いつかのあの子
学校からの帰り道、数年ぶりにあの子を見かけた。
もうあの子、などという呼ばれ方をする歳ではないのは解っているが、彼を見た瞬間に 『あの子だ』と思わず呟いてしまったのだ。
工事現場でニッカポッカを着て木材を運ぶあの子は、数年前よりずっと逞しく、ずっとずっと男らしく成長していた。 思わず足を止めて見いってしまうくらいに――
7、8歳くらいだったろうか。まだお互いが小学校低学年だった頃の話だ。
私とあの子は同じ団地に住んでいた。
とは言ってもそこは大きな公団で、棟は違うし、滅多に見かけることもなければ一緒に遊ぶこともまるでなかった。
しかし、私はあの子の事を知っていた。それはあの子がこの団地で一番有名な子供だったからだ。
むしろ、住人で知らない者はいなかったのではないかと思う。
誰もがあの子の姿を目で追うほど、子供ながらに恵まれた容姿を持ってはいたが、その性格は歪んで醜いものだった。
黙っていれば美少年。しかしその口をついて出る言葉は、たとえ親切心で話しかけたとしても、『うるせぇ』『死ね』などと相手の心を深く抉るものばかり。
そんな悪態故に、誰も好き好んであの子に近付こうとはしなかった。
同じ年の頃を持つ母親たちは自分の子供に対し、絶対にあの子と仲良くなるなと釘を刺すほどだ。
そして、あの子の周りではいつだって根も葉もない悪い噂が飛び交った。
そもそも、何故あの子がそのような育ち方をしてしまったのかと言うと、それは第一にあの子の家庭環境にあったらしい。
あの子には父親がおらず、水商売をしている若い母親に育てられていたと言う。その母親というのがこれがまたどうしようもない女で――というような内容を主婦達の井戸端会議で何度か耳にしたことがある。
それは子供の世界でもそうだった。
団地には他にも子供は沢山いた。 皆それぞれ歳は若干違えどそこは小学生。一度鬼ごっこでもすれば仲良くなるのは早い。団地内を彷徨けば、大抵同じように遊び相手を探している子供を見つけることができた。
中でも敷地内の立ち入り禁止看板の向こうに底なし沼と呼ばれる深い沼があった。子供の好奇心を掻き立てるには十分の代物である。
大人の監視をかい潜り、何人かで探検へ行った時にあの子が現れたと言う。
そして『ここは俺の秘密基地だから二度と入ってくるな』と凄い形相で追い返したらしい。それからは誰も底なし沼へ近付かず、それと同時にあの子は益々孤立していった。
だから、お母さんに怒られて公園で一人泣いていた私に、あの子が話しかけてきた時は驚いた。
まだ夕方とはいえ、もうじき日が暮れる。 冬場は特にそれが早い。子供が一人で彷徨 くには十分危ない時間である。
公園の砂場にしゃがみ込んで泣いていた私は、街灯に照らされたあの子の顔を見た時、つい逃げ出そうとした。が、そうできなかったのは、足がすくんだからだった。
「こんな所で、なに泣いてるんだよ」
子供にしては随分威圧感のある声でそう尋ねてきた。言葉を放り投げるような話し方だった。
「……怒、られ、て」
まだ涙の残る瞳に、しゃっくりを上げながら私は答えると、何だそんな事か、と言いたげにあの子がふぅんと低く唸る。
触れると柔らかそうな髪の毛に、白い頬。薄い唇をきゅっと結んで終始取っ付きにくそうなしかめっ面をしている彼は泣いてい る私を見てどう思っているのだろう。ざまあみろとでも言いたいのだろうかと試行錯誤しながら再度顔を上げると、ざまあみろなんていう汚い言葉、まるで知らないかのような美しい顔をしたあの子が真っ直ぐに私を見詰めていた。
