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稔の発端

「ぼたもち、待ってよ」

「ワンっ」


  ヘッヘッヘッとご機嫌な愛犬に引きずられながら、一生懸命ぽてぽて走る少年。ぼたもちは御歳4歳。少年におはぎ(・・・)を食べながら付けられた名前に誇りを持っている。毎日リードを咥えて、大好きなご主人を学校まで迎えに来るパワフルな黒いレトリバーである。

 子犬の頃は括られたリードに為す術なくお留守番していたのだが、身体が大きくなるとリードを引きちぎることに成功。父母との毎日の攻防の結果、今ではすっかり繋ぐ事を諦められているのであった。

 ご主人と走る今この時が最高にハイってやつである。少年の悲痛な「待って」は届いていなかった。

 

 冬空の下、頬を切る風が冷たくて少年はくしゃみをした。突如響いたご主人の爆音にやっとぼたもちは足を止める。

 

「ぼたもち、鼻かむからちょっと待って」

 

 ぼたもちは何を言われたのかサッパリ分からないが、ご主人が何かをしているのは分かったので、大人しく待っていた。待ってはいるが、パタパタ揺れるしっぽが待ちきれないと言っている。それが可愛くて、少年は笑った。

 

「わふっ」

「ん、もーちっと待ってな」

 

 丸めたちり紙をポッケにねじ込んでいると、ぬっと大きな影が少年にかかる。

 上を見あげたのはほぼ反射だった。

 

 黒いシルクハットに、茶色いスーツ、怖い顔のオジサンが眉をひそめていた。多分外国の人だ。

 

機族(からくりぞく)共の世界はいつ来ても空気が不味いな、吐きそうだ。おい小僧、ここはどこだ」

 

 突然外国語で話しかけられた少年はびっくりして、キュッとリードを握った。驚いたのもあるが、この威圧的なおじさんが怖かったのである。でも少年は優しいので、おっかなびっくり一生懸命に自分の知っている英語を使ってみることにした。

 

「はろー。えっと。プリーズ、すぴーく、イングリッシュ、すろー、アンド、イージー。おーけー?」

 

 見知らぬ外人さんに英語で話して、お手伝いをするのは初めてである。少年はドキドキしながら、怖いおじさんのお返事を待った。学びが生きる瞬間である。

 

「あ? チッ、使えない奴め。もういい」

  

 無念。彼の学びは生きること無く、少年の健気な親切を黒服の紳士は冷たく吐き捨てた。ジャケットからやけに形の整った木の棒を取り出し、それを少年に向けたのだった。

 少年はキョトリとして、それを眺めていた。人間、急に訳の分からない行動をされると動けなくなるのである。

 

 その時だ。ぼたもちが急に唸り声をあげ、高らかに男に向かって吠え始めたのである。すると、通行人がじろりと訝しむようにこちらを見て歩いていく。

 

「わ、どうしたんだ、ぼたもち。人に向かって吠えちゃダメだろ、こら」 

 

 大好きなご主人に(たしな)められても、ぼたもちは大きな影に向かって一生懸命吠え続けた。レトリバー種は猟犬である。狩猟本能を持つ生き物として理解した。いま自分の主人は、このデカブツに殺気を向けられている。自分が守らなければ、小さな主人は食べられてしまう。だから頑張って威嚇しているのである。

 

 そんなことはつゆ知らず、少年は途方に暮れていた。ぼたもちがこんなに吠えたことは今までにないからだ。何となく、この棒を向けられていることが怖いんだなということはわかる。しかし、英語でなんと言えばいいのか分からない。

 

「そーりー。ハンド、ダウン、プリーズ」

 

 頑張って伝えてみるも、男は険しい顔のまま動かない。

 

 犬畜生に威嚇され何かを見透かされたような気がしたのである。それに加え、見世物みたいに通りすがりに見られ、男は大変居心地が悪かった。不快感からキリキリと眉を顰めた。

 

  「なんだい騒がしいね」 

 

