アイデンティティ 3
やるべき事は……やった。
自分の限界を超え、無理を押し通し、自分にしか出来ない仕事はもう終わった。
故に、他の誰でもない自分が、もう何もできないのだと理解していた。
つんざくような耳鳴りで周囲の音は何も拾えない。
水を操る能力? そんなものとうに使えなくなってる。
そもそもがだ、能力以前に手足すらもはや動かないのだ。
平衡感覚もおかしくなり、自分がどんな格好をしているのかもわからない。
目を開ければ何かわかるのだろうが、それすら億劫である。
……本当に、全てを出し切った。
そんなクアンの胸に残っている感想はたった一つ――悔しさだった。
何度考えても、これ以上自分の出来る事はない。
適材適所の仕事を完璧にやりきったと言っても良いだろう。
だけど……そう、問題はまだ、何も解決していない。
未だ雨が止む気配はなく、ダムは溢れ多くのヒーローで水を流し、運びだす。
クアンのした事などダムの穴を塞ぐ手伝いをした程度にすぎず、依然危機は去っていないのだ。
この程度か。
自分はこの程度なのか。
そんな事を考える自分と。
この程度なのだ。
もう、やるべき事はすべてやりきった。
そう考える自分がいた。
結局のところ、ただのわがままだったのだ。
出来るわけがない事を、やりたいと駄々を捏ねるだけの……。
最初から最後まで自分本位で――徹底的に自分の事だけを考え、そして間違っていても自分の意見を強引に押し切る。
そう、精神が未熟なクアンはただわがままに動き回ったに過ぎないのだ。
だからこそ、クアンは自分の為に、その目を開いた。
自分を曲げない。
己を貫く。
これはそんな正義の味方のような恰好良い物ではない。
それ以前に、自分がどうしてこんな無茶をしたのかすら、その目的すらクアンは忘れてしまっていた。
それでも立ち上がる理由なんて簡単な一つである。
そう、ソレを言葉にするならば、赤子のわがまま……クアンの中にあるのはただそれだけだった。
「嬢ちゃん! おい大丈夫か!?」
自分を心配そうに見ている中年の男がクアンの目に映った。
最初に話しかけた、一緒にダムの修理をしたその男性はずっと自分についていてくれたらしい。
世界が赤くない。
若干だが耳も聞こえる。
最悪だった体調も眠っていたおかげか多少は回復したらしい。
「大丈夫です。状況は?」
必死に立とうとするクアンを、男はそっと優しく止め、また寝ころばせた。
ふわっとする感触が背中を襲い立ち上がる意思を奪おうとしてくる。
「無理するな。……なんでかわからないがお嬢ちゃん治療の効果が薄いんだよ。サイボーグでもないのに……。だからまともな治療も受けられてない。後は休め」
男の言葉は本心のようで、心から心配する様子がうかがえた。
クアンは周囲を見回し状況を把握する。
ここは簡易テントの中らしい。
そして、いるのは自分とこの男だけ。
治療行為を男がした様子がない事から、他の人が自分の治療をしようとしてくれたようである。
「色々ありがとうございます。大分良くなりました。合流します……状況を」
そう言いながら、クアンはよろよろと立ち上がった。
今度は男の止める手を振り払って……。
「なんでその状態で動こうとするかねぇ全く。倒れてからおよそ三十分。ここは現場の二百メートルほど離れていて、状況は問題なしだ」
「……問題なし?」
クアンが尋ねると、男は嬉しそうに頷いた。
「おうともよ! あんたががんばって俺をダムまで導き、そして俺がダムを直した。後もう少し待てば対処出来るヒーローが来る。再度ダムが壊れる可能性もない。何も問題ないだろ? だから休め」
「つまり、まだ水が溢れていて、他のヒーローが頑張ってるって事でしょ? なら問題ありです」
そう言いながらクアンは足を引きずり、テントを這い出た。
「おい! 休め……ってああもう!」
男は慌てた様子でクアンを追いかけた。
あと二つ……することが残っている。
わがままで、無意味で、刹那的で。
