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四月七日


 この日は大学の入学式であった。日程的には少し遅めかもしれない。


 朝、やけに緊張して早めに起床すると、昨日の夕食の残りとインスタント味噌汁で朝食を済ませ、暫し理由もなく呆然とする。それから、机に出しっぱなしにしてあった入学式の会場案内を確認して、持っていく黒い手提げ鞄にそれを放り込む。着ていくのはもちろんスーツだ。この日のために地元で仕立てておいたスーツを取り出して着、肩周りが締め付けられるような感触が、いかにも、という気がして、姿見の前で背伸びをしてみたり、それっぽいポーズをしてみたりする。高校の頃、文化祭の出し物の一環でワイシャツにネクタイという格好をしたことがあった。そのときは完全に昼休みのサラリーマンのような見た目になって、案外気に入っていたが、それとこれとではまた趣が違う。


 入学式の会場は市の体育館で行われた。会場までは、下宿の最寄り駅からバスで行く。通勤通学の時間と重なることもあって、バスの中はとても混み合っていた。私の前で天井のパイプを掴んで立っている青年もやはりスーツ姿で、しかもどこかそれを着慣れない具合から、やはり彼も入学式に向かっているのだろうと思った。もしかしたら私と同じ大学かもしれない。話しかけたりはしなかったが、バスに揺られる彼の後ろ姿を、自分も周りからこのように見られているのだろうか、と思いながら眺めていた。車窓の向こうでは、一日に、そして一週間に、あるいは新年度に向かって動き始めた京都の町並みが、思い思いのスピードで近づいては遠ざかるのを繰り返していた。


 会場近くのバス停に止まると、人混みを押し分けてバスを降りた。案の定、前に立っていたスーツの彼も同じバス停で降りて、一歩違いの間にまた人混みの中へ消えていった。会場へと続いている狭い歩道では、入学式の参加者、新入生やその父兄がびっしりと並んで、ゆっくりと前へ進んでいる。どうしてこんなに進むのが遅いのかと不思議に思っていたら、会場の入り口に近づいてきた頃、玄関口の周りに、見覚えのあるカラフルな人だかりが見えた。なるほど、これはいい迷惑である。父兄列と新入生の列とが分かれたところで、ごつい体つきの男どもが人だかりの最前列に陣取って、新入生たちに「入学おめでとう! ラグビー部です!」と全く脈絡のないことを叫んだり、ハイタッチ用の手を列にかざしたりして宣伝活動をしている。その他諸々のサークルも同様だ。まあ、この前みたいなビラ配りがないだけマシかもしれない。私は例のように、両側から迫ってくる熱狂的な何かを、涼しい顔をしながら通り抜けた。


 会場には既に半分以上人が入っていて、黒い頭が一面に並んでいる様はなかなか壮観である。前方のステージ上には、巨大なスクリーンが垂れ下がっていて、大学のオーケストラ(恐らく)がBGMを演奏している映像が映されていた。

 高校の卒業式もそうだったが、義務教育が終わってからのこうした式典は、少なくとも私が経験してきた限りは、得てしてきっちりとしたまとまりもなく、漫然と行われて、これで本当にいいのか、と終わってから思ってしまうようなものが多い。この入学式もそうで、会場中がざわめいているうちに始まり、総長の話が長々とある間にもどこか落ち着かない。学歌斉唱の場面でも、学歌を歌える新入生など、グリーの新歓で練習をした新入生ぐらいのものであったから、皆がわたわたとしている間に録音のメロディと歌声が流れるだけだったし、そんなしらけた空気の中では、学歌を知っていたとしても、おおっぴらに歌うことなどできなかった。

 そういうわけで、これが充実した入学式だったかといえば、かなり怪しい。


 式のプログラムは、昼前に終わった。これで一段落、といきたいところだが、そうもいかない。午後からは文学部のガイダンスに、クラスの顔合わせ会がある。だから、今度は文学部のあるキャンパスまで戻らなくてはならない。で、新入生が一斉にバスに乗るわけにもいかないから、近くのキャンパスに移動する新入生は、歩いてそこまで行かなければならない。履きなれない革靴でそこそこの距離を歩くのは、そこそこホネだ。もちろんそこら辺の土地勘はないから、前を行くスーツ姿の後に着いていく。よく晴れた春真っ盛りの日差しが、新品のアンダーウェアをうっすらと湿らす。

