010
夜の静寂が、ライオット帝国の皇宮を包んでいた。
月明かりの下、広い中庭に張り巡らされた石畳が淡く照らされている。
その奥に控える部屋の一室で、エマは手紙を読んでいた。
多くの帝国民から寄せられたもので、感謝の言葉が綴られている。
「エマ様、今日はもうお休みになりませんか?」
「あと少しだけ……お願いします、ナディーネさん」
「もう38回目ですよ、そう仰るのは」
「だって、帝国の方々がお書きくださったお手紙ですから……」
帝国の文明は最先端だが、それでも郵便網は確立されていない。
そのため、一般庶民が手紙を送るには高いコストがかかっていた。
だからこそ、エマは全てに目を通したかった。
しかし、手紙の山は日に日に高くなっていくばかり。
もはや室内には収まりきらず、専用の保管庫が設けられるほどだった。
「でも、エマ様が無理がたたって倒れるかもしれませんよ。そうなれば、海が荒れて町が混乱するかもしれません」
「うぅぅ……分かりました。じゃあ、寝ます。でも、あと少しだけ……!」
ナディーネは「やれやれ」と苦笑いを浮かべた。
◇
その頃、皇宮の外れでは黒い影が動いていた。
クライスの放った刺客だ。
エマを誘拐するため、皇宮に忍び込んでいた。
闇夜に紛れて、窓の向こうに見えるエマを観察する。
厳重な警備網を突破したが、エマとの距離はまだ遠い。
皇宮内の警備はさらに厳しいだろう。
それに、エマの傍には侍女のナディーネがいる。
これらをどうやって抜けるか。
刺客の男は、闇の中で思案を巡らせていた。
◇
(なんだか妙な胸騒ぎがする……!)
そう感じたのはナディーネだ。
体にまとわりつくような気持ち悪い視線を感じる。
だが、窓の外に目を向けても人影は見当たらない。
(私の思い過ごしならいいけど……念のために報告しよう)
ナディーネは自分の勘を信じることにした。
「エマ様、外の様子が気になりますので、警備を強化するようにお願いしてまいります」
「あ、はい、分かりました!」
「私が戻るまでにはお手紙を読み終えて、お休みになってくださいね」
「い、いやだと言ったら……?」
「一緒に朝ご飯を食べてあげません!」
「それはダメ! 私一人でいただくなんて寂しいもん!」
「だったら、分かりますね?」
「はい……」
ナディーネは「ふふ」と笑みを浮かべて部屋を出る。
その足でアルフォンスのいる詰所に急行した。
「私の思い過ごしならいいのですが……」
ナディーネが事情を説明すると、アルフォンスは真剣に取り合った。
「お前の勘はよく当たる。直ちに警備を強化しよう」
アルフォンスは詰所を出ると、警備シフトの変更を告げた。
人員を増やし、皇宮の内外に対する守りを固める。
しかし、この判断が裏目に出てしまった。
警備兵がフォーメーションを変更する際に生じた一瞬の隙。
そこをクライスの雇った刺客は見逃さなかったのだ。
するりするりと網の目を抜けてエマに向かって行く。
さながらゴキブリのように皇宮の外壁に張り付いて登っていく。
そして、上層階にあるエマの部屋に、窓を蹴破って侵入した。
「きゃあ!」
ふいに悲鳴を上げるエマ。
刺客の男はすぐに彼女の口を左手で塞いだ。
さらに短剣を右手で持ち、切っ先を彼女の首にちらつかせる。
扉の内鍵を閉めると、エマの耳元で囁いた。
「静かにしろ。大人しくしていれば酷い目には遭わさない」
刺客にとって、あとは皇宮から離脱すれば任務完了だ。
もちろん玄関を通って出ていくことはできないため、窓を使うことになる。
だから、事前に準備しておいた紐を使って降下したい考えだ。
しかし、そう上手くはいかなかった。
「エマ! 大丈夫か!」
レイヴンがやってきたのだ。
問答無用で扉を蹴破って中に入ってくる。
(嘘だろ!? コイツ、扉を……!)
