第3話 焦燥
俺が家に着いたのは、日付が変わるギリギリ前だった。
「ただいま。」
玄関の扉を開けながら言った。
前開けたときとは比べものにならないぐらい清々しい気分だった。
「あら、おかえりなさい。」
妻が部屋の奥から出てきた。
「優樹はもう──」
「寝たんだろ、遅くなって悪かったな。」
「ええ。でも、こんな遅くまで働いてくれているあなたに感謝してる。責めるなんてできないわ。」
妻は笑いながら言った。
よし、いい調子だ。
いろいろと疲れた俺は、飯も食わず、風呂も入らず、妻よりも先にベッドに潜り込んだ。
翌日、やはり会社は騒然としていた。
朝のニュースでも報道されていたが、鈴木の遺体が午前5時頃、近所の老人によって発見されたらしい。ニュースによれば、鈴木は喉を鋭利な刃物で刺されていることは判明しているが、犯人の目星は付いていないらしい。
しかし、当然ながら飲み会に参加していたメンバーは疑われているようだ。飲み会のあとに殺されたのだから、当然と言えば当然だ。
俺が出社した直後、部長から声をかけられた。
「ああ、須藤君。昨日、鈴木君が殺されたらしいんだけどさ……。」
部長は弱々しい口調で言った。
「分かっております。今朝、テレビのニュースを見ましたから。」
俺は沈んだ声で言った。決して感づかれてはならない。
「非常に残念なことだよ。これは許されることではない。」
部長の声は段々強さを増していた。この部長、根っからの優しさを持っている。他人の幸福を自分のことのように喜び、他人の不幸を自分のことのように悲しむ。俺からすればただの馬鹿にしか見えないが。
「ええ、私もそれを聞いて心が痛みました。なんで鈴木さんが……。」
俺は目を拭うフリをした。もちろん、涙など出てはいないし、悲しいとすら思っていない。
「それでね、須藤君。悲しいのはわかるが、聞いておきたいことがあるんだ。」
「はい、なんでしょうか。」
「決して君を疑うわけじゃないいんだけど、君は飲み会のあとなにをしていたか、教えてくれるかな?」
部長は申し訳なさそうに聞いてきた。
「飲み会のあとですか?それならば、すぐさま帰宅しましたが。」
「それを証明できる?」
「家内に聞いていただければわかります。確か日付変更前に帰宅しました。」
俺は堂々と言った。今必要なのは、矛盾が完全にないアリバイを喋るよりも、堂々とした態度の方が重要だ。
「そうか……、ありがとう。気分を悪くしたのならごめんね。」
「いえ、大丈夫です。鈴木さんの死は、決して許されるものではありません。私に出来ることがあれば、何でも仰ってください。」
「ありがとう。僕は君のような素晴らしい人間が部下にいて、本当に良かったと思うよ。」
そう言いながら部長は俺から離れ、他の人のところへ行った。恐らく、昨日の飲み会のメンバーに聞いて回っているんだろう。それは純粋に鈴木の無念を晴らしたいためか、それとも善意活動を行う自分を評価してもらいたいのか。考えていたが、面倒だったのでやめた。
俺は自分のデスクの方へと向かった。奥に配置されているから入り口から遠くて困る。
俺が歩き出そうとしたその瞬間、後ろのドアが思い切り開いた。
俺は開いたドアにぶつかり、前にこけた。持っていた鞄も前に投げ出された。
「あ、すみません須藤さん!」
声から察するに、俺の同僚の加藤だ。同期だが、俺より年下なので敬語を使ってくる律儀な奴である。
「いや、大丈夫。」
無理をしているわけでもなくそう言った。こけたのは事実だが、痛みは全然ない。
「須藤さん……、それは……。」
加藤が何かを見ながら言った。俺は加藤の視線の先を見た。そこには、俺の鞄と、俺の鞄からはみ出ていたナイフがあった。そのナイフには、べっとりと血が付いていた。
しまった!あのあと、すぐに寝てしまったため、そのままの鞄で来てしまった。
鞄の中にあることすら忘れていたのは、安心からか、それとも疲労のためか、だが、今はどちらでもいい!