 京都の町並みも、表通りの二、三歩中に入れば、生活感あふれる下町の風景になる。それでも、どこか京都らしい趣が随所に見え隠れして、気楽に散策気分で歩くのにはとても楽しい。ちょっとした路地裏の探検というのは、これからも何度か書くことになると思う。


 昼食は学生食堂で取った。時間が時間なだけにとても混み合っていたが、一人だけで座れる席はまだ空いていた。この食堂には、六人がけの体面テーブルに仕切りを付けて、向かい合った人の顔を見えないようにした所謂「ぼっち飯」専用テーブルという至って余計なお世話の設備がいくつか用意されている。それを使った。これからもお世話になることだろうと思う。


 文学部ガイダンスについては、特に何も書くべきことがない。ただ、文句をつけることがあるとすれば、会場が非常に狭かったということだ。司会役が、これで文学部の施設では一番広い講堂なのだと釈明していた会場には、文学部の新入生全員が備え付けの椅子に座りきれず、空いたスペースにパイプ椅子を並べてぎゅうぎゅう詰めで座るはめになった。ある文学部の先輩曰く、この大学では学生の何割かが授業に来なくなることを前提に建物や駐輪場が設計されているため、入学式のように一気に人が押しかけると、すぐにパンクしてしまうらしい。「自由の校風」とやらの面目躍如である。


 この大学の文学部は、必修科目なるものが外国語の授業ぐらいのものであるから、クラスは一応編成されるが、クラス全員が顔を揃えるのはその外国語のクラス以外ほとんどなく、クラス全体としてのつながりは薄いと言われている。それでも、この頃はLINEのような連絡ツールが普及したから、交流のあり方は変わってきているようだが、いずれにしても、高校までのようにクラス全員の顔名前を覚えるなんていうのはできそうもないし、それはもう半ば無駄な試みである。しかし、やはり大学にはいろいろな面白い人が集まっているもので、名前はともかくその個性や風体が強く印象に残っているクラスメイトは、今現在何人かいる。ここで書くのには少々面倒くさいので、後々ぽつぽつ書いていこうと思うが、様々に割愛して列挙するだけでも、自己紹介で自分の哲学観をいきなり語り始める人だとか、既に新入生のLINEグループを組織して、文学部の新入生の半数以上と連絡先を交換している人など、まあ、要するにいろんな人がいる。また、そういう風にして見ていると、いろんな人がいるとは言え、高校時代のクラスメイトとそっくりな人がいたりして、急に思い出の世界に引き戻されたりもした。


 顔合わせ会は、先輩による進行のもとで自己紹介が一通り終わった後、何種類かのクラス委員を決めることになった。期末の試験の過去問を入手する委員や、年に一度の学祭でクラス企画をする委員などだ。その中で、私は自治委員というのをやることになった。名目上は文学部生の自治組織ということになっているが、具体的な活動内容は、文学部棟の空き教室の管理、中でも、サークルや自主ゼミへの貸出などぐらいのものである。それと、学生控室の管理という仕事もある。旧文学部棟の地下や、その学生控室というのは、所謂学生闘争の時代に学生活動家が活動の拠点としていたような場所で、その跡がくっきりと残されている。壁中に左翼的な内容のビラが貼られっぱなしになっていたり(中には最近の米軍基地問題などを論じるものもあった)、それが貼られていないところにも、びっしりとゲバ文字がペンキで殴り書きされていたりする。これらも文化財保護の観点から保存されているのだろうか。現在は、文学部内でそういた活動の影を感じられる場所もそういった空間ぐらいのもので、それらももう本来の、暇な学生たちのたまり場としてしか機能していない。


 クラス委員がそれぞれ決定すると顔合わせ会はお開きとなり、自治委員となった私と、もう一人の遠藤君(仮名)は、先輩に連れられて、他のクラスの新自治委員たちと一緒に上記のアングラ・オブ・文学部を見て回り、その後、大学付近の中華料理屋で食事会をした。遠藤君を始め多くの男子自治委員は、先輩も含めて男子校出身者が多く、男子校ならではのトークで盛り上がっていた。私はその壮絶かつ独創的な世界観に少々圧倒されながらも、笑ってその話を聞いていた。


 そのようにして、私の文学部生としての初日は終わった。











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