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四月十二日


 休日ということもあって、朝は九時頃に布団を出る。少なくとも私にとっては、十分のんびり寝た方である。この時間でも、部屋の空気は冷たく、どこか湿気った感じがする。前日が、先述の通り思いの外充実した一日になったおかげで、目覚めの気分は悪くなかった。久しぶりに、心にみずみずしさが溢れているような気がした。若干年寄り臭い表現かもしれないが、実際、本来の私というのは実に淡白で、腰が重く、素っ気ない人間のようである。もしかするとそれは結果でなくて原因なのかもしれない。とにかく、この日の私は何かしら大きな浮力のあるものに満たされていた。

 朝食は、昨晩何も用意をしていなかったから、納豆にネギを刻み入れて、即席の味噌汁と一緒にご飯を胃袋へ流し込む。そういえば、関西人は納豆が苦手とよく聞くが、どうなのだろう。近くのスーパーではいくらでも売っている。けれど、ここは全国からやってくる学生の下宿が集中しているのだから、商品の偏りがあまりないだけかもしれない。もちろん好みの問題だから一概に言えることではないのだろう。ただ、古い時代に関西で関東より納豆が食べられていなかったのは確かだろうから、流通が整ってきて納豆が入ってきてもすぐには口に慣れなくて、その時に残った苦手意識が少なからず受け継がれているのかもしれない。それを、時代が下って、単に納豆嫌いな人が「自分は関西人だから」というのを言い訳にしているおかげで、まことしやかに「関西人=納豆嫌い」というイメージが拡散されている、というのも、声の大きな彼らにはありそうな話である。


 午前中は、出されていた第二外国語のフランス語の宿題でほとんど潰れた。ワークに載っている名詞の性を調べて、どの冠詞をつけるべきか判断するという、ごくごく初歩的な内容なのだが、このときはまだ紙の辞書しか持っていなかったから、久々にそれを使うことになって、非常に手間取ってしまった。大学生にもなって、そんなことで難儀しているというのも、情けない話である。大学受験までで、電子辞書に頼りすぎるというのは、なんだかんだであまりいいことではないようだ。と言いつつ、この一週間ほど後にはフランス語の収録された電子辞書を買ってしまうのである。


 正午を回ると、昨日買ったスポーツウェアやバレーシューズをスポーツバッグに入れて家を出た。13時から、バレーボールの同好会に体験参加することになっているのだ。集合場所は京都駅であった。市バスで集合時間より十数分前に着いたときにはまだそれらしき人は誰もいなかったから、まだとっていなかった昼食を、駅の中にあったパン屋で惣菜パンをいくつか買って済ませた。引率役の先輩は予定の時間から少し遅れて、三人の体験参加者を連れてやって来た。一人は私と同じ大学の新入生で、あとの二人は別の大学の人である。それから、活動場所の体育館へは歩きであった。その間に、体験参加の二人とそれとなく話をした。聞くと、三人の内二人は高校でバレーをやっていた経験者で、残りの一人は未経験者だが、私と同じ大学の一人の友人で、彼に誘われてやってきたらしい。


 体育館に着いてからは、だいたい三時間ほど運動した。新歓といっても、どうやら練習内容は普段と変わらないらしく、最初の一時間がレシーブやスパイクの個別練習で、残りの二時間はすべて紅白戦であった。私たち体験参加者も、それぞれどちらかのチームに分かれて試合に参加した。ここまで本格的に運動することになるとは思っていなかったから、準備不足で身体が思うように動かないことも多かったが、最低限のことはできたつもりだ。まあ、もともとバレーをしていたのは中学での三年間だけだから、そもそもの出発点が違う。ただ、先輩が評するには、私はAクイックが人より上手いそうだ。確かに、私は中学時代、センタースパイカーとして速攻攻撃ばかり練習していた。自転車の乗り方がよく引き合いに出されるが、一度身体で覚えた技術はなかなか忘れないものなのだということを改めて実感する。それに対して、入れ物である身体の変化が残酷な程であることもまた然りである。また鍛え直さないといけない。


 練習後は新歓の食事会があるということだったが、私は他に用事があったので辞退した。それと、なんとなく、この同好会の雰囲気に、自分には合わない何かが色濃く混じっているように思われて、どうにも食指が動かなかった、というのもある。こればかりは、説明のしようがなくて、ただ、私の直感である。しかし、一応言っておくと、私の直感はよく当たる。


 この同好会では、翌日も鴨川のデルタ(出町柳にある三角州)でバーベキューが予定されていたが、結局それにも行かず、これっきりになってしまった。肌合いの違いというのもあるし、何よりグリーと練習日が被っていたから。練習日が週一回のお手頃なバレーサークルはこれしかなかっただけに少々残念だが、今はやはり週一回のスポーツ実習でバレーをやって、それなりに満足している。


 バレーボール同好会の一団から離れた後は、再び京都駅からバスに乗り、来た道を逆にたどる。夕方から、今度はグリーの新歓コンパがあるのだ。みっちりバレーをしたおかげで体中ギチギチであった。その日の内に筋肉痛が来るのは若い証拠だろう、などと考えつつ、バスに揺られてコンパ会場の焼肉屋へと向かう。場所は、私の下宿のすぐ近くである。


