005
エマが海を穏やかにして以来、帝都アインフェルトには活気が戻っていた。
港には一仕事を終えた漁船が次々と入港し、豊かな魚介を積んだ荷車が列を成して市場へ向かっている。
人々の顔には笑みが浮かんでいた。
そんなお祝いムードの中、ヴァルタリオ皇帝は、玉座の間でエマと対面した。
漆黒に近い短髪にわずかな白髪が混じるヴァルタリオ皇帝は、優雅な装飾をあしらった正装に身を包み、深みのある眼差しでエマを見つめる。
「エマ、改めて礼を申し上げる。そなたの力がなければ、我が帝国は、今も過酷な日々を送っていただろう」
皇帝が厳かな声で告げる。
その隣に立っているメリエンヌ皇妃も柔らかな笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございます、エマ。海が落ち着いたことで、どれほど多くの民が救われたことか……。わたくしも心から感謝しております」
エマは深々と頭を下げ、恐縮しながら口を開く。
「ありがとうございます、陛下、皇妃様。帝国の皆様が喜んでくださるなら、それだけで十分です」
ヴァルタリオ皇帝は、エマの謙虚な姿勢を見て満足そうにうなずいた。
続いてメリエンヌ皇妃が優しい口調で言葉を継ぐ。
「今日から皇宮での暮らしになりますが、遠慮なく何でも言ってくださいね。ナディーネもそなたの力になってくれるでしょう」
「はい! ……って、え? 皇宮ですか!?」
エマは驚いた。
てっきり適当な迎賓館があてがわれると思っていたのだ。
「もちろんです」と、メリエンヌ皇妃が微笑む。
「ですが、私は王国だと公爵様に離縁され、伯爵家からも事実上の絶縁を突きつけられました。そんな人間を皇宮に住まわせるとなったら、他の方々に反発されるのでは……」
ヴァルタリオ皇帝は「問題ない」と笑った。
「我が帝国において、そなたの功績を疑っている者など一人もおらぬ。エマ、そなたは紛れもなく帝国を救った〈海の巫女〉だ。皇宮で直々におもてなしをするのが帝国の礼儀というもの」
「その通りです。ですからエマ、どうか皇宮を我が家だと思ってください」
「は、はい……! ありがとうございます……!」
エマは深々と頭を下げる。
王国にいた頃だと考えられない破格の好待遇だ。
(私、帝国に来て本当によかった!)
心からそう思うエマであった。
◇
ナディーネに案内してもらう形で、エマは皇宮内を見て回った。
宮殿はとても広いため、一度では覚えきれない。
暇な時にでも歩いて回る必要がありそうだ、とエマは思った。
「エマ様、こちらが寝所で、隣の部屋が書斎になっております。わたしが毎朝、部屋の掃除や着替えの支度などのお手伝いをしますね。また、何かありましたらいつでもお申し付けください」
「ありがとうございます、ナディーネさん。何から何まで親切にしてくれて……」
「いえいえ! これが私のお仕事ですから! それにエマ様は帝国の救世主です! どれだけ尽くしても尽くし足りませんよ!」
「そんなそんな……あはは」
エマは戸惑いながらも、ナディーネの明るい笑顔につられて自然に微笑んだ。
◇
エマの生活は規則正しい。
朝は決まった時間に起き、ナディーネと二人で朝食をとる。
皇宮で過ごしているとはいえ、さすがに皇族の面々とは食卓を囲めない。
正確には、エマが「畏れ多くて無理ですぅ!」と拒んでいた。
午後になると、帝都や近隣の海に出向いて祈りを捧げる。
海洋魔獣を含む海の生物たちと交流するのが彼女の日課だ。
魔獣にも色々な種類がいて、中には温厚で友好的なタイプもいる。
というよりも、そうした魔獣が大半を占めていた。
いわゆる「荒くれ者」のようなタイプはほとんど存在していない。
「エマ、ちょっといいかな?」
エマが新しい生活に順応し始めた頃、レイヴンが部屋にやってきた。
端正な騎士服にマントを纏った姿が相変わらず凛々しい。
「君を帝都の各所へ案内したいのだが、時間はあるか?」
「え、わざわざ殿下がご案内を? そんな……お忙しいのでは……?」
エマが恐る恐る問いかけると、レイヴンは穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ。君のおかげで仕事が減ったからね。それに……少しでも君に喜んでほしい。そう思っているんだ」
「殿下……!」
エマは嬉しさと恥ずかしさから、思わず赤面してしまう。
「分かりました! それでは、お言葉に甘えてご案内していただきます!」
彼女が承諾すると、レイヴンは嬉しそうに「ありがとう」と微笑んだ。
◇
エマとレイヴンは馬車で皇宮を発ち、アインフェルトの大通りをゆっくりと巡った。
石造りの街並みが美しく、沿道のあちこちからは人々の陽気な笑い声が聞こえてきた。
沿岸都市ということもあり、多く露店で魚介類を扱っていた。
「殿下、見てください! あんなにたくさんの魚が……! 私が王国にいた頃でも、これほど潤沢な市場は見たことがありません!」
「それだけ君の力が大きかったということだ。ここ数日だけでも、漁獲量が格段に増えている。まさに奇跡としか言えないよ」
しばらくして、二人は馬車を降りた。
帝都の中心にそびえる歴史的な建物を徒歩で回っていく。
そして、ある大聖堂の前で足を止めた。
「建国記念の祝宴が行われる大聖堂だ。初めて君に会ったのもここだったな」
「はい。覚えています! あの時、私、レイヴン殿下の姿に感動していました」
「感動? どうしてだ?」
「全員に声を掛けて回っていたじゃないですか。私のような伯爵家のオマケとして参加していた人間にまで……。そのお姿がとても印象的でした」
レイヴンは「なるほど」と笑った。
「あの時は、私も今より肩肘張った状態だったな。『皇太子としてしっかりせねば!』みたいな思いから、変に必死だった気がする。だが、そのおかげで君の力を知られたのだから、当時の自分を褒めてやらないとな」
二人は大聖堂を見ながら、当時のことを思い出して笑う。
最初は緊張していたエマだが、すっかり落ち着いていた。
リラックスして笑う彼女の横顔をチラリと見ながら、レイヴンは思う。
(やっぱりエマと話していたら落ち着くな……)
するとその時、エマがレイヴンの視線に気づいた。
「どうされたのですか? レイヴン殿下」
「い、いや、何でもない! 今日も空が青いなー! ははは!」
エマは「えー、なんですか、それ」と笑う。
レイヴンは気づいていないが、実はエマも話しながら思っていた。
(レイヴン殿下と話していると落ち着く……!)
互いにまだ気づいていない。
しかし、少しずつ、互いに惹かれ始めていた。
「殿下、お迎えに上がりました!」
夕暮れ時になり、近衛騎士長のアルフォンスがやってきた。
それによって、レイヴンの表情がきりっと引き締まる。
「ありがとう、アルフォンス」
レイヴンはエマをエスコートして、二人で馬車に乗る。
「エマ、また一緒に出かけよう。帝国の領土は決して広くないが、素敵な場所はたくさんあるからね」
「はい! 楽しみにしています、レイヴン殿下!」
そう答えるエマは、王国にいた頃とは別人のように幸せそうだった。
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