「……お前の親は?」
相変わらず威圧感があるのは、妙に彼が大人びた言葉を使っていたからだろう。普通なら『お母さんは?』などと訊くところを 『親』と言った。今まで彼が甘えることを許されなかった環境を残酷なまでに現していたように思える。
もしあの子が、周りに対して少しでも不幸で弱い子供の表情を見せて同情を買っていたら、 悪口の対象になったりはしなかったかもしれない。
私は自分を落ち着かせる為、胸で大きく深呼吸をし、そして家がある棟の方を指差した。
「……家。お母さん怒ってるから、帰れないの」
あの子は表情を変えずにまたふぅんと唸った。
私が、きみは帰らないの? と尋ねても曖昧に首を捻るだけだった。
後で聞いた話によると、あの子の家にはよく借金取りが来ていたらしい。母親はあまりに家に帰らず、昼も夜も幼いあの子ひとりで借金取りの罵倒に耐えなければな らなかったという。
そんな事を知らずに聞いてしまい、あの子は傷付いただろうかと思い返してみるけど、あの時は特に悲しい表情は見せなかったように思える。かと言って疎ましそうに顔を歪めるでもなく、ただその美しい顔で凛としていた。
「じゃあお前、暇だな。俺が勉強教えてやる」
「え!」
私の承諾も得ずに、あの子は長い木の棒で地面に何やら難しい数字を並べ始めた。
そして数字を見ながら勝手に話し出す。やっと九九を覚えたばかりの私の頭には何一つ入らなかった。
厄介なのに捕まってしまったと思いながら逃げ出すことは出来なかった。あまりにも真剣に語るあの子の俯き顔が綺麗で、そっちの方に意識を取られてしまったのだ。
しかしそうして5分も過ぎると流石に飽きてくる。傾いていた赤い夕日は、いつの間にか夜の帳へと吸い込まれようとしていた。
相も変わらずただ頷くだけの私にあの子は熱心に呪文のような数式を語り続けていた。
私なんかにこんな話をしてこの子は楽しいのかな。あーあ、こんなことならお母さんが怒り出す前に、ちゃんとおもちゃ片付ければ良かった。
漠然とそんな事を考えていると、木の棒を持つあの子の手がピタリと止まった。あの子が私の方を見ている。いや、正確には私の向こうにいる誰かを。
不思議に思い、視線の先を辿ろうと振り向けば、離れたところからこちらに向かって手を振っている女の人がいた。
(お母さんだ!)
夕飯の支度の途中なのか、腰にエプロンを巻いたままのお母さんは笑顔で私の名前を呼んだ。ご飯できたよ、早く帰っておい で、と。
お母さんが迎えに来てくれた!
思わず私の意識はそちらに取られた。
サッと立ち上がり、手を振り返す。お母さんの姿を見て安心すると、今度は胸の奥からわっと涙が溢れだした。
また泣き出した私を見てあの子は馬鹿にしてくるかもと罰が悪くなり振り返るが、良かったなと数字を語っていた時よりも落ち着いた声音でそう言った。
これでやっと帰れる。もう訳の分からない 話を聞かなくていい……。
そんな喜びと同じくらい戸惑いが生まれた。彼をひとり置いて帰ることに罪悪感を抱いたのだ。
だけど、難しい話はもう聞いていたくない。
手を振り私を待っている母親と、未だしゃがみ込み、先程まで地面に書いていた数字を木の棒でぐちゃぐちゃと消している子。
