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(2)

 ホームルーム開始のチャイムが鳴り、まばらに散った生徒たちが着々と自分の席に戻る。そう時を待たずして前方の扉が開き、四十代半ばぐらいの担任が入ってきた。

 ここまではいつもと変わらない光景だ。しかし彼がはじめに発した一言で、ホームルームは一気に湧きあがることとなった。

「お前らにいー知らせだ。今日からここに新しいクラスメイトが一名増えるぞ」

 男女共に期待を寄せる声が教室内を浸透する。そのような話、今の今まで誰ひとり知らなかったことが窺える。どちらにせよ祐介にとってはどうでもよい話題で、顔を背けてまた外を眺めはじめた。

 生温い風が僅かに開かれた窓から吹き込んできて、寝癖のついた髪をゆうらりと揺らす。春眠暁を覚えず、というように、ゆとりのあるそれに委ねているうちにうっかり寝入ってしまいそうだ。

「それじゃあ入ってこい」

 カラカラと静かな音をたてて扉が開かれる。姿を現す転校生を目にした周囲からは、感嘆にも似た溜息が洩れた。

「春日、自己紹介をしてくれ」

「春日メイです」

 まるで小鳥のさえずりを浮かばせる愛らしい声だった。

 生徒たちのざわめきを縫って祐介の耳にまで届く。無関心だったはずなのに、何故だろう……誘われるように正面の教卓へと視線が移っていく。

「突然で戸惑うかもしれませんけど、よければ仲良くしてくださいね」

「春日の見た目は外国人みたいに見えるが、実際先祖がえりってやつで純粋な日本人だ。だから日本語しか話せない。中身はおまえらとそう変わりないから期待するなよ」

 ええーっと落胆の声があがる。しかしそのなか祐介は、目だけでない、意識すら転校生に釘付けになって硬直していた。

 染みひとつない雪のような白い髪。思わず触りたくなるような滑らかな蜂蜜色の肌。人形のように整った顔立ちは柔らかな微笑を浮かべ、生徒たちを見渡している。

 その瞳の色は――

 その一点に全神経が集中した瞬間、肌が粟立った。

 深遠な紅に見覚えがありすぎて、それだけではない違和感が躯じゅうを駆け巡る。祐介は即座に顔ごと彼女を視界から外す。身が竦むような怖気が一挙に襲い掛かり、悪寒で震えそうな躯を抑えるので精一杯だった。

「空いてる席はー……伊藤の隣だな。伊藤、手をあげろ」

「え、あ」

 担任に名前を呼ばれ、祐介の肩が過敏に揺れる。転校生の姿を再度視界に入れる勇気は今の祐介にはなく、顔をあげられずにいると、担任と転校生との間でのどかすぎる会話が交わされていく。

「伊藤? いーとーうー……すまん。態度は最悪だがそう悪い奴じゃないんだ」

「大丈夫です、特に気にしてませんから。あの窓側の席ですよね」

「ああ、じゃあ早速席についてくれ。春日に対する質問は一限目を終えた休み時間に各自でするように。以上、ホームルーム終わり。委員長、号令」

 きりーつ、と伸び伸びとした掛け声に祐介たちは腰をあげ、一礼した後着席する。そして祐介はすぐさま両耳を押さえ、目の前の机に額を押し付けた。

 普段以上にざわめいた教室では、転校生に対する歓喜に満ちている。それすら祐介にとって恐怖の一端に過ぎず、やめてくれと叫びそうになる悲鳴を喉仏辺りで呑み込んでいた。いまなら眠りに堕ちた方が幾分マシとさえ思った。

 一瞬の死よりも、長続きする本能的な恐怖の方が耐え難い。

「っひ」

 肩を叩かれ、祐介は情けなく喉を引き攣らせ躯を飛び上がらせた。耳を塞ぐ手にますます力を込めるも、その隙間からあの魅力的で愛らしい声音が滑り込んでくる。

「……大丈夫? 具合でも悪いの?」

「っだ、いじょうぶ。大丈夫、だから。ほっといてくれ」

 自分の影に覆われたこげ茶色の机は暗く、その闇に満ちた色にほんの少しばかりほっとする。いっそのこと視界だけでなく意識もすべて奪われてしまえばいいと思うのに、反してあの声が祐介に懲りず話しかけてくるから困る。そのつど鳥肌がたった。

「そう? どうしても辛くなったら言ってね。私、春日メイ。あなたは?」

「伊藤、祐介」

 早く。早くこの会話が終わることだけを願い、歯噛みしそうになる声を絞り出してメイに返事をする。しかし向こうから話を切り上げる気配はなく。

 祐介の胸に絶望が差し込んでこようとしたそのとき、乱雑に扉が開かれて男教師が入ってきた。無精髭を生やした彼はメイに興味津々な彼等を怒鳴りつけて、さっさと授業に入る。今の時代には珍しく厳しい姿勢を見せる彼を、いつもはうざったいとしか思わないのに、このときばかりはありがたく思った。

 メイが祐介の反対の席の生徒に教科書を借りようとしているのがわかり、ばくばくとうるさい心臓の鼓動が少しばかりおさまっていく。

(よかった)

