四月二日
この日は朝からキャンパスに出かけた。大学生になってからキャンパス内に入るのはそれが初めてだった。何があるのかというと、まず、学部の教務から学生証を貰いに行き、それから健康診断があり、午後からは新入生ガイダンスがあり、と実にやることが盛りだくさんなのだった。四月一日という平日の中途半端な日取りで引っ越しをしたのも、この日に間に合わせるためであった。
この日もよく晴れて、背の低いビルの立ち並ぶ上には、真っ青な空がすぐ近くまで広がっていた。ひんやりとした朝の空気を体中に受けながら、真っ直ぐな大通りを自転車で走る。途中、同じ方向へかなりのスピードで駆けていく自転車が、何度も私の横を追い越していった。京都は自転車の街だ。単に自転車の利用者が多いというだけでなくて、交通手段の主役もほとんど自転車が担っていると言っていい。平坦な道や、車で入っていけないような小路が多く、たいがいの店に駐車場の備わっていない京都では、自転車があれば格段に便利だし、なければむしろ些細な日常生活に支障がでるほどだ。特に、地下鉄やバスの運賃も惜しむ学生たちにとって、脚力さえあればどこへだって行ける自転車は必需品だ。
同時に、京都は学生の町でもある。石を投げれば学生に当たる、かどうかは、手近なところに石が無いから試しようもないが、京都の街中をぼんやり歩いていれば、一度は自転車に載った学生に追突されるだろう。要するに、京都は自転車に乗った学生たちの町である。朝、京都市中に遍在している各大学の校門近くにいれば、ただでさえそう広くない歩道を我が物顔で道いっぱいに広がり、粉塵を巻き上げ疾走していく自転車の群れに遭遇することになるだろう。
そう言う訳で、私がその日大学の正門近くに着いた時も、すっかり周りを自転車の一団に囲まれてしまった。あまり自転車の運転に慣れていない私にとっては、なかなか肝の冷える一時だ。その流れに飲まれながら、なんとかキャンパス内に入ることができた。
近くの駐輪場に自転車を停めて、ふう、と一息つく。この朝のラッシュに慣れるのはなかなか大変そうだ。
と、キャンパスの本部がある建物と、その前の広場に目を向けると、サークルの勧誘だろうか、本来通路であるはずのところに、夥しい数の学生(?)が道の両側に広がって陣取っており、かなり向こうのほうまでその列が続いていた。それぞれのサークル名が書かれた旗を掲げていたり、横断幕を垂らしていたりと傍目にはカラフルで楽しそうなのだが。恐らく、その間を通っていかなければ、新入生は目的の場所へ辿りつけないということだろう。こいつはたいそうなお出迎えである。
性格上の問題として、こういうのが嫌いな私は、近くで固まっていた新入生の一団からスッと離れ、その列の脇を、すました顔で通り過ぎた。案の定、素直に列の間を通って、両手に抱えきれないほどのビラを渡されたりしている新入生たちを尻目に、誰にも声をかけられることなくやり過ごすことができた。老け顔と影の薄さもたまには役に立つものである。
学部の教務室で学生証をもらうとき、教務の人たちが座っていた机に、この学部の入学者名簿が置かれていて、ちらりとそれをのぞき込むと、不意に見覚えのある名前が目についた。へえ、あの人もこの大学だったのか、と、中学の時の知り合いの顔を思い出す。しかし、学生証を貰って、建物の外に出てから、そういえばあの人の名前はあの漢字じゃなかった、と思い当たって、人違いだったことを知る。私はまさにぬか喜びであったか、とがっかりした。というのも、私の高校からこの大学へ来たのは、私を含めて二人しかおらず、異郷出身者としては少なからず心細かったのだ。しかも、私が文系であるのに対してそのもう一人は理系だから、ほとんど会う機会もない。そもそも、高校時代そこまで仲が良かった訳でもない。
とにかく一つ目のタスクが終わり、次は健康診断である。確か、健康診断は本部の建物でやっているはずだ……本部? 本部の建物と言えば、さっき通り過ぎたサークル勧誘の列がひしめいていたところだ。いや、それだけなら、さっきと同じように何食わぬ顔でくぐり抜ければいい。けれども、本部の建物に向けて歩いている内に、その長蛇の列は、健康診断会場の入り口から続いているらしいということが分かった。なるほど、向こうもすくい漏らす気はないらしい。仕方なく、私はその列の中で「最後尾」のプラカードを持った人を探して、そこから新入生の列に並んだ。結局、会場の入り口に付く頃には、両手いっぱいにビラを持たされてしまっていた。
建物の中でもまた少し待たされてから、広い仮設検診場へ誘導された。そこで問診を受けている時、不意に年配の看護婦さんが不思議そうな顔をして、
「葉っぱがついてますよ」
と、私の頭を指さした。え、と思いながら自分の頭を探ると、確かに、緑色の丸い葉っぱが一枚、てっぺん近くの髪の毛に引っかかっていた。看護婦さんは遠慮なくにやにやとしている。僕は慌ててその葉っぱをジーパンのポケットにしまった。いつ付いたのかは知らないが、恥ずかしい限りである。そういえば、先刻列に並んでいる間にも、やけに不審な視線を私に向ける人がいた。気づいているなら教えてくれればいいのに、と、私は看護婦さんに照れ笑いを返しながら、心の中で憤った。
「X線検診って、ここであってますよね」
室内での健康診断のメニューを終え、X線検診車の待ち列に並びに行くと、前に並んでいた新入生が、私にそう話しかけた。ここでもずらりと続く列を見て、私は、「そうじゃければいいんだけど」と冗談めかして言った。しかし、彼は、そんなことはどうでもいいというような様子で、続けて、
「どこかで会ったことがありませんか?」
と私に尋ねた。そう言われてようやく、私も彼の顔を正面に見る。いかにも大人しそうな丸顔をしているが、メガネの奥の眉目はどこか鋭さを感じさせる。肌は健康的に日焼けしていた。……しかし、見覚えがない。
「さあ、申し訳ないけれど、ちょっと……」
「そうですか? おかしいなあ」
「んー、出身はどこですか」
「僕は宮崎です」
なんだ、出身からして全然違うじゃないか。どうやらこれは、彼の勘違いのようだ。その雰囲気が二人の間に流れると、ぷっつり会話が途切れてしまった。もしかしたら、話題作りにでたらめを言ったのかもしれない。そうだとすれば申し訳ないことをしただろうか。
話が途切れてから、彼は小脇に抱えていたサークル勧誘の雑多なビラを両手に持ち直して、手持ち無沙汰に一枚ずつめくり始めた。私はやはり手持ち無沙汰で、彼がビラを読み漁っている様子を斜め後ろから眺めていた。
「そのサークル、興味あるの?」
私は、彼があるビラに取り掛かったところで久しく手を止めているのを見て、聞いた。自然、前より打ち解けた口調になっていた。
「え? うん。ちょっと気になったんだ。フリスビーのサークルだって」
「へえ、面白そうだね」
「でも、新歓花見の日が学部ガイダンスの日と重なってるんだよね」
「そりゃあ残念」
こういう調子で、しばらく彼と話をした。けれど、検診車に乗り込むときには違う車両に分かれて乗ったから、そこでばらばらになって、それっきりになってしまった。彼の名前も聞かないままである。既にこの時から一月近く経っているが、学部が違うせいか、キャンパス内では一度も彼に会っていない。
それから、問診の時にジーパンのポケットにしまい込んだ葉っぱは、あの後一体どうしたのか、一向に覚えていない。