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四月三日 下

以降の文章に出てくる個人名は、すべて仮名です。


 午後6時、先刻出会った先輩に言われたとおり、学生食堂の前へ行く。行くには行ったが、始めから迷いなく行こうと決めていたのではなくて、一度キャンパスから家に帰り、はて、合唱の世界に片足を突っ込むなんていうのが、音感のない私にできるだろうかと小一時間ほど考えた後、せっかく大学生になったのだから、新しいことをはじめてみようという気概がなければだめだろうと思い直し、意を決して出てきたのだった。


 そういうことで食堂の前に着くと、確かに、「グリー」とプリントされたのぼり旗を持った人を中心にして、そう多くはないが、何人かが集まっていた。例の先輩の姿は見えなかったが。私は、ふーん、と思いながら、その集団に近づく。


「あのー、グリーの見学会に参加したいんですけど」

 のぼり旗を持っている人の横にいた、いかにも先輩然としている男の人に声をかける。

「お、ようこそグリーへ。立原さん、参加希望者もう一人来ましたよ」

 彼は嬉しそうに口角を上げて、のぼり旗を持っているもう一人の先輩に声をかけた。

「よーこそグリーへ! バスのパートリーダーをしている立原です」

 と、立原さんは、細身の身体から大鼓のようなよく響く声を出して言った。髪を肩まで伸ばして、無精髭を蓄えている様は、まさに、という感じがする。私は、少し気圧されながら、どうも、とお辞儀をした。

「君、新入生?」

「あ、はい」

 やはり聞かないと分からないものだろうか。

「そうかそうか。そうだな、今日グリーに来てくれたのは、どういう経緯で?」

「少し前に、黒い服を来たグリーの先輩に勧誘されて、ちょっと興味を持ったので」

「黒い服? ……ああ、柴田さんのことかな。彼はね、うちのクラブの幹事長、まあ、部長をしておられる人です。今は他のところで勧誘してるんじゃないかな」

「なるほど」


 それから暫くその場で待機して、これ以上は新入生もやって来ないだろうと先輩たちが判断すると、その場にいた先輩たちと新入生(私ともう一人、背が高くて、ウォーリーを縦に押し縮めたような顔をした男子のあわせて二人)で簡単に自己紹介をした。立原さんは理学部の三回生、最初に私が声をかけた先輩は、秋田さんといって同じく理学部の二回生だという。あともう一人、文学部二回生の桜田さん。彼は、他の二人の先輩と違って、やけに垢抜けた感じがした。もちろん、そんなことを本人たちの前で口に出したりはしなかったが。そして、もう一人の新入生は、農学部で金本と言った。彼も、声量は人並みだが、聴きやすいはっきりした低音の声を持っていた。


 このメンバーで、練習場所へ向かう。グリーの練習場所はいくつかあるようだが、この日はキャンパスの外にある、かつて教会として使われていた建物でするということだった。教会と聞いて、よもや、いわゆる“怪しい宗教団体”と関係があるのではないかと一瞬身構えたが、そうではなく、グリーのOBに、その建物の所有者と知り合いの人がいて、その関係で使わせてもらっているらしい。実際にその場所に着いてみると、大正だとか明治だとかのレトロなにおいを感じさせる洋館で、よく整備がされていて、なんとかという種類の文化財にも指定されているらしい。

 練習部屋は、昔も集会に使われていたのだろうと思われる二階の大広間で、左右の両側に大窓がいくつもあり、しっかりとしたピアノも置いてあった。そして、そこにも既に先輩たちが何人かいて、見学会のための準備を進めていた。私たち新入生を見ると、彼らは嬉しそうにそれぞれ声をあげて、私たちを並べた椅子に座らせ、紙コップを配って、そこに飲み物を注いでくれた。

「君は、新歓はもう他のところも回ってる?」

 一人の先輩が、私の座っている席の横に来て、話しかけた。

「いや、ここが初めてです」

 そう答えると、先輩は驚いた顔をして、

「え、そうなの? いやー、初めてでこんなところにくるなんて、いや、なかなかいい目をしてますな」

 なかなか意味深な発言である。

「それじゃあ、合唱経験は?」

「中学のクラス合唱以来ないですね」

「そうかそうか、それで十分だよ。グリーで今やってる人は、ほとんど大学に入ってから合唱始めたからね」

 そこまで言うと、彼は私の横を離れて、再び準備に取り掛かった。と同時に、部屋の扉が開いて、先輩に引き連れられた新入生たちが四人ほど入ってきた。彼らのことは、今後逐次紹介することになると思う。