意味がないどころか破滅を意味するのだとわかっていても、そのわがままを貫かないといけない。
名誉や誇り、強い精神とかそういったプラスの物とは一切関係がなく、赤子が泣いて親にアピールするような、そんな醜いわがままだった。
一つは、水が溢れなくなるまで手伝いをすること。
もう一つは、水の問題が終わった後、最後に……。
クアンは追い掛けて来る男から受け取った杖を支えにダムの傍まで移動した。
最初に見た光景と同じように、空と地上の二組にわかれ、空の方は水を制御したり飛ばしたり地上に指示をだしたりして、地上は一致団結して水の方角を変えていく。
そんな中で、少しでも役に立とうとクアンは地上の部隊に合流しようとした瞬間、後ろから中年の男がクアンの肩を掴み足を止めた。
「……どうしました?」
「――お疲れ様。もう、何もしなくて良い?」
「……まだ終わってませんよ?」
「いいや。もう終わったんだ」
男がそう呟き、空を指差す。
クアンが上を向いた瞬間、音もなく世界は変質した。
どんよりとした雨雲は目の前でアイスが溶けるかのように消えてゆき……あっという間に世界は蒼天へと変わっていた。
言葉が出てこない。
開いた口がふさがらないとはこのことだろう。
ただただ茫然とするクアンに向かい、男はにんまりと笑う。
「な? 終わっただろ?」
「……綺麗」
透き通るような空を見て、クアンはそう言葉にする事しか出来なかった。
その少し後に、ふわふわとした挙動で一組の男女が肩を寄せ合い空から下りてきた。
それを見てクアンはなんとなく、アニメ映画の空から女の子が降りて来るシーンを思い出していた。
「お疲れ様でした。後はお任せ下さい」
女性の方がそう呟いた後、そっと手に持った魔法の杖を指揮棒のように振るった。
たったそれだけ、そんな小さな動作だけで……一帯全ての水がゼリーのように固形化していた。
さっきまで濁流の如く流れていた水は止まり、ダムの上に透明な四角いゼリーが乗っている状態になっている。
ただそのゲル状の固形物は完全に硬質化したわけではなく、ぷるぷると動きながらじわじわと緩やかに水を吐き出していた。
その様子をクアンはまた、茫然と見る事しか出来なかった。
「お嬢ちゃん。あの二人の事もしかして……知らない?」
男の言葉にクアンはこくんと首を動かした。
「……憧れてこっちの世界に来たんじゃないんだな。ま、詳しくは聞くまい。男の方は【アウター】女の方は【クロノス】共にoAプラス級ヒーロー。要するに……俺達と住む世界が違う方々さ」
その話を聞きながら、多くのヒーロー達から礼を受けている二人を見て、クアンはにっこりと笑った。
気象操作局に所属する男の名前はアウターいう名で、本名は不明。
そもそも気象操作局という存在自体謎が多く、正義の味方陣営でも詳しい事がわかっていない。
とりあえず災害時に救助に来る事くらいしかわかっていない。
もう一人はクロノス。【XTCレディクロノス】
時渡り(ウォーカー)の二つ名を持ち、見た目は若い女性の姿をしているが二十年以上そのままで実年齢不明。
XTCは一文字ずつに時を意味する言葉らしく、三種類の時にかかわる能力を持っているらしい。
そんな説明を聞きながら、クアンはにっこりと笑っていた。
ただ笑う事しか出来なかった。
喜びや安堵以上に、自分がしたかったのにどれだけ頑張っても出来なかった事を、あっさりとこなされ……あまりに悔しすぎて笑えてきたからだ。
「お疲れ。後の説明とかは俺がしておく。嬢ちゃんはちょっと休め。体ボロボロだろ?」
クアンはその言葉に首を横に振った。
確かに体はボロボロなのだが……もう一つ、しなければならない事が残っていた。
最後のわがまま、ようやく見つけた自分自信……それを主張する為に。
きっと……百人に聞いても百人に理解されないだろう。
もう少し賢く生きろ。
どうしてそんな無意味な事を考えた。
よしんば思いついたとしても、どうしてそんな無意味な事を実行しようとする?
