子よ! お前を雷の神継ぎとして認めるとも。雲らに好かれているのは知っていたが、これ程とは……五年後、十年後が楽しみじゃわい。当代の神継ぎの子共の中で群を抜く霆であった。これは風のに自慢してやらねばな。」
子を心から誇らしく思っての言葉だった。
機嫌よく、巨体に見合った笑い声が響く度に山々に落雷する。轟音の中、雷様に褒められて少年も照れて笑った。それはそれは大変努力をしてきたのだ。落雷術の本家、雷神に褒められてもう嬉しくて仕方ない。努力が実る喜びで胸がいっぱいである。毎晩寝る前には欠かさず洋書を読み、床に入りながら想像を膨らませ、毎日カッコイイポーズと詠唱を思案しては、毎日何百と震霆轟かせ試行錯誤を繰り返して来たのである。いやぁ、実にあっぱれな成果であった。
「では褒美をやらねばな、まずは神具の元をやろうな。去年抜けたばかりの角があってな。なんと、十五年も抜けんかったのだ! そら、二尺にもなりそうではないか! 」
ソワソワと角を取り出して見せるその姿は、大きなカブトムシを自慢する小学生に似ている。
「砕き玉鋼に混ぜるのも良し、そのまま加工して棍棒にするも良いだろう。お前の神具はどうしたい? 特別に爺ちゃんがこさえてやろう、棍棒はいいぞ」
その言葉に、わぁっ、と少年は頬を綻ばせた。
「本当ですか!」
「良いと言っている。実に気分良い、なんでも申してみぃ」
わ、わ。と感激と期待と喜びでピカピカ照れ照れしながら雷の子は言ってみることにした。
「あのっ、杖が欲しいです! 父上にも母上にも、すてっきはやれぬ、剣を持て! と言われてしまって、自分で作らねばならないと少し困っていたのです」
「すてっき……? とはなんだ……棍棒ではだめか」
「えと、西洋の武士が術を使うのに用いる道具です……あ。もしかして、できませんか……?」
色良い返事が貰えず、しょも……とピカピカが廃れてしまう。そんな孫の顔を見ては雷神はたまらない。
「たわけ! 爺ちゃんにできぬものか。それはどんなだ。教えてみろ」
「わーいっ」
朝日が差し込み、雀の囀りが戸を叩く頃。ソワソワと忙しない女と、ジッと禅を組み待つ男とその後ろに佇む女がいた。鳴上少年の乳母と父母である。
昨晩鳴り続けた雷鳴は激しく、我が子の安否が心配で気が気ではなかった。
一羽の烏が高く鳴く。闇色の翼に一筋白い羽が混じる彼は、帰還を知らせる乳母の式神である。
「坊ちゃん!」
乳母は待ちきれずに戸を開きに駆け出し、父は思わず禅を崩し震え、母も肩をはね上げた。この二人とて本当は乳母を追い越して迎えに行きたかったのだが、必要な威厳のため必死に堪えていた。二人揃って苦渋が眉間に押し寄せてシワシワになっていた。早く無事な顔が見たいのである。
「婆や! 戻ったぞ」
「あぁ、良かった、良かった……怪我はありませんね」
「怪我? 雷神様とお話して、菓子をいただいて来たぞ。あとは、その、……褒められたな」
褒められた。と報告するのが気恥ずかしくて、でも言いたくて照れ照れ乳母に報告した。その瞬間、乳母の目から涙が吹き出した。
「なんと、まぁ、そうっ。そうですか、素晴らしい……! 占いはますます制度を増し、近いうちに暦の制作にも関われましょう。妖と渡り、呪詛を払い、病魔を払い、ついには雷神様もお認めになられた。やはり先の雷鳴は雷神様からの祝福だったのですね! えぇ、私めには分かっておりましたとも! 貴方は鳴神家の誇りにございます。きっと本家の若様ではなくあなたこそが次代の当主になり得ましょう! いいえ、ゆくゆくは帝にお仕えする陰陽師にも……! 阿部のに並ぶやも! 乳母めは感激でございます」
感涙を撒き散らしながら、一息で感嘆を叫ぶ実にパワフルな女だった。
「婆や、それは大袈裟ではないか……」
「梅、そのようなことは大きな声で云うものではないわ、落ち着いて。ね」
「あ。わ、嫌だ……申し訳ありません……つい」
ヒヤヒヤしてたところ、ニコニコご機嫌で帰ってきてくれた。その安心したギャップで堰が外れたのだった。乳母は奥方に窘められ、羞恥で縮こまってしまった。
「母上……! ただいま帰りました」
「はい、おかえりなさい、聖夜。父上も待っていますよ」
聖也は父の元へたったか走って行く。早く見せたいものがあったのだ。
「父上! ただいま帰りました」
ジッとひとり禅を組み瞑想に励む父の背中に声を掛けた。
「云、戻ったか。よくやったな。して、雷神様の御角はいただいてきたか?」
「はいっ! 雷様自ら僕に神具を打ってくださいました」
「なんと! それは素晴らしいな、父に見せてみよ」
ニコニコきらきら語る子につられて緩む頬を引き締める。自分は威厳ある父である。頬を擦り付けて、高い高いして振り回して褒め讃えたいが、拳を握り締め堪えた。
しかしそれにしたって、実に素晴らしいことだ。雷神自ら神具を授けられる者はひと握りである。誇らしくて、今すぐ抱き締めて撫で回したい気持ちでいっぱいである。本家の坊ちゃんなんぞより、ウチの子のが凄いのでは無いかとちょっと、否、かなり思ってしまう。
まァ、その威厳が保てるのは、もう間も無い時間の話なのだが。
「はいっ、こちらです! 雷神様より、杖をいただきました! 」
「す、すてっき……?」
受けた光を金に反射する、細身の黒曜の杖であった。
「はい、西洋の侍、魔法使いの杖です 」
ご機嫌に差し出された加工済みの角に父の笑顔は硬直し震え、暫く言葉を発せなかった。
-杖? ……ゑ? 杖……??
力がぬけて膝をつく。思考が理解を拒んでいた。絶望である。あまりのショックに怒気は萎れ、行き場のない怒りだったものというか、消沈というか、そういったものに脳を破壊された。だって雷神様の角。早々手に入る品などでは無い。そもそも怒りたくとも、この杖は雷神の意向である。であれば、異を唱えることなどできようか、否、できない。雷神様直々に作っていただいたのだ、無下にすることは許されない。しかしなんでまたソレが、よりによって西洋かぶれの杖になど……本家になんと報告したら良いのだ。父は頭を抱えた。
「雷神様に今後とも励むようにと仰っていただきました。雷神様より頂いた杖ですが、使い手はヒノモトにはおりません。つきましては父上、西洋にて魔法の習得に励みたく存じます。かねてよりお願い申しておりました、魔法学校への入学をお許しくださいますよう、お願い申し上げます」
「……考えておこう」
これは、確実な一歩であった。少年は今年1番の晴れやかな笑顔で、死にそうな父にお礼を言った。
「ありがたきお言葉! 感謝します!」
やはり、自分は|究極至高《アルティメット ワン オブ ザ 》|暗白堕天使《ヴァイス シュヴァルツ ブリューグンド》の力を秘めし者……。どうあっても、かの聖なる地に導かれる運命なのだ……!
全ては己が真の責務を全うするために……!