四月十一日 上
この日は金曜日に当たる。私にとって金曜日とは、一週間の大学生活の中で最もありがたい(要するに楽な)曜日である。授業は昼休みを挟んだ二つしか入っていないし、業後のグリーもない。それに、入っている授業も、ほとんど話を聞くだけのようなものだから、ついついぼんやりしてしまうぐらいだ。高校の時、英語の先生が金曜になると「TGIF!(Thank you God It's Friday!)」という英国流? の歓声を上げていたが、実にその気分になる。
1限目が入っていないから、朝はのんびり起きることができる。かといってもたもたしていると、家を出るときになって焦ることになる。ヒゲを剃り忘れていたり、家の鍵を閉めてから、前日履いていたジーパンのポケットに自転車の鍵が入れっぱなしになっていることに気づいたりするのはよくあることだ。そんなこんなでばたばたしていると、結局授業開始ギリギリに教室に滑りこまなくてはいけなくなる。一人暮らしの最大の敵は、案外こういうちょっとした気の緩みである。
金曜の授業で変わり種を紹介すると、京都の「看板」をテーマにした地域密着型の授業が3限目に入っている。京都はさすが千年の都なだけあって、また空襲で大きな被害のなかったこともあり、古い町家や商家が多く残っている。そうした古民家の中には、代々伝えられてきた看板を面に掲げているところも少なくない。その多くは木製で、有名な書家の文字が彫り込まれている。それらの看板がもつ美的価値に脚光を当てようというのがこの授業である。さらに、看板だけにとどまらず、京都の景観についても取り上げるらしい。そしてこの授業の一番の目玉は、そうした内容の紹介をほとんど前部担当教員が英語で行うということだ。なんでわざわざ、という気もするが、まあ、それだけ大学側も英語教育に本腰を入れているのだ。
この日は、授業のイントロダクションと、古美術商の人による書の鑑賞講座があった。
この授業でこの日の授業予定は終わりだったから、一旦下宿に戻ると、小さな鞄にタブレット端末だけ入れて、再び部屋を出た。前々から、この空き時間を利用して繁華街で買い物をしようと思っていたのだ。特に、中学の頃にやっていたバレーボールをもう一度サークルで始めようと思っていたから、そのためのスポーツ用品を新調したかった。京都には、スポーツ用品といえばここ、というような大きな店が市の中心地に一つあって、あとは小さいのがぽつぽつと散在しているようだ。大学の近くにはそういう小さいのも見つからなかったから、少々面倒だが、バスに乗って烏丸御池まで行く。
大通りを信号に何度も立ち止まりながら進んでいく間、さっき受けた授業のせいで少しその気になって、道に面した商店の看板を眺めていた。こうして町並みを見ていると、ついさっき、古い町家がたくさん残っていると書いたところではあるが、いかんせん、そういった風情も現代風の建築に追いやられて、時々不似合いな様子で佇んでいるに過ぎないことが分かる。景観の保護というのは、なかなか難しいようだ。
着いた店は、ビルの三階分程が全部スポーツ用品売り場になっているようで、確かに広い。バレーボール用品は二階だった。この日買う予定だったのは、バレーシューズとスポーツウェア数着、あとはジャージの上下である。私が選ぶと、つい黒だとか白だとかの味気ない柄のものばかりになってしまうが、最近のスポーツウェアは実にカラフルでおしゃれなものが多い。そして、ほんまかいなというような値段である。悪目立ちしない柄で、かつお値打ちなものを、と思うとなかなか見つからない。なんだかんだで、無難なものに人気があるのも確かなようだ。
そうこう時間を気にせず買うものを選んでいると、バレーシューズのサイズを確認しているときに、携帯のバイブが鳴った。なんだろうと思ってメールの送り主を見ると、思いがけない名前が出てきて、心臓が止まりそうになってしまった。
話すと長くなるが、要するに私が高校時代、叶わぬ懸想をしていた相手である。仮に吉野さんとでも呼ぼうか。端的に事の次第を書けば、私が渾身の直球を投げ込んだところをその吉野さんにフルスイングされたのだ。その大一番の後も卒業するまでぐずぐずとやっていたが、結局片想いに終わってしまった。横恋慕と言うのが正しいかもしれないが、そこら辺は少し事情が複雑である。そこまでを詳しく書く勇気はない。しかし、卒業した後には不思議な縁があったもので、私は志望していた通りこの京都の街へやって来たが、吉野さんは、そうではない形で、京都の大学に進学することになった。別に、残念だ、なんて言うつもりはない。とにかく、互い同じ街に住むことになったのだが、卒業してからはたまにメールをするぐらいで、一度も会っていなかった。
その吉野さんからいきなりメールが届いただけでもびっくりだが、そこからトントンと会う約束が成立してしまったから尚更驚きである。驚天動地、青天霹靂とはこのことである。一応断っておくが、この後の流れで何かいい雰囲気になるということはないし、今後長い目で見てもそういうことはない。一瞬私の頭に、少し前流行っていた「もしかしてだけどー」という言葉が流れたのは事実だが、あのギャグは決してその妄想が事実でないから笑えるのであって、今回の私の勘違いも実に笑うべきものである。