刺客にとって、この行動は想定外だった。
エマの待遇を考えると、扉がノックされるものだと思っていたのだ。
そして、ノックしている隙に逃げ切る予定だった。
「んーっ!」
口を押さえられているエマは声を発することができない。
「殿下! エマ様!」
すぐにアルフォンスとナディーネもやってくる。
また、皇宮の外には近衛兵が集結していた。
(さすがライオット帝国の皇宮だ……! これは失敗だな)
刺客の男は計画を諦めた。
プロであるが故に判断が速い。
しかし、だからといってエマを解放するかどうかは別の話だ。
「おい! エマを放せ!」
レイヴンが怒鳴る。
「お前が誰かに雇われているのは分かっている。素直にエマ様を引き渡し、雇い主についての情報を明かすなら、お前の身の安全は私が保証しよう」
アルフォンスは交渉での解決を求めた。
「気持ちはありがたいが、俺は悪党だ。他人を信じることはできない。この女を殺されたくなかったら、皇宮の外まで手を出さないことだな」
そう言うと、刺客はじりじりとレイヴンたちに向かって歩き出した。
それに対して、レイヴンたちは下がっていくのみ。
エマが人質に取られている以上、迂闊なことはできなかった。
この展開は刺客の思い描いた通りだった。
唯一の誤算は、エマの境遇を把握しきれていなかったことだ。
(ここでこの人を取り逃がしたら……! 私はまた“役立たず”になってしまう……!)
エマは強烈な恐怖に駆られていた。
それは首筋に突きつけられた刃からくるものではない。
王国で過ごしてきたような扱いを帝国でも受けるのではないか。
そんな恐怖が急速に胸中を支配していったのだ。
(いやだ! あんな思いをするくらいなら死んだほうがマシ!)
次の瞬間、エマはとんでもない行動に出た。
なんと、刺客のつま先を思いっきり足のかかとで踏みつけたのだ。
「んがぁ!」
エマの思わぬ反撃に誰もが驚いた。
刺客は予想外からの痛みに悶絶し、手の力を緩めてしまう。
エマはその隙に刺客の腕からすり抜けるように離れた。
「レイヴン殿下!」
すかさずレイヴンの胸元へ飛び込むエマ。
彼女の無事が確定した瞬間、アルフォンスは剣を抜いた。
「はあっ!」
空気を切り裂く音が響く。
刺客は悲鳴を上げる暇もなく絶命した。
「エマ! 大丈夫か!? 怪我はしていないか!?」
レイヴンが必死の形相でエマを抱きしめる。
「は、はい、大丈夫です……」
レイヴンの胸で安堵するエマ。
だが、落ち着いたことで、遅れて別の恐怖が込み上げてきた。
殺されていたかもしれない、という死の恐怖が。
「私、なんで、う……うぅぅぅ……」
エマは泣きじゃくった。
そんな彼女の背中に腕を回して、レイヴンは優しく呟く。
「大丈夫だ、もう心配ない。君は何も悪くないから」
アルフォンスが指示を出して、刺客の処理を部下に命じる。
ナディーネは他の使用人と協力して床の清掃を始めた。
「エマ様、申し訳ございません。我々の警備が甘くて、このような事態を招いてしまいました」
アルフォンスは深々と頭を下げる。
エマは未だに泣いたままで、彼の姿を見ることができない。
だから、レイヴンが代わりに頷いておいた。
「もう誰にも君を傷つけさせない。必ず守る。約束するよ」
レイヴンはエマを抱きしめながら、アルフォンスを見る。
「どうしてエマが狙われた? 心当たりはあるか?」
「もしかすると敵国の仕業かもしれません。ラグナ討伐の一件で、エマ様の名は世界中に轟いていますので。直ちに調査を始めます」
この言葉に対し、レイヴンは「いや」と首を振った。
「今回の件は我が帝国に対する明確な攻撃行為だ。裏でコソコソと探る必要はない。明日の朝、我が父――ヴァルタリオ皇帝に報告し、大々的な調査をお願いする」
レイヴンの目には怒りの炎が灯っていた。
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