 自分より明らかに非力な彼女に何を怯える必要があるのか、自分でもよくわからなかったが、避けられる事態はなるべく避けるべきである。

 祐介は教壇で一目目にして以降、一切彼女に視線をやることはなかった。無心を心がけて、空を睨み続けていた。本能的な恐怖だけが、今の祐介を支配していた。






 メイは日本では浮くだろう現実味のない容貌をしているせいか、休み時間に入るたびに他のクラスから大勢の生徒たちが見物しに殺到した。

 そのなか祐介といえば、騒ぎ立てる彼等を無視して自分の席に居座り、図書室から借りてきていた本を手にとっていた。

 人間、状況次第でなんとかやっていけるものらしい。眠らないためにはどうするべきか、祐介は様々な方法を試行錯誤するようになっていた。

 運動の方はいつ倒れてもおかしくない状態からやむを得ず、体育の時間に限り適度に力を抜いて楽しめばいいだろうという考えに切り変わっていた。バスケ一筋で部活に明け暮れていた過去を振り返り、切り捨てるのになんら躊躇のなかった自分に少しばかりショックを受けたことは確かだ。

 変わってしまったのだと、それならば今は何をするべきなのだろうという考えに転換し、現在に至る。それもこれも、根底になんとかなるだろう、と思っている節があるからだ。この状況に耐えることができているのは、祐介自身がかなりの楽観主義者だからかもしれない。あとは長年運動部に属していたおかげで蓄えたスタミナが、倒れないだけの底力を発揮しているとしかいいようがない。

 執着するものがどんどん失われていくなか、残された数少ない意志は正常さを保つことのみだった。

 ぱらり、とページをめくる。乾いた音と、乾いた紙の感触が指を滑り、目に映るのは文字の少ない可愛らしいイラストだ。バリバリの体育会系だった祐介が本に関心を示したのは、こういう状況だからこそだろう。

 はっきりいって活字は苦手なため、まず手にとってみたジャンルが絵本だった。高校生にもなって、と言いたいところだが、目に通してみると意外と面白い。小難しくなく、かつ童心を思い出させるような懐かしさとゆとりを浮かばせる。

 はじめはクラスメイトにからかわれたりもしたが、祐介にとって退屈でなく、眠気を呼び起こさせない条件に当てはまるものであれば周囲の視線などどうでも良かったため、堂々と読んでいるうちに誰も何も言わなくなった。

「伊藤くん」

「……は。ああ、春日か」

 あれだけ騒いでいた生徒たちの声が少しばかりおさまっていることにようやく気づき、不意打ち気味で声をかけられた祐介は間抜けな声をあげつつ、そろそろと隣に視線を遣る。そこには数人の女子に囲まれたメイが柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。外国人にしか見えないよな、という感想だけが胸中に浮かぶ。なんの感情も湧かなかった。少しだけ安堵した。

 時間が経つにつれて、はじめに感じた恐怖が少しだけ和らいだこともあり、あれはきっと夢のフラッシュバックに近いものだったのだろうと祐介は考えるようになっていた。

 当初彼女から感じられた周囲と食い違う違和感というべき何かが徐々に薄まっていったことも理由にあるのだろう。塞ぎようのない耳に届く彼等の会話があまりにも普通だったため、胸を擽られるような良い声をしているな、と変態くさいことを思ったりもした。

 ただの女の子に何を恐がっていたのだろうか。心の平穏を取り戻した今になって疑問に思うも、生憎答えは見つからず、すぐに諦めた。

 本を机に閉まった後、躯ごとメイに向き直る。何、と尋ねると、目の前で手を合わせられた。

「あのね。もしよければ放課後に学校案内してほしいの。休み時間の間だけだと心許ないから」

「は? いや、けど」

 自分なんかより、周囲の女子たちに頼めばいいのではないか。

 顔に出ていたのだろう、メイはすまなそうに眉を下げた。

「みんな部活とかで忙しいんだって。伊藤くんとは席が隣同士だし、今後とも仲良くしていきたいなあって思って。……あ、もしかして伊藤くんも忙しい?」

「いや……」

「伊藤は部活辞めたからヒマよねえ」

「あんたみたいな平凡な男子が女の子と仲良くできるチャンスなんてめったにないよ? 周りの男子なんてメイに近づけなくて悔しがってるし、いーじゃん引き受けなよお、チャンスじゃん」

「なんのチャンスだよ……」

 目を光らせる女子たちに溜息混じりに答え、そのなかメイが期待の目を寄こしてくるものだから、祐介は眉根に皺を寄せた。

 誰かの世話をする労力なんて今の祐介にはなく、それがどれだけ可愛らしい女子の頼みでも変わらない。だから断ろうと口を開いた。

 しかし彼女が「ダメ……?」と小さな声で尋ねてきて。本当に悲しそうな顔をするものだから、祐介は反射的に頷いてしまっていた。

 ぱっと明るくなる表情に我に返り、しまった、とすぐさま後悔する。

「よかった、ありがとう!」

「う、ウン」

「じゃあ放課後にねっ」

「ハイ……」

 心底嬉しそうにはしゃぐメイ、そんな祐介たちをからかってくる女子たち、そして恨みがましい目を向けてくる男子たちの視線を浴びて、何故こんなことになったのだろうとぼんやりと考える。そしてすぐに答えに思い当たった。

 ――そうだ、あれだけ恐いと感じた彼女が、本当にほんの一瞬だけ、可愛く見えたからだ。

(馬鹿だ、俺)

 自己嫌悪に駆られる。しかし引き受けた以上、放課後はメイと行動を共にすることになる。

 人間として終わっている状態なのに男の性はまだ捨てられていないのだとこのとき悟った祐介は、複雑な心境に駆られつつも、案内についてどうしようかと、放課後になるまで自然と思考を巡らすようになっていた。

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