 あんまり吠えるものだから、近くの個人商店からおばちゃんが不審がって出てきたのである。そして少年と男を見るなり、キッと男を睨んだ。このおばちゃんは少々早とちりしがちなのだが、今回は本当に不審者だったので問題ない。

 

「みのりちゃん、大丈夫かい」

「あ、高島さん。外人さんが、何か困ってるみたいなんです」

 

  少年は犬と下校する小学生だったので、近所では有名だった。リードを引きちぎって迎えに来る犬は他に居ないから。

 (みのり)は駆けつけてくれた大人にほっとして、助けを求めた。

 

「外人さんねぇ、おばちゃんも英語は分からないから……あぁ、スマホでなら分かるかもしれないね」

 

 ずい、と男に向かってスマホを突きつけた瞬間である。急に、2歩、3歩と後ずさったかと思えば舌打ちをひとつして去って行った。

 

 男はスマートフォンを見た事がなかったので、酷く警戒したのである。

 

「行っちゃった……?」

「なんだってんだい」

「わふっわふっわふっ」

 

 黒い板切れ1つでデカブツを倒したおばちゃんに感激して、ぼたもちが高島さんの周りを走り回って讃える。

 高島さんは犬にじゃれつかれて悪い気はしなかったのか、快活に笑った。ぼたもちが1周する度にリードが巻き付き、ぐるぐる巻きにされても怒らなかった。

 

 稔とぼたもちは、お駄賃にオヤツサラミを貰って仲良く帰った。男の顔が嫌に頭から離れないのは何故だろう。漠然とした不安感に追われながら帰路に着いた。

 

 ゾワゾワとした不安感は、夜、叔父さんに話しても消えなかった。

 

「それは変な外人さんだったな」 

「英語上手く出来なかったです」

「何言ってんだ。外人さんとお話するのって、大人でもとっても勇気がいるんだ。お前はよく頑張ったさ。えらいぞっ!」

「そうですか?」

 

 お父さんは福岡に単身赴任、お母さんは骨折したおじいちゃんの介護のために青森である。叔父さんに家庭はないが、日中はお仕事で空けられないので、夜に稔の世話を焼く代わりに、お母さんにおじいちゃんの世話を頼んだのである。

 そんなわけで今週からしばらく叔父さんと一緒だった。気のいい叔父さんは、稔をしこたま可愛がっているので、稔も叔父さんのことが大好きである。夜ご飯が3日連続カレーでも、へっちゃらだった。

 

「俺だったら話しかけられても、ソーリー、アイキャントスピークイングリッシュっつって逃げちまうなぁ。稔は優しい良い子だ、えらい」

 

 叔父さんの大きな手がわしわしと、不器用に稔の頭を撫でる。白い猫毛がくしゃりと歪んだ。暖かくてとても安心するこの手が大好きだ。

 

「それに、稔の英語が通じなかったんじゃなくて、そいつが耳詰まってただけかも知れんだろ〜?  落ち込むなって。稔なら次はもっと上手くできるに決まってる、な」

 

 稔が落ち込んでいると、いつも隣に座って、大きな口で笑って元気付けてくれる。すると、いつでも力が湧いてきて、なんだか自分はできる気がしてくるのだ。

 

 でも今日は、ひんやりとした嫌な感じが拭えなくて、布団に潜っても叔父さんの手を探して握っていた。稔はあまり甘える子供ではないので、珍しい事だった。叔父さんも心配して、今夜は柄に無く子供の添い寝というものを、産まれて初めてすることにした。

 

 30分くらい経って、ようやく穏やかな寝息が聞こえ始めたので、のっそり叔父さんが身体を起こす。どうせ自分の方が早く起きるのだ。広い布団で寝直しても、バレないし寂しく無かろう。……寂しくは無いはずだ。そう己に言い聞かせて、四苦八苦しながら、きゅ、と柔く握られた手を5分程かけてようやっと離すことが出来た。

 叔父さんはこれまた、産まれて初めて子供に手を握られながら寝落ちされたので、これに甚く苦心したのである。

 

