四月五日/六日
改めて書くと非常に白々しくなってしまうが、両親とはありがたい存在である。
なぜこのようなことをいきなり宣言したのかというと、明日が母の日だからとかそういう理由ではなくて、これからかく二日間の中身の総括として、予め書いておきたかったからだ。
四月五日。京都に引っ越してから初の週末である。と言っても毎日が忙しい休日のようだったから、土曜日といってもたいしたありがたみはない。その上、昼過ぎから大学主催で「特別セミナー」なるいまいち必要性の感じられない行事に出席しないといけないものだから、のんびり眠っているわけにもいかない。
もとい、この日は引っ越しの手伝いをしに実家から両親が来ることになっていたのだった。荷降ろしから四日も経って手伝いも何もないじゃないか、おっしゃるとおりだが、依然私の部屋には電子レンジや炊飯器の置き場も、作業机さえもなく、そこら中にゴミ袋や役目を終えたダンボールが散乱している状態で、私一人では処理しきれないタスクが山積みであった。それに、追加で持ってきてもらはなくてはならないものもそれなりの量あった。引っ越し自体が土日の内にできていれば、両親も引越し屋と一緒にこっちへ来て手伝ってくれることができたのだが、いかんせんその都合がつかなかった。
両親は昼前に到着した。本来ならば、のんびりとお茶でもだして近況報告をするところだが、まずは路肩に停められた父の車から荷物を搬入しなければならないは、運び入れたものを整理しないといけないはで落ち着かない。そうこうしている間にお昼時になって、せっかくだからと外食することになった。私は後から「特別セミナー」とやらに行かなければならないから、食事処は下宿と大学との間で探す。このあたりは完全に学生の居住地区だから、ファミレスのようなものはほとんどなくて、学生用の小さな店ばかりがそこら中にある。そしてそれらは学生用であるからして、土日は律儀に休業していることが多い。やっとみつけたハンバーグ屋も、学生客で賑わっていた。
注文した料理が出てくるまで、新生活のこと、大学のこと、サークルのこと、今日明日で用意して欲しいもののことなどを根掘り葉掘り聞かれ、料理が出てきてからも、ここぞとばかりに話は続いた。そろそろ店を出なければセミナーの開始時刻に間に合わなくなるというような時間になって、私は二人にお勘定を任せ、下宿の鍵を預けてて大学へ向かった。二人はこれからホームセンターに行って必要そうなものを買ってくるということだった。
「特別セミナー」については、特別書くようなことは何もない。正直なところ、そこで何が話されていたのか、今となってはほとんど覚えていない。たしか、海外交流についてと、就職プランについてと、心のケアについての話があったと思う。それだけである。そもそも、それらの内容を覚えていたとしても、書くべきことは何もなかったと思う。
長時間椅子に座っていたせいですっかり凝ってしまった腰をさすりながら、下宿まで歩いて帰る。玄関を開けると、両親の声が私を出迎えた。一人暮らしに慣れはじめた頃だったから、かえってそれが新鮮に感じられる。だからどうだというほどホームシックにはなっていなかったが。それからは、買ってきてくれたラックを組み立てて電子レンジ等などをセッティングしたり、テレビやノートパソコンの電気まわりを調整したりして時間が過ぎていった。
夕食は下宿と同じ街区にあるとんかつ屋でかつ丼を食べた。疲れて腹が減っていたせいもあるだろうけれど、非常に上手いかつ丼だった。少し値段がお高めであったから、何かがんばったときの自分へのご褒美にはちょうどいい、などと話しながら、三人揃ってぺろりと平らげた。途中、横で同じくかつ丼を食べていた男子学生二人組が、「去年単位7つ落としちまってよぉ」などと話しているのが耳に入って、思わず両親と顔を見合わせたりした。
夜、旅行の宿泊先にいるような気分で、菓子をつまみながらテレビを見たり、のほほんと時間を過ごしてから、私は自分で組み立てたベッドの上に眠り、両親は持参したマットに布団を敷いて、そこに寝た。何となく奇妙なシチュエーションである。
四月六日。朝飯をコンビニ弁当で済ませると、ベランダに積み上げてあったダンボールの山を、下京区にある回収上まで、車で捨てに行く。京都市内で土日もゴミを受け入れていて、かつ無料のところとなると、多少遠いがそこしかなかった。
