第一章 呼歌
それは、ある日差しの中での出来事だった。
……歌がキコエタンダ。
とっても綺麗で澄んだ歌。
歌のことなんて爪の先ほども知らないけど、綺麗だなと思った。
その音につられそっと目を開くと、見計らったように歌声が消えてしまった。
少女は草に埋もれていた。青々と茂って木には木漏れ日が一つ二つと少女の上に途切れることなく落ちていた。
(夢かな)
夢現の状態だったので、さっきの歌を現実とも夢とも判断できなかった。だってその唄はとても幻想的な音を奏でていたから。
このまま気分のいいままに、緑の敷布団でまどろんでいたい気持ちも強かったが、どっちにしろもうそろそろ起きなくてはいけない。だから、足の反動を利用して起き上がる。
さっきの歌はどちらの世界で聞こえたんだろう?夢で?此処で?どちらにしろ自分には関係無いかも知れない。此処で歌っていたにしても、歌の主が自分のために歌ってくれる訳でもないだろう。夢で奏でられた唄なら、もう一度は聞け無い。
ノラ。それが少女の名前だった。草原の遊牧民。羊飼いだ。生まれてからこの方、芸術というものに縁が無くそんなものを楽しむ余裕も無く生きてきた。金も暇も、神様も親も誰も彼女に与えてくれなかった。そんなことを嘆くわがままな性格にはなりたくなかったので、どうでもいいこと、といつも自分に言い聞かせていた。言い聞かせていただけで、実は少し憧れている。
「誰か、いるの?」
自分の周りをぐるりと見渡す。歌を詠っていた人が居るかもしれない。また詠ってくれなくても、一目、姿だけでも見てみたい。どんな人が詠っていたんだろうか。少しは気になる。
もし現実だとしたら、聞こえたのはこっちの方だっただろうか。ノラは茂みを掻き分けて、開けた場所を目指す。やがて茂みから大きくて白い光が差しこむ。
その場所には大きな切り株があった。5・6人がゆうに腰掛けられる大きさの。それにはある神聖な逸話があって誰も近づこうとしない。神の領域に人が踏み入ったら浄化の炎で塵になる。大人も子供も老人も若者もみんなそろってそう言って、誰もここに近づかない。ノラもこの近くを一年を通して回っていて、春にはいつもこの切り株の近くの土地に移り住んでいるが、集落の皆はここに来てはいけないと口々に言っていた。集落の悪ガキたちさえも大人たちの迫力に押されて近づこうとはしない。しかし、誰も来ないここはノラにとって最高の気分転換になる場所だった。切り株の上に立って足を踏み鳴らしても下から炎が噴き出してくる、なんてことは一回も無いし、ただ皆が信心深過ぎて臆病になっていただけだ。
ともかく、そんな誰も来ない大きな切り株に人が一人、リラのような弦楽器を持って虚空を見つめていた。その人を見たら急に居た堪れないような気持ちになった。まるで自分が盗人になったように感じたのだ。神様の綺麗な歌を盗んで聴いた。そんな風に思わせるくらいその女性は神秘的に見えた。
その人の緩やかなカーブを描いた長い髪はまるで、光を受けると神の逸話に出てくる浄化の炎のような赤色に。瞳は綺麗であり得ないくらい澄んだ琥珀色。ここら辺では絶対に見ないどこかの舞姫が着るような服装であったのも、いっそうその人を神憑り的な何かに見せた。
(神様…?)
まるで人で無いような雰囲気で、あり得ないと分かりながらも心の中でそう思ってしまった。
その人がゆっくりとこちらを向いた。
「誰?」
「あ、……」
歌声と姿とは裏腹に意外とはっきりとした物言いで、別に魅了されるような声ではなかったから、急に現実に引き戻される。
神秘的な女性だと思っていた人は、こうしてみると自分と同い年ぐらいの少し変な格好の目立つだけの少女だった。
(あたしは、さっきまでどんな想像してたんだか)
急にさっきの自分が馬鹿らしく見えてそんな自分に呆れた。
「あなたこそ誰?ここで何してるの?」
「吟遊詩人、それ以上でもそれ以下でもない。歌を詠んでいたわ。で、あなた名前は?」
「ノラ……」
何を思ったのかその少女は急にくすくす笑い出す。
「ほじめまして?ノラ」
この出会いが、あたしと不思議な名前の仮面との出会いでもあった。