二人を交互に見つめながら、私はどうしたらいいのかすっかり困ってしまった。
「もう喧嘩は終わったか」
「え……?」
「お前の母親、迎えに来たんだろ?」
それまで饒舌に語っていた数式を何事もなかったかのように切り上げ、鉛筆代わりに使っていた木の棒を遠くへ投げたあの子。
そしてゆっくりとした動作で立ち上がり、また凛とした表情で私を見た。
私は益々どうして良いか分からず立ち尽くしていた。だってもう、日は暮れている。それに気が 付くと今度は気温までぐんと下がったように感じて身震いした。
そういえば、彼は薄いトレーナーしか着ていない。かじかんで真っ赤になった指先が震えているように見えた。
すると、どうしてかは解らないが、あの子は私の心情を読んだようだった。
「俺のことは気にするな。お前は家に帰れ」
威圧感があるのは変わらないが、今度はそれだけでなくどこか相手を気遣う声音を含んでいた。
そして私の後方へ視線を投げた。 導かれるように私もお母さんの方へ首を向けると、未だ手を振り私を呼んでいた。
私もそれに応え、おかーさーんと声を張り上げる。涙はもう乾いていた。
「……私、帰ってもいいの?」
お母さんに呼ばれている思うと、どうしても駆け寄りたい衝動に駆られ、残酷な質問をしてしまった。
だけどあの子は変わらない表情で『当たり前だろ』と軽く受け流す。
「私がお家帰ったら、ゆうとくんもお家帰る?」
どさくさに紛れ、初めてその名を呼んでみると、彼は一瞬表情を崩して黙り込んだ。初対面の子供に名前を呼ばれ驚いたのかと思ったがしかしそれは、こいつも自分の名前を知ってたのか、という落胆の表情にも見え、私は名前を呼んだことを少しだけ後悔した。
そしてあの子は黙り込んだ後『帰るよ』 と少しだけ口元を緩めて自嘲気味た笑みを浮かべた。 その小さな微笑みがあまりにも綺麗で、自分の顔が少しだけ熱を帯びたのが分かって恥ずかしくなってしまった。
「ゆうとくんがお家に帰るなら、私も帰る。さっき教えて貰ったことは……お家に帰ってお母さんと勉強するよ」
あの子はまた一瞬だけ口を閉ざした後、それはもういいと首を振った。
「お前には、まだ分からねえだろうし」
「じゃあ……大っきくなったら勉強するよ」
「覚えてたらな」
ほら、とお母さんの方を視線で促す。母はそこで初めてゆうとくんの存在に気が付き、振っていた手を下げて仰々しく頭を下げた。彼も当然それに気が付いただろうが、表情を変えるでもなく頭を下げるでもなく、景 色の一部として視界の端にその姿を捉えただけだった。
「気を付けて帰れよ」
そう言いながらも既に一歩を踏み出したゆうとくんの背中を目で追いながら
「うん、ゆうとくんもね!」
と応えた。それに頷きもしなければ、振り返りもせずに夕闇へ伸びる道をその年齢以上にしっかりと歩いて行く。私よりもずっとずっと確かなその足取りは、彼が子供ながらにいかに苦労して生き てきたのかを物語っているように思えた。
よろけても誰にも寄りかかれない。
転んでも誰も起こしてくれない。
茨の道を自分の足で、歩いていかなければならない。
私はまたあの子がひとりになるのが可哀想に思えて母の元に帰るのを躊躇した。だけどそれはあの子にとったら余計なお世話 だったかもしれない。お前なんかに心配される筋合いはないと、本当は言いたかったのかもしれない。
ゆうとくんは本当に家に帰るの? 家には誰か待ってくれてる人はいるの?