 バスが少し遅れたせいで、私がコンパ会場に着いた時には、すでに宴会が始まっていた。先輩たちの中にはもう酔いが回っている人もいるらしく、私はやけに明るい拍手で迎えられる。新入生も、今までの練習体験で見たことがある顔と、見たことがない顔がそれぞれ半々ぐらいいた。私の座る場所は、入り口から一番近く空けてもらった。私がグリーと出会うきっかけとなった、柴田さんの横である。彼もほろ酔い気味のようで、普段から笑い上戸なのに加えて、だいぶ口数が多くなっていた。そんな柴田さんや、同じ卓を囲む先輩、新入生たちと焼き肉をつつきつつ歓談する。中でも、(これはあまり大声で言うことじゃないかもしれないが)卒団した後もちょくちょくグリーの活動に顔を出している芦名さんというOBがいるのだが、彼は「教祖」と崇め奉られるほどの所謂アニメオタクで、周りに座っている新入生に熱心に「布教」していた。男所帯にはよくあることだが、グリーにはそういう趣味の人も相当数いるのである。というか、そういう人の方が集まりやすいらしい。そういえば、私は高校時代、登山部というやはり男所帯に所属していたが、私のいた登山部はまだノーマルであったけれど、登山の競技会で毎年優勝しているような強豪校には、「大会で優勝すれば好きなだけフィギュアが買える!」というのをモチベーションに毎日山を駆けているような人がたくさんいた。ある意味で尊敬に値すると思う。ただ、今のところ、真似をしたいとは思わない。


 しばらくの後、宴もたけなわという頃になって、新歓を取り仕切っている鬼頭さんがすくっと立ち上がり、

「さてさて皆様方、宴もたけなわとなって参りましたが、ここで、新入生の皆さんの自己紹介タイムを始めたいと思います!」

 と宣言する。同時に、コンパ会場中から先輩の拍手や酔った歓声が湧き上がる。どうもグリーでは自己紹介というものを重視しているらしい。新歓期間中の練習体験の日も、練習の後には必ず、たとえ練習に顔を出すのが二回目以降でも、

柴田幹事長の「せっかく来てくれた新入生を名前も聞かずに帰すのはどうかと!」という芝居がかった鶴の一声(先輩は「茶番」と呼んでいる)で新入生は毎回自己紹介をすることになる。そして、自己紹介で名前を言うと「知ってる-!」という合いの手が飛んできて、出身地を言うと、同じ出身地の先輩がいれば、「いっしょ~!」という声が上がる。以下、このやりとりが繰り返されるわけである。何度も新歓に参加している身としては、もういいよ、と言いたくなってしまうが、しかし、このやりとりも案外楽しいものである。さすが合唱団だけあって、一体感は強い。

 で、今回の自己紹介では、普段通りの名前や出身地などといった内容に加えて、グリーの新歓に来たきっかけや、現時点でのグリーへの印象、入団確率何パーセントか、なども話すことになった。私のグリーとの出会いは、先述の通り柴田先輩、もとい幹事長との出会いである。グリーへの印象もかなり良い。これだけ楽しそうに歌っている人たちは初めて見た。それに何より、この人たちの歌声の中で、自分の声がどのように響くのか、試してみたかった。そういうわけで、もうほとんど入団は心に決めていたから、入団確率も、「99.9パーセント」と思い切った数字を宣言した。100パーセント、と言うにはまだ時期尚早な気もしていた。けれど、私は生来押しに弱い人間で、「そこをあと一声!」と先輩にぐいぐい引っ張られて、最後には、きっぱり入団を宣言してしまった。今年の新入生では入団一番乗りである。すると、先輩たちが一斉に立ち上がって、一人ひとり私と握手をし、それが終わると万歳三唱という大騒ぎになった。ここまで盛大に喜んでもらうと、かえって窮屈さも感じないではなかったが、晴れがましいのに違いはなかった。少なくとも歓迎はされているようである。

 それから、私の後に自己紹介をした何人かも、この空気に飲まれたのかもしれないが、この場で入団を決めて、その度に同じような大騒ぎが起こった。実に愉快な人たちである。


 新入生の自己紹介が終わると、お開きの時間が近くなった。そこで今度は、柴田幹事長が、「じゃあそろそろ……」と立ち上がる。もちろん、このまま終わるのではない。このグリークラブでは、あるいはこれがコンパでも一番の山場かもしれないが、宴の最後に皆で輪になって肩を組み、再愛唱歌である「琵琶湖周航の歌」を歌うのである。なぜ京都の大学で琵琶湖の歌? と思うかもしれないが、このグリークラブには琵琶湖と深い関わりがあるらしい。五月にある新歓合宿も琵琶湖のほとりで行われる。とにかく、加藤登紀子が歌って全国的に有名になったこともあるこの歌を、酔いの回った先輩たち、そして歌詞もろくに覚えていない新入生が一緒になって熱唱するのである。多少古臭いというか、昭和の香りがぷんぷんと漂ってきそうな儀式ではあるが、むしろ私はそういうのの方が好きだったりする。


 コンパが終わった後は、バレーをした筋肉痛を思い出しつつグリーの部室へ行き、狭い部屋の中で他の新入生たちと肩を寄せあって話をしたり、先輩の話を聞いたりして、翌日が日曜であることをいいことに時間を潰した。そして、いいかげん眠くなってきたところで、先輩の「部室で泊まってもいいんだぜ」などというお誘いを苦笑いでかわして、下宿へ帰った。その後の記憶はない。きっと、すぐにベッドへ飛び込んだのだろう。


 ともかく、この日も充実した一日であったと思う。










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