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四月三日 上

 この日もよく晴れる。北向きの部屋の中では、夜に冷えた空気が朝になっても温まりにくいせいで驚くほど寒いが、一歩外に出れば、春らしいほんのりとした温かみが感じられる。


 引っ越しで荷物があふれかえっていた新居も、昨日と一昨日であらかた整理がつき、生活の基礎はできつつあった。昨晩、近くのスーパーで仕入れた食材で作った炒めものの残りとインスタントの味噌汁をおかずに、新品の炊飯器で炊いたご飯を食べて朝餉とした。今のところ机は実家から持ってきた折りたたみ式の小さなものしかなく、組み立てたばかりのベッドを椅子にして、ベランダに出るための北向きのわりに(もしくは北向きだからか)やたらと大きなガラス戸を正面に見て、朝飯を食べる。ベランダの向こうは隣の家の壁があるばかりで、すがすがしい景色などは求めようもない。ガラス戸に顔を押し当てて斜めの方角を見ると、宅地の建物の合間に一本、鮮やかに色づいた桜の木が見えるが、それ以外はこれといって特筆するべきことはない。無論、京都に来て部屋からの眺め云々に文句を言うのはどだいおかしなことであって、面白いものが見たければ、少し足を伸ばせばそこら中に見どころがある。この時点ではまだ、そういうところを巡る余裕がないというだけのことで。


 午前中は暇だったから、近くの銀行や郵便局など、生きていく上で必要になりそうな施設を見て回った。これについて特に特筆すべきことはない。


 昼過ぎからは、海外研修や留学のためのガイダンスがあったので、キャンパスへ向かう。留学についてそう熱心に考えている訳ではなかったが、話を聞いておいても損はなかろう、という程度の意気込みであった。

 そのガイダンスは、大学の広いキャンパスの中で、少し奥まったところが会場となっていた。そのおかげで、目的地のまわりをぐるぐると行ったり来たりするはめになったが、なんとか始まる前に着くことができた。会場の中に入ると、賑やかな音楽(しかもJPOP)が流れていて、予想外にがやがやとした雰囲気だ。会場となっている講堂の前部にはスクリーンが垂らしてあって、日本の大学生の英語力水準は他の先進国と較べて云々とかという耳の痛くなるような内容のスライドが流されている。

 少し待つと、予定通りに喋り役の先生が入ってきた。顔はそれなりに老けているが、プリントTシャツにジーパンというかなりやんちゃそうな格好をした人で、教壇に立つなり、簡単な自己紹介をすると、

「私はこれが趣味でしてね」

 と言って長い教卓の下から徐ろにスケートボードを取り出した。講堂の机に満杯に座り込んだ新入生たちが、何が始まるのだろうかと息を呑んで見守るなかで、その准教授だという御人は、いかにも自分の世界に入ってしまったかのようになった。

「ここで私が乗って(教卓の端にスケボーを置く)……ここでジャンプして(教卓のもう一方の端までスケボーを走らせて、そこから手で持ったまま中に浮かせる)……この壁でターンして……ここで着地して……ここでカッコ良く止まるっていう颯爽とした登場方法を、今練習してます」

 そこで、会場からどっと笑いが起きた。いきなりそんなことをされたら、笑うか呆れるかせざるを得ない。どうもこの人は名物教師のようだ。

 その後も、ガイダンスは笑いを交えて進められた。さすが、自ら生粋の大阪人を豪語するだけの腕前であった。こういうガイダンスなら、昨日の健康診断の後にあったつまらない話を延々と聞かされるようなやつよりかはよっぽどいい、と思った。いずれにしても話はあまり頭に入らなかったが。



 ガイダンスがさくっと終わり、会場から自転車を停めた場所へ戻る。会場の近くは駐輪場が満杯で寄り付けなかったから、少し離れた場所に停めていた。それで、そこへと向かう途中、少し人気が薄れた通り道で、道端に立っていた男の人に声をかけられた。

「どうもどうも、新入生さんですか?」

「あ、はい、そうです」

 またサークルの勧誘だろうというのは分かりきっていたから、煩わしくは思ったが、無視をするのも申し訳なくて、足を止める。

「あ、そうですかそうですか。それならこれをお渡ししたいのですが」

 そう言って、彼はビラを一枚私に手渡す。

「えっと、……グリークラブ、ですか?」

「あ、はい。えっと、グリーっていうのはなんのことかご存じですか?」

 浅黒くてかたそうな肌に、酔っ払ったような赤みの差している顔が、私の表情を覗きこむ。

「いえ、ちょっと分からないですね」

 私は正直に答えた。私が今までに聞いたことのある「グリー」と言えば、海外ドラマのタイトルと、オンラインゲームの会社名ぐらいだ。そのどちらにしても、サークル名に冠されるようなものではない。

「あ、そうですか。実はですね、グリーというのは男声合唱のことでして、要するに男だけで歌う音楽形態のことをいいます」

「へえー、男だけですかー」

「ええ、そうでして、男声合唱の何がいいかっていったら、男の声ならではの迫力が出せるのと、なにより女子の目を気にせず和気藹々とやれることです」

「なるほど」

「ちなみに、学部はどちらですか?」

「えっと、文学部です」

「あっ、これはこれは、わたくしも文学部四回生ですよ」

「それじゃあ大先輩ですね」

「いえいえ、そんなおおそれたものじゃないですが。これはうれしい……あ、いや、さっきからずっとここらへんで勧誘してたんですけど、文学部の人に全然会えなかったからね、ええ、それで、ていうことは、文学部でどういうことに興味があるのかな」

 文学部の先輩という彼は尋ねた。私が文学部だということを知ってから、興奮したようにそわそわと身体を動かしポンポンと喋り出した彼の様子を、私は、剽軽な人だなあ、と思って眺めていた。

「今のところ、歴史をやろうかな、って思ってます」

「へえ、歴史ですか。なるほどなるほど。それは、日本史? それとも西洋史?」

「できれば両方やりたいですけど、どっちか選べって言われたら、今は日本史ですかね」

「なるほど、ちなみに日本史で言うと、時代はどこらへんにご興味が?」

「うーん、せっかく京都に来たので、平安時代前後をやりたいですね」

 次から次へと矢継ぎ早に質問が飛んでくるものだから、私も半ば面白がって答える。平安時代が云々というのは前から深く考えていた訳ではなかったが、こうやって口に出てしまうと、なるほどそれもいいかもしれないと思う。

「それはそれは。おっと、もうこんな時間か。いや、私もこの後用事がありまして、いやー、もっと話してたいな、アハハ、ということでですねえ、グリークラブ、五十年近い伝統のある大学公認サークルなので、もしお時間ありましたらね、この後6時から食堂前に来てもらえれば練習に体験参加してもらえるので、是非是非、よろしくお願いしますということで、よければまたお会いしましょう。ではでは……」

 そう言うと、彼は時々こちらに振り向きながら、そそくさとその場を後にした。


 残された私は、もとより合唱そのものに興味のない体で話を聞いていたのだが、彼の人柄に引きつけられたのか、それとも不思議な縁の力がはたらいたのか、新しいことを始めるのもいいかもしれないという気が起こりつつあった。





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