話は少し逸れるかもしれないが、京都の中心部はとことん自家用車で移動するのに向いていない。景観を守るために中心部では車を締め出そう、なんて話もあるぐらいだ。ただでさえ道路が碁盤目状にできているせいで交差点が多く、さらにいつでも使える駐車場が少ないから、車では目についた店にひょいと立ち寄ることができない。建物の高さ制限のせいか、横に成長している京都の街は土地に余裕が無いのだ。
そういうわけで、大型の商業施設はかなり郊外に行かなければ見つけられない。家具屋もそうだ。私たちはようやくたどり着いたニトリで大きめの作業机や耐震グッズ、冷蔵庫の上に収納スペースを作るためのラックを買った。
そこからの帰り道、昼ご飯を取れるような店を探しながら下宿へ向かうが、先述したとおり、看板を見つけてすぐに入れるような店はなく、泣く泣く美味しそうなところをいくつも通りすぎて、とうとう中心地での食事を諦め、鴨川を渡った。
鴨川の桜は、ところどころ散り始め、青葉を混じらせる木もあったが、まだ、多くは見頃を脱していなかった。相変わらず、河川敷は花見の集団で賑わっている。京都の街の、休日の光景。
「もうちょい時間があれば、のんびり花見もしたかったんだけどなぁ」
ハンドルを握りながら、窓の外を眺めて、父は言う。母も、そうね、とうなづく。
「まあ、また来年」
私は言った。来年の春を、もっとのんびり迎えられることを祈りながら。
今年の春が忙しい内に終わってしまうことは覚悟していた。その日、帰ってからも、買ってきた家具の組み立てや片付けに大忙しであった。三人でかかったからその日中に終わったものの、自分一人ではこれがどれだけかかったか知れない。重ね重ね面倒をかけてしまった両親は、一通りの作業を終えた後、翌日から始まる仕事に備えるために、夕方には岐路についた。私も作業の後はくたくたになってしまって、二人を下宿の外まで見送ってからは、そのままベッドに直行した。実に忙しく、ある意味で充実した二日間であった。
余談だが、この日の夜、初めて銭湯に行った。初めてというのは、京都に来てからも初めてであるし、生まれて初めてという意味でもある。実家の風呂は人が一人浸かるには十分な大きさがあったから、金を払って沸かし湯を浴びに行くなど考えもしなかったが、下宿の金魚鉢のような浴槽しかない環境ではそうもいかない。しかし、銭湯といえばワンコインで利用できる庶民の味方かと思っていたが、需要の減った最近では向こうの経営も大変らしく、ワンコインはワンコインでも五百円玉を渡してようやく少しお釣りが出るぐらいの入浴料を取られる。もちろん、最寄りの銭湯がそうなだけで、他がどうかは知らない。少なくとも、これもそうしょっちゅうは行けないだろう。
もう一つ、銭湯に関して余談だが、この初めて私が銭湯に行ったとき、それなりに浴場は混んでいて、それでもいくつか浴槽が仕切られているうちの一つだけ、誰も入っていないところがあった。それならば、と、私は身体を流した後、すぐにそこへ入ろうとしたが、湯船に足を入れたとたん、それが熱湯風呂だと分かった。まあ、熱湯といっても50度前後のものだろうが、普段40度強の湯に浸かっている身としては、急には跳ね上がってしまうほど熱い。しかし、何を思ったか不思議な見栄が沸き起こって、一度足を入れてしまった湯から逃げるわけにもいくまい(多くの人が既にそれを目撃しているのだから、なおさら)ということで、どうしようかと足だけ入れたまま浴槽のふちに座って暫くぱちゃぱちゃ身体に湯をかけたあと、ゆっくり腰まで浸かり、細心の注意を払って胸まで浸かり、いったいなんで自分はこうも熱くなっているんだと自嘲しながら、湯の温度が身体に馴染むまでじっとしていた。
人体の適応能力というのはけっこう馬鹿にできないもので、そうしているうちに、本当に50度近い温度でも、肌にチクチクくるような痛みはそのうち薄れて、「けっこう効くな」というぐらいになってきた。そしてなんとなく、他の客が避けて近づかない熱湯風呂に澄ました顔で浸かっている自分を誇らしく思ったが、後から考えると、常連客から見れば、初顔が順番も考えずにいきなり熱湯に入って、やせ我慢をしとるわい、とでも言う風に映っていたかもしれないと思えて、恥ずかしいといえば恥ずかしい。
今のところ、その銭湯には二週間に一度か二度通っている。