002
クライスに離縁されたエマは、実家へ帰らざるを得なくなった。
馬車で伯爵領まで移動し、伯爵家の本邸に向かう。
「ありがとうございました」
御者にお礼を言い、憔悴した表情で馬車を降りるエマ。
そんな彼女を待ち受けていたのは、冷え切った両親の視線だった。
「随分と大事をやらかしてくれたじゃないの」
開口一番にそう言ったのは母親のキャサリン伯爵夫人だ。
玄関先で仁王立ちにしており、派手な髪飾りを揺らしながら鋭い目線を向ける。
身につけた大ぶりの宝石がギラリと光り、荒んだ空気の中で一際の冷たさを放っていた。
「お母様……申し訳ございません。でも、どうか話だけは――」
エマが何とか言葉を紡ごうとすると、キャサリンの後ろから男が現れた。
短く刈り込まれた髪が特徴的なその男は、エマの父・チャールズ伯爵だ。
「話? 貴族の体面を潰しておいて、なお弁明があると? 公爵家との関係がどうなるか分かっているのか」
チャールズは声を低め、唸るようにエマを睨んだ。
怒気を含んだ鋭い眼差しの中に、娘への愛情は微塵も感じられない。
「しかし、あちらは私を……」
エマが必死に言いかけるも――。
「おだまり!」
キャサリンが容赦なく遮った。
さらに彼女の激しい叱責がエマを襲う。
「あなただって、公爵家で妻としての役割を全うできなかったんでしょう?」
話しながら、三人は伯爵邸の廊下を進んでいく。
その間、チャールズとキャサリンはエマを叱り続けた。
エマの言い分には聞く耳を持たず、ひたすら「お前が悪い」の一点張りだ。
「クライス公爵のもとで失敗したことによって、我がラドフォード家の評判は地に落ちたも同然だ。公爵家との縁は何よりも貴重だったのに、お前という奴は!」
チャールズが忌々しげに唇を噛む。
「あなたのせいで伯爵家全体がどれほど損害を被ったと思っている? ああ、何とも情けないわ。こんな娘をわたくしが産んでしまったなんて……」
エマは納得できない思いでいた。
それも当然のことで、事実、エマは何も悪くない。
彼女は最初、楽しい結婚生活を夢見ていた。
リリアンの存在を知り、それが難しいと判断したあとも努力を怠っていない。
正妻としての役割を果たそうと必死に頑張ったのだ。
(ここで言い返しても火に油を注ぐだけ……。耐えなきゃ……!)
そう思いつつ、エマは最低限の弁明だけ行おうとした。
「お父様、お母様……私も、できる限りのことはしてまいりました。ですが、クライス公爵が離縁を……」
もちろん、この弁明も両親にとっては耳障りなだけだった。
「離縁? それはお前が“役立たず”だったから見限られたのだろう。なのにまだ言い訳がましくするとは……あまりにも浅はか極まりない。お前のような不出来な娘は、娘と呼ぶことすら烏滸がましい」
その一言が決定打となった。
今度はキャサリンが、手を振り払うようにして声を荒げた。
「そうよ。これ以上は恥の上塗りになるだけ。出て行きなさい、エマ。あなたはもう、私たちの娘ではないわ」
伯爵夫人の衣装が派手に揺れ、きらびやかな宝石が甲高い音を立てる。
それはまるで、エマの心を砕く音のようにも聞こえた。
両親との決定的な断絶を感じ、エマはその場に立ち尽くす。
「……分かりました」
そう呟いたエマの声には、失意と諦めが混じっていた。
自分の居場所など、もはやどこにもない。
そう痛感した。
◇
「ご無事で、エマ様」
伯爵邸の門を出たところで、使用人がエマに荷物を渡す。
中に入っているのは数着の衣服と、わずかな生活用品だけだ。
行く宛もなく放り出されたエマは、街を彷徨っていた。
いや、路頭に迷うと表現するのが適切か。
「この先、私はどうすれば……」
誰にも相談できない孤独が胸を締めつける。
通りを行き交う人々は、彼女を見ても冷たい視線を向けるだけだ。
皆、エマが公爵に捨てられたことを知っている。
そして、それによって自身の生活状況が悪化すると考えているのだ。
公爵家との関係が強化されることで、伯爵領がより栄えると思っていたから。
エマの胸の内など、他の人間にとってはどうでもよかった。
「おい、道を空けろ! 早くどくんだ!」
突然、衛兵の声が響いた。
エマが顔を上げると、遠くから何台もの馬車列が近づいてくるのが見えた。
艶やかな黒馬に繋がれた立派な馬車が先頭だ。
側面には他国の紋章らしき装飾が施されており、続く護衛らしき騎士たちには銀色のプレートが輝いている。
「あの紋章……帝国の馬車だ!」
ライオット帝国――。
バルガニア王国の宗主国であり、この世界の覇権を握る国だ。
王国と同じく海洋国家で、王国との間には広大な海が広がっている。
そのため、伯爵領はおろか王国に来ること自体が異例だった。