きっと誰に聞いても、それこそテイルに尋ねたとしても、これからクアンがすることを肯定する事はないだろう。
それでも、クアンはそれを実行すると決めていた。
自分という存在を、今、この時に主張する為に。
わいわいと賑やかな中で、クアンはどのタイミングで実行に移そうか悩んでいた時、一人の青年がクアンの前に現れた。
空で周囲を指揮していた、白鳥のようなアーマーを纏った人物……ジークである。
「お疲れ様。間違いなく、彼ら二人を除くと、一番の功労者は君だ。相当無茶していたのも見た。叱りたいところだが……そのおかげで皆が、街が救われたのは事実だ。だから、君に皆を代表して礼を言いたい」
その言葉が真であるというのを示すよう、周囲のヒーロー達、さきほど来た二人も合わせて、皆がクアンの方に暖かい瞳を向けていた。
それはクアンにとって、非常に都合が良い展開だと言える。
皆の注目を集める中、クアンは杖を捨て、ジークと寄り添ってくれていた中年の男から距離を取った。
クアンがすべき最後の事。
それをすればきっと殺されるだろう。
それがわかっていたとしても、それはクアンにとって譲れないアイデンティティだった。
「はっ。くだらない。私みたいな新入りがでしゃばらなかったら救えないななんて……ヒーローって奴はなんと無様なんだろうか」
クアンは今までの演技と同じように冷たく、めんどそうな表情でそう呟いた。
周囲の皆がポカーンとしている。
それと同時に、若干の敵意のような物をクアンは覚えた。
おそらく、自分の正体を何人かが理解したのだろう。
「キミは……」
ジークの言葉にクアンは、ジークを見下ろすようにあざ笑った。
「そう。私はあなた達とは違う。むしろ対極の存在よ。それがヒーローだなんだと……面白すぎて笑う事も出来なかったわ」
「そうか……キミは」
寂しそうなジークと中年の男の顔。
それと同時に睨みつける周囲のヒーロー達。
そして、最上位の二人はクアンの方をどうでも良さそうな目で見ていた。
「そう……。私の名前はクアン。怪人クアン。アーブ第八の怪人……あなた達の敵よ」
そうクアンが呟いた瞬間、世界が凍り付き、今までとは比べ物にならないような圧力をクアンは感じた。
例えるなら……肉食獣に睨まれるような圧を覚え、背筋がぞくっと冷たくなるのを感じた。
最低でも二、三人はクアンを獲物だと思うような視線を、間違いなく向けていた。
「おい、アーブってどこだ?」
そんなひそひそ声に、アウターと呼ばれる男が小さく呟いた。
「ARバレット、通称アーブだよ」
その言葉の瞬間に、ギロリと鋭い目がクアンに襲い掛かる。
アウターと呼ばれた男性以外の全員が、クアンの方に餌を見る肉食獣のような鋭い気配を飛ばしていた。
――ああ。終わった。
クアンがそう確信するほどに、猛獣のような気配は強かった。
全員の意見が一致している気配、つまり殺されるという事なのだろう。
そう思って溜息を吐いたクアンの前に、ゆっくりと一人の女性が歩いてきた。
この場の最上位の片割れ、クロノスと呼ばれた女性……。
見た目だけならクアンよりも若いその女性はクアンの方に近寄り……そしてそっとクアンの方に手を伸ばした。
びくっと反応し目をクアンは目を閉じた。
だが、待っても特に攻撃をしてくる気配はなく、クロノスはそっと優しくクアンの肩を叩いただけだった。
「クアンちゃんだっけ? あなた……ウチで働かないかしら?」
「……ふ、ふぇ?」
予期せぬ言葉にクアンは間抜けな声で返事をしていた。
優しい満面の笑み、ニコニコ顔のクロノスだが……獰猛な雰囲気は全く衰えておらずむしろさきほどよりもなお激しくなっていた。
「ちょっと待った! 嬢ちゃんと共に困難を克服したのは俺だぜ? その俺より先ってのは頂けないな」
そう言いながらさきほどまでクアンの傍にいた工事現場の人っぽい中年の男がクアンの方に歩いてきた。
「嬢ちゃん。ウチに来ないか? 水仕事が腐るほどあるぜ」
その男の言葉を皮切りに、ほぼ全員のヒーローがクアンを囲み、わちゃくちゃにした。
ウチにおいで。
ウチ水道局!