 ひと仕事終えて息を吐いた時の事だ。

 ぼたもちが吠え始めたのである。ぼたもちは自分が稔にやった犬である。5歳だったか6歳だったかの誕生日プレゼントかクリスマスプレゼントだった。しっかりブリーダーに躾てもらってから連れて来た犬なので、人を見ても吠えないはずだ。叔父さんは不思議に思って玄関を開けたのだった。

 

「お? よくやった駄犬、鍵開けの手間が省けた」

 

 ぼたもちが、犬歯をむき出しにして威嚇していたのは、長身の男だった。

 

「どちら様で。ウチに何か用か」

 

「御機嫌好うミスター。夜分にすまないが、なに、直ぐに済む」

 

 稔はぼたもちの叫び声で飛び起きた。叔父さんが居ない。背筋が冷えるような感覚に不安になって、布団を抜け出した。安心したくて叔父さんを探す。

 

「うん。機族(からくりぞく)にしては良い屋敷だな。一月くらいなら住んでやってもいいだろう」

 

 昼間の男が居間に立っていた。びっくりして、稔は固まった。

 

「え」

「また会ったな、小僧」

 

 不気味で怖くてたまらない。

 ぼたもちの声がしなかったら、今頃座り込んでしまっていただろう。彼から貰える勇気のおかげで、稔は立っていた。あれ、その相棒はどこに居るんだろう。稔は気になってぼたもちの声を辿って当たりを見回した。窓の方を見て、それから玄関へ続くドアを見た。開けっ放しのドアの先に見える、ゴツゴツした足。灰色の靴下を履いた足から目を動かせなくなった。

 

「叔父さん!」

 

 慌てて駆け寄れば、叔父さんは目を開けたままピクリとも動かない。死んでいるみたいだった。少年はまだ人の死を見たことがない。でもこれは、救急車のことなんか思い出せないくらいにショックだった。

 

「あ、わ、うぁ」

 

 言葉が出てこない。言葉の代わりに、言い表せない絶望感が両眼から溢れる。

 

「おじさん、おじさん」

 

「そう泣くな小僧、次はお前だ。ハハ……機族(カラクリぞく)などに翻訳魔法を施すなどと思ったが、やはり悲嘆を聞く分には愉快だな」

 

 そう言って、昼間突きつけたように少年へ杖を向けると、黒い毛玉が割り込んで立ちはだかった。

 

「ワヴッ」

 

 ぼたもちは、この杖が叔父さんを殺したことを学習していた。大好きな主人を守るため、死を覚悟して身を投げ出したのである。

 

「わん、わんっわん」

 

 稔の服を引っ張って、一生懸命立つように声を掛けるが、9歳になって間もない少年には無理な話である。

 

「ヴゥゥ……バウっ」

 

 そうなれば、己がイチかバチか、敵を殺すしかない。あの杖が光ったら最後、きっと主人は死んでしまう。そんなこと、あってはならない。

 

「良い忠犬を持ったな、小僧。ハハ……特等席をやろう(ムーヴィード)

 

 紫の光が杖に灯った瞬間、ぼたもちは床を蹴り、男の喉元を目掛けて飛び上がる。しかしどうだ。

 

「バウっバウっバウっ」

「ぼたもちっ」

 

 狙いは稔ではなかった。杖先から走ったイナズマは、迷うことなくぼたもちを捕らえ浮かび上がらせた。ふよふよ宙をかきながら一生懸命吠える犬を笑って、男はそれを杖の真横に置いた。ほぼ眼前から死の光が少年を襲うところを見ることができる、最悪の席だった。

 

「お前の主人の死に様をよく見ていろ、駄犬」

 

 最悪の権化である。男に噛み付こうと一生懸命アグアグ空を噛むのを見て、男は更に笑った。

 

「あまり面白いことをするな、駄犬。腹が割れそうだ」

 

 親友が弄ばれ、嗤われているのを見て、小さな身体に大きな勇気が宿るのを感じた。怖いのは何処かに消えていた。恐怖を義憤が塗り替えたのである。

 

「ぼたもちを離せ! 叔父さんを起こせよ!」

 