「待て」
帝国の馬車列がエマの前を通過しようとした時のことだ。
先頭の馬車から声が聞こえた。
その声によって車列がピタリと停まる。
「エマか?」
窓から顔を覗かせたのは、黒髪の青年だ。
整えられた髪と、厳かでも穏やかな瞳が印象的な男。
ライオット帝国の皇太子・レイヴンだ。
「レイヴン殿下!?」
目を大きく見開いて驚くエマ。
彼女とレイヴンには面識があった。
帝国の建国を記念した祝宴で、一度だけだが会っている。
「よかった! 君を捜していたんだ!」
レイヴンが声を弾ませて馬車を降りた。
彼の後ろには、がっしりした体躯の近衛騎士長アルフォンスと、優しそうな侍女ナディーネの姿も見える。
「……って、エマ、妙に疲れた顔をしているが大丈夫か?」
「すみません、あまり大丈夫とは言いがたい状況です……」
「どうしたんだ?」
「……離縁されてしまって、それから伯爵家からも追い出されました」
その説明を聞き、レイヴンは愕然とした表情になる。
アルフォンスとナディーネも、目を丸くしてエマを見つめた。
「なんという仕打ちだ……」
レイヴンが低く呟くと、ナディーネが少し悲しげな表情を浮かべる。
アルフォンスは口を結んだまま、エマの手荷物と薄汚れた靴に視線を落とす。
エマがどれほど辛い思いをしてきたか、その姿を見て瞬時に察した。
「それよりもレイヴン殿下、どうして私を捜しておられたのですか?」
レイヴンは心配した面持ちだが、それでも話を進めた。
できればエマの話をもっと聞きたいが、彼にものっぴきならない事情があるのだ。
「君には『海と心を通わす力』があるだろ? その力を貸してほしいんだ」
レイヴンの言う通り、エマには海とシンクロできる力があった。
ただし、それは「自在に海を操って津波を起こせる」といった凄まじいものではない。
直感的に魚群の位置が分かったり、海洋生物に好かれたりする程度の能力だ。
――と、誰もが思っていた。エマ自身でさえも。
「レイヴン殿下もご存じだと思いますが、“力”と呼べるほど大それたものではございませんよ」
「それでもかまわない!」
レイヴンは即答だった。
「ここ最近、帝国の海が大変なことになっている。海洋魔獣の被害が深刻化していて、漁業は壊滅状態に近い。今は藁にもすがる思いなんだ。仮に君の力が大それたものではないとしても、私には君の力が必要だ!」
エマは衝撃を受けた。
宗主国の皇太子から直々に求められるなど想像もしなかった。
しかし、彼女は回答をするのに躊躇した。
「でも、私は……皆様のご期待に応えられず、かえって迷惑をかけてしまうかもしれません……」
公爵邸での日々や両親からの叱責によって、エマは自信を無くしていた。
自分の存在そのものが害なのかもしれないと思っていたほどだ。
「そんなことございません」
そう言ったのはレイヴンの侍女・ナディーネだ。
彼女は一歩前に出て、茶色い瞳をエマに向けて微笑みかけた。
「エマ様がいてくだされば、きっと帝国の海も安らぐはずです。わたし、そう信じています」
アルフォンスも静かに頷く。
鋭い眼光ながら、決して冷徹ではなく、誠実にエマを見つめていた。
「殿下はあなたを迎えに来られたのです。どうか、帝国へ共にいらしてください」
レイヴンとナディーネ、そしてアルフォンス。
この三人の温かい言葉が、エマの心を大きく揺さぶった。
気がつくと、エマの瞳から涙がこぼれ落ちていた。
人に求められて、大事に思われて、心から嬉しかったのだ。
そして――もう一度、頑張ってみようと思った。
「ありがとう……ございます。私でも……帝国にお力添えできるのなら、お願いします……」
エマの返事を聞いたレイヴンは、心から嬉しそうに微笑む。
アルフォンスとナディーネも安堵の表情を浮かべ、馬車へとエマをエスコートした。
まだ涙の跡が残る頬に、エマはそっと手を当てて振り返る。
そこには、もう帰る家のないバルガニア王国の伯爵領が静かに広がっていた。
レイヴンの手で馬車に乗り込み、帝国へ向けて出発する。
「レイヴン殿下は我々に用があったのでなかったのか……?」
「目的は私たちの娘だったってこと……?」
去りゆく帝国の馬車列を見つめながら、伯爵夫妻は呆然としていた。
お読みいただきありがとうございます。
本作をお楽しみいただけている方は、
下の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』にして
応援してもらえないでしょうか。
多くの方に作品を読んでいただけることが
執筆活動のモチベーションに繋がっていますので、
協力してもらえると大変助かります。
長々と恐縮ですが、
引き続き何卒よろしくお願いいたします。