ダムの品質点検の仕事あります!
ウチは仕事だけで良いです、悪の組織兼業可能です!
ウチモウチモ!
わらわらと駆け寄られ、謎のスカウト合戦によりクアンの頭は混乱の極致に至っていた。
「おいおい。その前にすることがあるだろう」
そう言いながら、アウターという男が他のヒーロー達を押しのけていった。
――た、助かった。
「――先に治療だ。怪人用の治療ポットを持っている奴いるか? いないなら俺が用意する……話はその後だ」
――あ、助かったわけじゃないんですね。
クアンはそっと、全てを諦めた。
それは、最初の予定とは全く違う諦観の境地に近い諦めだった。
駅の傍にあるホテルの一室、その部屋の前でクアンはこんこんと控えめなノックをした。
それを聞いた部屋主、テイルはドアを開け放ち、クアンの姿を見て目を丸くした。
「……偉い事になってるな」
テイルはクアンが両腕に抱えている特大紙袋を見てそう呟いた。
「え、ええ。あの。色々と聞きたい事があるのですが、とりあえず中に入って良いです?」
「あ、ああ。とりあえず荷物を置くと良い。それで……その荷物は何だ?」
クアンはそっと紙袋を地面に置いた。
優しく置いたはずなのに紙袋はぐらぐらと揺れ、ついに自分の重量に耐えきれず、傾き倒れ中身を周囲に散らばらせた。
中身は大量の書類の束……それはパンフレットだった。
「片方の紙袋は会社等のパンフ、総数五十超え。ヒーロー組織と会社、または両方や複合の奴です。もう片方は……粗品です」
そう言ってクアンはもう片方の粗品――別名賄賂をテイルに渡した。
中には高級な茶葉から茶菓子、はては金券や化粧品などクアンの気を引こうと考えられる様々な物が詰め込まれていた。
「あ、ああ。お疲れ」
「ハカセ一つ良いですか?」
「お、おお」
茫然した様子で立ったまま酷く疲れた様子のクアンに圧倒されながらも、テイルは頷いた。
「正義の味方の陣営に、悪の組織が行くのはルール違反ですよね?」
「あ、ああ。その通りだ」
「場合によっては殺される事もありますよね?」
「ああ。緊急時の場合は見逃されることもあるが、殺されても文句は言えない」
「……私襲われなかったのですが」
ある意味襲われたとも言える。
無理やり治療ポッドに押し込まれて体を直され、両腕がちぎれそうなほどの荷物を持たされタクシーで送られるという謎の襲われ方だが。
「……あれ? 言ってなかったか?」
テイルは、首を傾げながらそう呟いた。
「……ふぇ?」
「いや、一人でダムの方に走っていくから知ってるものとばかり」
「あの、何の話です?」
「いや、ARバレットって階級Bの悪の組織と言っただろう? ただし緊急災害時は俺と全怪人は階級Aプラス相当でかつ両陣営扱いになるって話……してなかったっけ?」
クアンは肩の力ががたっと抜けたのを感じた。
「……聞いて……ません!」
そのままクアンはとことこと歩き、テイルのベッドの上にダイブした。
「あの、クアン。クアンさーん。俺の寝床、そこ俺の。あの……」
そんなテイルの言葉を無視したまま、クアンは意識を手放した。
今日は酷く疲れた。
だけど、嫌な日では決してなかった。
ありがとうございました。