「須藤さん!それはいったいなんなんですか!?」
加藤が叫んだ。職場の連中が一斉にこちらを見る。さきほどの部長も怪訝な目でこちらを見た。
「どうしたんだい、加藤君!」
部長が大きな声で叫んだ。
「須藤さんの鞄の中から、血が付いたナイフが──」
加藤が声を遮ったのは、口が何かによって塞がれたからではない。俺の両手が加藤の喉を絞めていたからである。
「加藤君!」
部長が叫ぶ。それと同時に女社員の叫びが聞こえた。そして、男社員がこちらに向かってくるのにも気が付いた。
早く死ね加藤!お前を殺せば時を戻せる。だから、早く死んでくれ!
しかし、そんな俺の意に反するように加藤は俺の両手を振り払った。加藤は、その場に倒れ込んだ。
俺は素早くナイフを拾い上げ、加藤の喉元に向かって振り下ろした。しかし、ナイフは加藤の両腕によって防がれた。加藤の両腕が、赤く塗られた。
俺は加藤の両手を左手で押し上げ、下から喉元に差し込んだ。いい具合に刺さった。
その感触を感じた瞬間、俺は両腕を何者かに捕まれた。いや、何者かではない。ここの男社員共だろう。俺は加藤から1人分ずれた床に顔面を叩きつけられ、複数の男に抑えられた。口から血の味がした。
「加藤君!加藤君!」
部長がしきりに叫んでいる。
「だ、誰か救急車を!」
ああ、加藤が死んでいるのかどうか、気になる。もし死んでいなければ、俺の人生は終わったも同然よ。だから頼む加藤!俺のために死んでくれ!
俺はただただ願っていた。
その後救急車とパトカーが現れた。加藤は担架に乗せられ、恐らく救急車に運ばれていった。そして、俺は警察が到着するまで、男たちに抑え込まれ、警察が来ると手錠をかけられ連行された。会社から出てくる途中に、様々な罵詈雑言を浴びたが、特に苦ではなかった。
それよりも問題は、加藤の生死である。あいつが生きていては俺の人生は台無しとなる。これから、拘留生活を送るなんてごめんだ。
俺はパトカーの中で腕時計をチラッと見た。デジタル表記は『0』のままだった。まだ、加藤は死んでいなかった。
しかし、俺はラッキーだった。数字が『0』から『1』へと変わったのである。
やった!加藤は死んだんだ!
では落ち着けよ俺。どこまで時を戻す?
加藤が来たのは入社時刻ギリギリだったな。あいつを人が見ていないところで殺すためには、遅刻を覚悟して殺すしかない。仕方ない、逮捕されるよりは何倍もマシだ。
では行くぞ。あいつの入社時刻がおよそ9時56分だから、10分前に移動だ!
9時46分へ!
俺はスイッチを押した。
俺は会社の入り口の手前にいた。確かトイレで小便を済ませて入ったから、今尿意を催している。
だが、そんなことはどうでもいい。今は加藤を殺すことが先決だ。
加藤が来るルートは知っている。加藤はいつも会社横にある小道から来る。あいつの家は、この道をまっすぐ行けばある。
俺は待機していた。あいつが入るのがおよそ56分。今は54分だ。そろそろ来てもいいはずなんだが……。
俺はふと会社の入り口を見た。誰かが急いで入っていくのを見かけた。それは、見覚えのある後ろ姿だった。
まさか!?
俺はあとを追った。会社の入り口を開けた。
そこには、加藤が立っていた。
「あれ、須藤さん。今日は遅いんですね。もしかしてあれですか?僕と同じでレンタルビデオでも返しに行ってたんですか?」
加藤は振り向き、にやにやしながら言った。
俺は一瞬で血の気が引くのを感じた。
今の時間を確認した。55分。
あの真っ白な世界でもう1人の俺が言っていた。
時を戻すために殺した人間を、戻した時の中で殺した時間までに殺さねばならないと。
どうなるかは分からないが、おおよそゲームエンドといったところだろう。
俺は会社を走って出た。
加藤を何分に殺したかは知らないが、あと5分すらないだろう。
とりあえず、誰でもいい。
頼むから、誰か俺に殺されてくれ!
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