 わーっと駆け出して、力いっぱい悪魔を殴りつけた。自分の手が痛くて堪らないくらい、強く、強く打ち付けた。

 男にはそれがあまりにも間抜けすぎて、可笑しくて震えた。圧倒的弱者を弄ぶことのなんたる愉悦。

 

「お前、お前、ぼたもちに酷いことしたら、絶対に許さないからな!」 

「そうかそうか、許さないか。ハハ。やってみろ小僧」 

「わうっ、バウっ、ヴゥゥゥ」

 

 悪魔はどちらを先に殺すのが愉快か考えながら、立ち向かってくる小さな命を暫時見下ろしていた。しかし迷ううちに、だんだん疎ましくなって。

 

「お前が先だ、息絶えよ(デアギルス)

 

 死神の杖が少年に狙いを定めた。その瞬間。もがいていた犬が大人しくなったことに、男は気付かない。黒い呪詛が灯った杖先を、ぼたもちは全神経を尖らせ、正しく死ぬ気で追っていた。ぬくぬく育って来たが、猟犬の本能が動く的を逃さない。

 

「ワンッ」 

 

 振り下ろされる杖が自分の真横を通るその一瞬。それを的確に捕らえ、杖先に噛み付いたのである。口内で放たれた死の火花は、ぼたもちの生命活動を破壊した。

 

「ぼたもちッ」 

「わ、私の杖が……このッ、この駄犬がァ! 家畜の分際で……」

 

 しかし実に天晴れ。杖先を噛み砕き、忠犬ぼたもちは魔法使いと刺し違えたのである。

 

「ぼたもち、いやだっ、ぼたもちっ!」

 

 床に叩き落とされ、打ち付けられた身体はピクリとも動かない。亡骸になおも無体を働こうとする悪魔に、視界が真っ赤になった。それは、少年が初めて抱いた強い憤怒から生まれた殺意である。

 

「うぁぁぁァァァァッお前、お前ッ、よくも!  よくも!!」

「黙れ小僧、お前も惨たらしく殺してやる。よくもこの私の杖を折ってくれたな」

 

 怒りの熱で思考も焼き切れていた少年は、音が聞こえなくなって、なんだか相手の動きがゆっくりに見えた。コマ送りと言うやつである。杖先に親友を殺した荒れ狂う黒い光が灯るのが見えた。どうでもよかった。この悪魔を殴らなければ気が済まないのである。杖が振り下ろされるのが見えたが、自分の拳が届くのが先だったので怖くは無かった。

 

 視界が今度は真っ暗になった。

 自分が死んでしまったのだろうか。でも何かを殴った感触はあった。

 

「……?」 

 

 コマ送りが止んで、音が戻ってくる。稔の視界を埋めつくしていたのは黒いコートだった。

 

「ッその制服、魔導局か。チッ……厄介な。小僧、覚えておけ、俺は必ずお前を殺しにやってくる。どこにいても、必ずだ」

 

 嫌な音が消えた。聞こえるのは自分を覆う男の浅い息と儚い脈拍だけである。

 稔は訳が分からず、動けなかった。数秒かけて、知らない人が自分を抱きしめていること、大好きな家族を殺した男が逃げたことを理解して、吠えた。

 

「どけよぉ! おれだっで、おまえをころじてやる!」

 

 緊張が解けて泣き叫んでいると、ぽんと弱い力で頭に手が触れる。優しい顔の男だった。死ぬとわかっていながら、迷うことなく見ず知らずの子供を背に庇ったのである。稔も本当は助けて貰ったことを分かっていた。でも今は、それより大きな激情で、それどころじゃないのである。優しい少年が「ありがとう」を言えないくらい、ぐちゃぐちゃで、泣くことしかできないのだ。

 

 男に言葉を残す力は無く、しなだれかかるように抱きしめた。ワーッと行き場のない怒りで泣く子供を、残された力であやしているのである。それから震える力で少年の小さな手に自分の杖を持たせたのだった。

 

 ぽすぽす弱い力で殴る子供を抱きしめて、死にゆく男は終始優しい顔を崩すことをしなかった。

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