第1話 自殺
俺はあのとき正気でなかった。本当にどうかしていた。会社の飲み会にいた女社員に欲情し、ホテルに行ってしまっただなんて。
家に着いたら妻になんて言おう。子どもになんて言おう。女社員と肉体関係を結んだと正直に言おうか。いや、それは駄目だ。普通に考えて離婚は免れない。それどころか、慰謝料や養育費といった問題があるのは目に見えている。そんなのは御免だ。1時間楽しんだだけで、これから数年間地獄の生活を送るわけにはいかない。順風満帆な今の生活を、崩すわけにはいかない。
そうだ、別に言う必要はないんだ。1人の女社員と身体を重ねたことぐらい、別にバレることはない。キスマークも付けられてないし、女性特有の匂いだってしない。堂々としていればバレるはずはない。
そう思いながら、俺は自宅の玄関を開けた。
「ただいま。」
極めて平静を装った。
ん、平静を装う?
何を俺は動揺しているんだ。普通に行動していればバレることはない。そうだ、落ち着け俺。
「お帰りなさい、今日は遅かったのね。」
妻が玄関まで来た。
「ああ、会社の飲み会でな。ちと飲み過ぎてしまったようだ。」
「ふーん……。」
妻の声のトーンは沈んでいた。
まさか……、バレたというのか?
女性は違う女性の匂いに敏感だと言うが、もはやこんなにも早く気づくものなのか!?
「優樹はもう寝たわ。ついさっきね。」
妻は苦笑しながら言った。
良かった。バレてはいない。あとは普通にいけばいいんだ。
「そっか。」
俺も苦笑しなが言った。首の裏は湿っていた。
次の日、会社に行った俺は驚愕した。
「須藤君。君が鈴木君に肉体関係を迫ったのは本当かね?」
どういうことなんだ……。昨日飲み会で解散したあと、俺ら2人はこっそりホテルへと向かったはずだ。道中、誰にも見られていないはずだ。とすると、あの女社員が報告したか。目撃者がいない以上、あいつしかこの事実を知らないはずだ。
「部長、それは間違いです。私は昨日、飲み会のあと家に直接帰りました。鈴木さんとは会ってはいません。」
そうだよ、目撃者がいないのであれば、しらを切り通せば済む話じゃないか。
それにしても鈴木の奴、俺と同意の上での性行為のはずなのに、なぜ俺を加害者にしたてあげようとしているんだ?美人局のつもりか?
「実はね、こんなものが鈴木君から送られてきてね。」
部長が取り出したのは、ボイスレコーダーとかいうものだろうか。まさか──
「この中に、君が鈴木君を脅しているところが録音されていてね。」
俺は青ざめた。
違う!それは鈴木が望んで俺に言わせた言葉だ!
額から汗が流れていたが、それを拭う心の余裕はなかった。
あのとき、鈴木は特殊な性癖だと思っていたが、まさかこんなことを企んでいたとは……。
「とりあえず、今日は帰ってくれないか。これから、上との相談がある。じきに警察とも話し合う必要があるだろう。」
俺は黙り込んだ。鈴木の物的証拠がある以上、俺は不利なままだ。
そのまま、俺は会社を後にした。他の社員からの目線が突き刺さるような気がした。
家に着いたのは10時過ぎだった。気が重かったが、玄関を開けた。
「お帰りなさい。」
玄関を開けると、妻が立っていた。その顔は昨日とは違い、笑っていなかった。
話を聞くと、会社から連絡があったらしい。
「あなたには失望したわ。」
俺と妻はリビングの椅子に座って話していた。妻は机の中心を見ながら喋っていた。俺は俯いていた。
「優樹もいるっていうのに……。」
妻の声は震えていた。妻のことを可哀想とは思ったが、これからのことを考えると俺自身は笑えなかった。やがて妻は、袖で瞳を拭い、
「あなたとは離婚します。」
わかっていた。家に帰る途中に何度も考えていた。
「優樹の養育費、きちんと頂きますからね。」
それこそが俺の一番の心配だった。確かに優樹は2人の子どもだが、なんだって俺が離婚した奴に金を払わなければならん?俺に子どもはいなくなったようなものなのに。しかし、決められていることは決められていること。俺は黙って頷くしかなかった。
その日の夜。俺は山へ車で出かけた。なんてことのない、ただのドライブだ。
窓を開けた。春と言えど、夜の山の風は冷たい。
俺はカーブのある地点で車を止めた。ドアを開け、車から降りた。
ガードレールから下を見てみた。そこは崖になっていた。夜中によく車が転落するという、魔のカーブだ。
その崖を見下ろしながら、俺は考えていた。
今後生きていても、会社はクビになる。養育費、慰謝料は払わなければならない。ならばいっそ、ここで楽になろうか。恐怖を一瞬味わうだけでこれからの苦痛が消え去るならば、中々安い買い物である。
俺はガードレールに右足をかけた。恐怖が押し寄せる。駄目だ、ここで恐怖を感じるな。動け、俺の左足!
