四月四日
この日は午前中に、ケーブルテレビの業者さんが訪ねてきて、家のテレビとインターネットを調整してくれた。この日まで、新居ではインターネットが使えない状態であった。大学の授業登録などもインターネットでしなければならないから、それが使えないとなると不便である。もちろん、個人的にも心もとない。おかげさまで、今はこの通り問題なく使えている。
昼食は、前日に買ってあった生麺と鶏がらスープの元、ねぎ、キャベツ、そして一人暮らしの強い見方、もやしを使って醤油ラーメンを作り、思いの外キャベツが甘くて喉にひっかかるのに辟易しながら、一人それを貪り食った。どうせ同じラーメンならインスタントや袋麺でもよかったのだが、自分でスープから作ってみるのには興味があった。今の段階では凝った調味料や食材など揃え用もないのだが。それでもある程度進化させていきたいものだと思っている。
午後には大学内の電子機器や無線LANを使うための講習会があった。要するに、ウイルスに気をつけろだとか、パスワードを使いまわすなとかそういう話である。それだけのことを、スライドやらビデオやらを使って長々と説明された。余談だけれど、大人が無理に若者の目線を真似て何かを表現しているのには、時々目を背けたくなるものがある。そうでなくても、素直に受け取ることができなくて、ふむ、がんばっておりますなあ、と斜に構えた気持ちで眺めてしまう。私がもう少し気障だったら、「スマートじゃないね」などと明後日の方向に呟いたりするかもしれない。講習会のビデオを見て、そんなことを考えていた。
この講習会の終わりにあった椿事を一つ紹介したい。担当教員の話が終わって、質疑応答の時間になり、やっと帰れるぞと会場内の新入生が荷物をまとめ始めた矢先、私よりも後ろの方の新入生が挙手したらしく、教員が発言を促した。すると、
「先生の話に何度も出てきた、ソフトウェアって何ですか?」
という女の子の声の質問が発せられた。一瞬、会場内が水を打ったように静まり、それから、さっきまでとは違ったどよめきが起こった。なんだそりゃ、と嘲笑うような声もあがった。担当教員も、思いがけない質問に困ってしまったようで、
「それは……改めて聞かれると難しい質問ですねぇ」
などとどぎまぎしていた。
私がこのエピソードを紹介するのは、決してこの質問の主を馬鹿にするためではない。たとえ彼女が、ソフトウェアを柔らかい絹の着物か何かと勘違いしていたとしても、そんなことはどうでもいい。注目すべきは、我先に帰らんとしている人々の倦怠感入り混じった場の空気をあえて断ち切り自らの認識を確認しようとするその勇気、あるいは感性とでも呼ぶべきものである。要するに、世の中にはいろんな人がいるということだ。
講習会が終わった夕方、帰るなりどこかのサークルの新歓に立ち寄るなりしようと思ってぶらぶらしていると、昨日のグリーサークルで見かけた先輩数人と行き当たって、声をかけられた。一人はバリトンパートのサブリーダーをしている天野という人で、あと二人はまだ名前を覚えていなかったが、確かに前日見た顔だった。
「やあやあ、春井君じゃないか。昨日は来てくれてありがとう。ところで、今日はどこへ行くか決まっているのかい?」
先輩のうちの一人が尋ねる。恐らく決まっていないと答えれば、彼らの思う壺であろう。しかし、とりわけそれを避けるほどの理由もない。
「いえ、まあ、とくには」
「そうなのか、じゃあ、ぜひぜひ今日もうちに来てくれていいんだよ?」
「うーん、でも、他のところにも回りたいとおもうんですよね」
「まあ、もちろん僕たちもそうすることをおすすめするよ。新歓期はいろいろ回ったほうがいいからね」
「ですよね。あ、でも、グリーの部室も見てみたい気がします」
「お、ほんと? それじゃあぜひとも見ていってよ。天野、春井君を部室に連れて行ってやってくれよ」
私は、自分の言葉で先輩たちの表情が二転三転するのを半ば面白がって見ていた。あまり慣れていないが、こういう立場も悪くない。もちろん今だけのことだろうけれど。