 そこで、一人の先輩が私たち新入生の前に出る。

「それじゃあ、パート分けをするので、ちょっと声を出してもらいます」

 と、彼は陽気な声でさらりと言うが……

「え、僕たちも歌うんですか」

「はい。私たちグリーはみんなで声を出して楽しむことをモットーとしていますので、今日は新入生さんたちにも一緒に参加してもらいます。あ、大丈夫ですよ、そんなに大変なことはしない予定なので」

 ということで、なぜか私が第一に、ピアノの横へ連れて行かれて、先輩が弾くピアノの音にあわせてどれだけの音域の声を出せるか試され、その結果、

「春井君、バーリト~ン!」

 と、ある人曰くハリーポッターの組み分け帽のような調子でパートを決定された。と、まあ、文章にしてしまえばただの微笑ましい一場面でしかないが、何の心構えもなしにそれをやらせれた身としては、たまったものではない。

 とはいえ、私もよほどストレスが溜まっていたのか、それを発散させようとする力がはたらいたのか、案外大きな声が出た。そして終わってみると、これも悪くない、というようなどこか爽快な心持ちがした。

「本当に合唱やってなかったの? いい声してるね」

 などとお世辞を言われて、気をよくしたりもした。


 しばらくして全員のパート分けが終わり、その頃になると先輩たちも揃って(いつの間にか柴田さんも来ていた)、皆で声出しをすることになった。新入生は、それぞれのパートで並んだの先輩たちの間に入る。声出しの指示は、さっき新入生にパート分けをした先輩が、部屋の中心に立って出した。彼はグリーの学生指揮者ということだった。

 グリーの声出し、つまり、発声練習が具体的にどのようなものかというと、これはあくまで新歓用のメニューだが、まずは試しにいくつかの音程で声を出し、次に腹に力を入れることを意識して声を出し、それから顔の表情を意識する。この段になると、異性の目がないのをいいことに、顔の筋肉をほぐすことを名目にして、顔をくしゃくしゃにしたり、顔にある穴をすべてかっぴらいたり、舌をべらべら出し入れしたりする。これも案外楽しかったりする。そしておしまいには、パートごとに違う音を出して、和音の響きを作ったりする。これも、ちゃんと正確な音程で声が出せている分には心地よいし、先輩に言わせれば、「来る」ものがあるらしい。


 声出しが終わると少しの間休憩があって、そこで柴田先輩と途切れていた文学部トークの続きをしたりして、それからその日に練習する合唱曲を、先輩たちが合唱するのを聴き、パートごとの練習になった。私が所属することになったバリトンパートは、広間を出て、一階の食堂だったと思しき部屋で練習をする。パートリーダーは海島という、物腰も声もやわらかくマイペースな法学部の先輩で、いたってのんびり、やんわりとしたペースで進められた。ちなみに、練習したのは「いざ起て戦人よ」という、ヨーロッパの賛美歌に軍歌風の勇ましい歌詞を付けた曲だった。これは、男声合唱の世界では非常に有名な曲らしい。短く分かりやすい曲調だから、少なくともビギナーには向いているのだろうか。覚えるのにそう時間はかからなかった。


 パート練習がひとまず終わると、再び全員が(言葉通り)一堂に介して音合せをする。一度全員で通して歌ってみてから、指揮者さんにあれこれと指示をもらって、調整していく。その指示も、単純に音楽の技術的なものから、歌詞の解釈に至るものまで様々だ。最後に再び全員で通して歌った後には、自然に内側から拍手がでるような出来になっていた。先輩たちも、新入生がたくさん来たおかげでいつもより張り切っているということだった。


 そんなこんなで、私の初新歓、初グリーはかなりの好印象で終わった。もちろんまだ即断するほどではなかったが。


 この後、パートごとに先輩たちと夕食会があったのだが、今回は記述を省かせてもらう。






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