次の瞬間、俺は右足を滑らせた。道路側ではなく、崖側である。俺は前傾となり、そのまま身体ごと崖の方へと寄った。俺は完全に宙へと投げ出された。
ああ、やっと死ねる。俺の人生、短かったなあ。
そうして俺は、身体が降下する感じを味わいながら、意識を失った。
俺は目が覚めた。
どこだここは?
真っ白な空間で、1人。まさかここは、天国だとでも言うのか。
「おい。」
聞き覚えのある声が、後ろから聞こえた。俺は振り返った。そこにいたのは、俺だった。
「誰だお前は?」
俺は思いついた言葉を尋ねた。
「俺は俺よ。そして、俺はお前だ。」
何を言っているのかわからない。これが神様の正体とやらか?
「お前は今、死にかけている。」
目の前の俺が言った。死にかけている?
「死にかけている……って、俺は死んだんじゃないのか?」
まさか俺は死んでおらず、現実世界で気を失っているだけなのか?
「正しくは死ぬ『予定』だ。実際はまだ死んでいない。」
「どういうことだ?」
「お前が崖から落ちた瞬間で現実世界の時は止まっている。簡単に言うならば、ここはお前の意識の世界だ。」
頭が痛くなってきた。どういうことなんだ?
「時なんか止めなくていい。俺は死ぬつもりだったんだ。」
「心配しなくても、この意識の世界から抜け出した時点でお前はすぐに死ぬ。」
「じゃあ、早く現実に返せよ。」
「まあまあ、そう焦るな。どうせ死ぬんなら、俺と遊んでからにしようぜ。」
「遊ぶ?」
なんだこいつは。俺は早く死にたいんだ。現実から抜けたという、実感がほしいんだ。
「お前、腕時計はしてないのか?」
奴は俺の腕を見ながら言った。
「ああ、邪魔だと思ってな。時間の確認の必要なんかないだろうし。」
「なら、俺がとっておきの腕時計をプレゼントしてやろう。」
男は右手を俺の方に突き出し、手を閉じた。そしてぱっと開いたかと思うと、俺の左腕に時計が添えられた。
「おい、何の真似だよ。」
「なに、ちょっとしたプレゼントさ。」
こんな茶番はいいんだ、俺はさっさと死にたい。
「その腕時計はね、時が戻せるんだ。」
俺は耳を疑った。時を戻せる?
「そんなことできるのか?」
「俺のプレゼントは特別。どこにも売ってないよ。」
「待て、本当に時が戻せるのか?」
俺は興味津々だった。こんなわけのわからない世界にいるやつが言うんだ。なんだか本当に使えそうだ。
「ああ、使えるとも。使い方を教えてあげよう。」
俺はワクワクしていた。子どものとき、おもちゃを買ってもらうときのような気持ちに似ている。
「見た目は普通の時計だがな、時計の中に『1』と書いているのがわかるか?」
俺は腕時計を見た。確かに、真ん中と上の『12』と書かれた間に、デジタル表記で『1』と書いてある。
「ああ、書いてある。」
「その数字はな、お前が時を戻せる回数だ。」
「え、じゃあ俺、時を1回しか戻せないの?」
「落ち着いて話を聞け。その回数はな、あることをすると数字が増えるんだ。」
「ほう。」
俺はうなずきながら聞いていた。
「それはな、人を殺めることよ。」
ここにきてから驚くべきだらけだ。時を戻すためには、人を殺さなければならないだと?
しかし、逆に言えば人を殺せば何回も使えると言うことだ。それは素晴らしい。
「ほほう、それはいいな。」
「しかし、これには条件がある。」
「なんだ。」
「人を殺して時を戻す場合、人を殺してから30秒以内に使わないと、無効となる。」
「はあ?」
なんだその条件。融通が利かなさすぎるだろう。
「まだある。時を戻したあとは、もちろん時が戻っているので殺した人は生きたままだ。だから、その殺した人物を、前の時間軸で殺した時間までに殺さなければならない。」
話がややこしすぎて何を言っているかわからない。
「すまん、もうちょっとわかりやすく頼む。」
「そうだな。たとえばお前が午後2時に人を殺し、1時まで時を戻したとする。そうした場合、この人はお前に殺される前なので、まだ生きている。そして、お前は午後2時までにその人を再び殺さなければならない。しかし、その場合は、時計にカウントされないから、気を付けろよ。」
「ふむ、だいたいわかった。」
俺は聞くのが面倒くさくなったので、わかったふりをしておく。
「ではな、俺よ。せいぜい頑張るがいい。」
そうして俺は現実へと意識が戻った。
いかがでしたか。
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