私を連れて行ってくれる天野先輩は、大音声を出すのにはいかにも好都合そうな体型をした人で、まだ肌寒いこの季節にも半袖のシャツを着、血色の良い顔面に絶えず幾筋かの水滴を垂らしている。見た目に関してはそのような具合だが、彼は非常に面倒見のよい性格らしく、昨日も同じバリトンで練習した私や他の新入生に、汗を振りまきながら世話をしてくれた。いちいち気を使ったり心配をしたりしてくれるものだから、部室に向かう道すがらも、京都に来てからの大変なことや、部屋のエアコンが動かないこと等の話が自然と口をついた。
五分ほど歩くと、グリーの部室に着いた。この大学のサークルに割り当てられる部室は、そのほとんどが大通りを挟んで本部キャンパスの向かいの敷地にあって、三階建て鉄筋コンクリートのものもあればプレハブのものもある。グリーのはプレハブの方で、といっても防音断熱設備はかなり整っていて、広さもそこらの学生マンションの一室と同じぐらいある。そしてなぜか冷蔵庫やコンロ、炊飯器が完備されていて、私と天野先輩が中に入った時、どういうわけか桜田さんがこんろで薄切りにしたじゃがいもを揚げていた。
「ああ、やあ」
「ああ、やあ、って桜田さん、な、な、何やってるんですか」
天野先輩が、わざと上ずったような声で桜田先輩に尋ねる。ちなみに、二人は同じ二回生だが、年は桜田先輩の方が上である。
「何って、ポテトチップスに挑戦中。あー、これどうかな」
そう言いつつ、桜田先輩は油を張った鍋から取り出した何枚かのスライスポテトを紙皿に乗せて、奥に座っている他の先輩たちに差し出した。どこからともなくそれに手が伸びてくる。
「んー、もうちょっと薄く切ったほうがいいんじゃない? パリっと感がまだ足りない。あとめっちゃ思いなこれ」
と、先輩のうちの一人がコメントする。それに応えて、桜田先輩はまな板に乗ったじゃがいもをさらに薄くスライスし始めた。はて、ここはいったい何のサークルだったかしらん、と私は軽いめまいを覚えた。この後で私も揚げたてのそれを食べさせてもらったが、確かに重かった。私の意見としては、薄さ云々よりも、もっと高温でカラッと揚げないといけないんじゃないかと思ったのだが、ボンベのコンロにそんなものは要求できまい、ということで、そんなことは口に出さなかった。次々に揚がっていくじゃがいもを、どこからか先輩が出してきたチーズやマヨネーズにひたして口に運びつつ、先輩たちとそれなりに有意義な雑談をして時間を潰した。
グリーの新歓練習会は昨日と同じ流れで行われた。曲目は、大学の学歌だ。先輩曰く、学歌は入学式と卒業式以外歌う機会がなく、この大学の学生はほとんど学歌の存在すら覚えていないという。そこで、グリークラブは学歌を何度も歌えることも売りにしているようだ。はたしてそれが売りになるのかどうかは知らないが。まあ、悪くない趣向だとは思う。
練習後、再び夕食会に参加した。昨日はバリトンパートのメンバーだけでのコンパだったが、今回は先輩が入れ替わって、例の柴田先輩に引率され、グリー行きつけという定食屋に案内された。店長のおじさん(限りなくおっさんと形容するのが妥当であるが、一応)は、この大学のグリークラブと三十年以上の付き合いだそうだ。ちなみに天野先輩はここでバイトをしている。今日の新歓練習で急に抜けだしたと思ったら、ここのシフトに入っていたのだった。
今夜の夕食会は、部長の柴田先輩を上座に据えて、賑やかに行われた。私の目の前には塩野という新入生が座った。彼は、常人とは一回りか二回り、横にも縦にも大きな体つきをしていて、肌も健康的に焼けており、おまけに声も良かった。その後しばらくの間、彼のことを上回生だと思って疑わなかったぐらいだ。しかし、後になって彼の話を聞いてみると、彼も私のことを年上だと思っていたらしい。おかしな話である。
そのような具合で、グリーの二日目は終わった。