001
エマ・ラドフォードは、バルガニア王国の伯爵家の一人娘として生まれた。
そして、幼い頃から「政略結婚」の四文字を聞かされて育ってきた。
王国では公爵家との繋がりを持つことが栄誉とされている。
エマはその歯車の一部として扱われていたに過ぎなかった。
十八歳の誕生日を迎えた直後、エマは両親から告げられた。
「クライス公爵に嫁ぐように」
非情な一言だった。
政略結婚とはいえ、エマはほんの少しの期待を抱いていた。
クライス公爵といえば、財政を担うほどの潤沢な資金と高い地位を誇る。
それに先代が若くして死んだため、エマとの年齢差は7歳に過ぎなかった。
楽しい生活が待っているかもしれないという淡い希望があったのだ。
しかし、豪奢な馬車に乗り込み公爵邸へ向かったその日から、エマの人生は急速に暗転していく――。
◇
クライス公爵は、明るい金髪をきっちり整えた男だった。
後ろで束ねるのではなく、軽く流すように整えた髪に宝石の飾りを差し込んでいる。
浅い緑色の瞳はどこか冷たく、衣服にはこれでもかというほど宝石を散りばめ、自分の権威を誇示していた。
「……ようこそ、エマ」
エマが初めて公爵邸を訪れた時、クライスは貴族らしく胸に手を当てて言葉をかけた。
その態度には紳士的な体裁こそあれ、歓迎は微塵も感じられなかった。
とはいえ、この時はエマも気にしていなかった。
初対面であり政略結婚なのだから、予想されていた反応だ。
だが、クライスは思っていた以上に酷かった。
◇
新婚生活が始まってすぐ、エマは過酷な現実を突きつけられた。
エマが新妻として慣れないながらも公爵邸の行事や使用人の管理などを頑張ろうとすると、クライスは決まって面倒くさそうな表情でため息をつくのだ。
「リリアン、今日はどこへ出かける? お前と過ごす時間の方がよほど有意義だ」
クライスがいつも一緒にいるのは、愛妾のリリアンという女だ。
漆黒の長い髪に、肌の露出が多い派手なドレスをまとい、妖艶な色香を漂わせる美女。
宝石を見せびらかすように揺らしながら、クライスの腕にしなだれかかり、甘えた声を上げる。
「クライス様、わたし、お食事は外のレストランがいいわ。エマなんて放っておいて、二人きりで行きましょうよ」
クライスはもちろん、リリアンの言葉に逆らうことなく頷く。
エマの視線に気づいていたが、あからさまにそっぽを向いてしまった。
(たとえ政略結婚でも、これはちょっと酷いよ……)
エマは悔しい気持ちを覚えながらも、公爵家の正妻としての務めを果たそうと努力を続けた。
食事の仕度を行う屋敷の料理人にクライスが好む献立を尋ねたり、どのように使用人を配置すれば家がうまく回るか考えたり、ひたすら頑張ったのだ。
クライスに喜んでもらうために。
そして、正妻としての務めを果たすために。
だが、クライスはそのたびに嫌悪感をあらわにした。
「エマ、お前がいちいち口出しするな。俺の家だ。どう運営しようが勝手だろう」
「で、ですが、正妻として責任を――」
エマが説明しようとすると、言葉を遮って怒声が飛ぶ。
「余計なことをするなと言っているんだ! お前なんかに用はない!」
このような扱いを受けても、エマはひたむきに頑張った。
弱音を吐かず、今よりも良くしようと、懸命に取り組んだのだ。
伯爵家の両親から「クライス公爵に気に入られるように振る舞え。全ては家のためだ」と言われて送り出されてきたからだ。
それでも、エマが報われることはなかった。
むしろ状況は悪化するばかりで、彼女の境遇は酷くなる一方だ。
いつの間にか、クライスはエマを食事の席にさえ呼ばなくなっていた。
そんなある日、決定的な言葉がエマの胸を切り裂く。
公爵邸の廊下でリリアンに絡まれていた時のことだ。
「ねえ、エマ? クライス様が退屈そうにしているからって、あなたが何をしても変わりはしないわよ? 分からないの?」
リリアンは宝石が散りばめられたドレスをゆらゆらと揺らしながら、口角をゆるめる。
もちろん隣にはクライスがいる。
「わたしの方が、ずっとクライス様を楽しませてあげられる。あなたには公爵邸にいる資格がないの」
「資格がないのは愛妾のあなたじゃ……」
あまりにも悔しくて、エマは反射的に口走ってしまった。
慌てて口を押さえるが、時既に遅し。
エマの発言は何も悪くないが、それでもクライスは烈火の如く怒った。
「正妻である以上、それなりにふるまえとは言われたが、今の侮辱的な発言は許せん! リリアンはお前を思って優しく言っていたが、それで分からぬようなら俺が直接的に言ってやる!」
クライスの言葉は止まらない。
「エマ、お前は公爵家に何の利益ももたらさない! 勝手にあれこれ動き回って目障りな虫……そう、害虫! お前みたいな女には、俺の子を産む価値すらない!」
あまりにも酷い暴言だ。
エマは血の気が引いていく感覚を覚える。
しかし、そこへクライスが衝撃の一言を告げた。
「離縁だ!」
あまりにも突然で、エマは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
視界の端に、リリアンの口元が意地悪そうに歪むのが映る。
「そんな……私が、何か不手際でも?」
エマはか細い声で問いかけるが、クライスは語気を強めて言い放つ。
「不手際しかないだろう。存在そのものが不手際の塊みたいなものだ! 俺の顔を立てることもできずに、いちいち口うるさい。さっさと出て行け!」
エマは両手をぎゅっと握りしめ、涙をこらえようとする。
伯爵家で育った頃に学んだ礼儀作法では、感情に任せて泣くことなど許されなかったからだ。
「……承知いたしました」
声は震えていたが、その瞳にはわずかながらの誇りが宿っていた。
それを感じ取ったのか、クライスは軽く舌打ちし、使用人を呼びつける。
「荷物はすぐにまとめさせろ。エマを追い出してしまえ」
エマは下を向き、心の中で必死に言い聞かせる。
ここから出て行くことが、むしろ救いになるのではないか、と。
愛されることなく、誰からも必要とされず、ひたすら疎まれて……。
ここの空気は、あまりにも冷たすぎた。
ほどなくして、使用人たちがエマの荷物を雑にまとめ始める。
エマは最後の礼儀として、使用人たちに深く頭を下げた。
使用人たちは「すみません」と言うだけで、エマと目を合わせない。
下手に親しくしてクライスやリリアンに睨まれたくないからだ。
そして、エマは、まるで罪人のように公爵家の屋敷を追い出された。
こうして、彼女の期待していた結婚生活が儚くも打ち砕かれてしまった。
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