そう聞こうとしたが言葉が口元から零れ落ちるよりも先に、彼が見せたあの綺麗な微笑みが脳裏を掠めて何も言えなくなった。あの時あの子は自嘲気味に笑ったけど、あれはどういう意味だったのだろう。
少し躊躇してから、帰るよと言ったあの科白。本当は家に帰っても誰もいないのではないか。私を帰す為にああ答えざるをえなかったのだとしたら……
「あの……ゆうとくん!」
彼は闇に染まる周りの情景には目もくれず、ただ真っ直ぐ前を見据えて歩いている。離れていく背中に私は何度も呼び掛けた。最初こそそれを無視していたものの、二度三度繰り返す内に、彼は面倒臭そうに足を止めてこちらを振り返った。
「なんだよ。うるさいな」
「ごめん! でも……言い忘れたことがあって」
若干鬱陶しそうに私を見たあの子に怯んで泣きそうになってしまった。けれどあの時 『帰るよ』と言ったあの子はもっと泣きたかっただろうと自分を戒め奥歯を噛む。
そしてこちらを見つめる小さなあの子に、自分が持てるだけの精一杯の優しさを込めて、ありがとうと言った。最後に、またねと付け加え大声で叫んだ。
やはりあの子は何の反応も示さなかったが、確実に私の声は届いただろう。それだけでいい。伝わらなくても、聞こえただけでいい。
小さくなって今にも消えてしまいそうなほど遠くまで行ってしまったあの子に、絶対に聞こえないと分かってはいたけれど、もう一度ありがとうと呟いた。そして私もまた、踵を返して母の元に走って行こうとした。
自分の地面を蹴る音に紛れてあの子がこちらに向かって何か言った気がしたけれど、 振り返った時にはもう既にあの子は再び背中を向けて歩き出していた。それが私の勘違いだったのかは今でも分か らない。
小さな足を精一杯前へ前へ動かし、やっと駆け寄ってきた娘を母は大きく手を広げて 受け止めてくれた。ごめんなさい、と謝ればまた涙が溢れてしまった。しかし今度はそれを隠すことなく母に泣き ついた。こんな事であの子は私を笑ったりしないと知っていたからだ。
母の匂いがした。柔らかな身体に抱き付くと、母は私をぎゅっとその手に包んで言った。
「咲ちゃん、竹内さんちのゆうとくんと一緒だったのね」
母の声が軽い。ぱっと顔を上げると、そこには何故か嬉しそうな母の笑顔があった。
「うん!勉強教えてもらったよ!」
「そう、良かったわねぇ」
母は更に嬉しそうに声を弾ませて私の手を握った。そして二人で手を繋いだまま、家へと帰る。
「あの子、口は悪いけど本当はとっても優しい子なのよ。この前、お母さんがスー パーの袋を両手に抱えてたら、見かけたあの子が一緒に部屋の前まで持ってくれたんだから」
初耳だった。私は驚いて母を見た。どうりで嬉しそうに頬を緩ませているわけだと。
「今日もきっと、咲ちゃんがひとりでいたから放っておけなくて一緒に遊んでくれたのね」
母は、他の子のお母さん達とは違った。ちゃんとあの子を見ていた。そんな母を私は心から誇りに思い、握った手に力を込めた。
口が悪くても、態度が悪くても、人を気遣うことのできる心根の優しい子。厳しい環境故に年齢以上にしっかりと育ってしまった子。
あの子はただそれだけの、普通の子供だったのだ。虚勢も乱暴な言葉もそれら全て、あの子が見せる精一杯の健気さだと誰が気付いただろう。
(また会ったら……今度は私から声をかけよう)
しかしあれ以来、私があの子に会うことはなかった。あの子は一週間も経たないうちに、団地から引っ越してしまったのだ。
借金取りに追われて夜逃げをしたやら、母親が男と逃げたから施設に預けられたなどという下世話な噂が暫くは飛び交ったが、どれも信憑性はない故ひと月も過ぎると風化していった。
そして、あの底なし沼にはまた子供達が出入りするようになった。しかしその内のひとりが足を滑らせ沼に落ちたことで、団地ではちょっとした事故として扱われた。 誰かはそれを『あの子の呪い』だと言ったけど、私は違うと思った。 今まであの子がみんなを底なし沼に近付けようとしなかったから、誰も事故を起こさずに済んでいたのだ――。
そして今、15か16に成長したあの子が、私の目の前で汗を流して働いている。汚れた作業着に、首には真っ白なタオルを巻いて。
何年も会っていなかったのに、あの子の存在すら記憶の片隅にしかなかったのに、彼の姿を見た途端に私はあの子だと確信した。間違う筈がない。初めて話したあの時よりもずっと前から、私はあの子の姿を目で追っていたのだから。
蘇ってきた記憶を辿り、あの子の綺麗な笑顔を思い浮かべて目の前の彼と照らし合わせる。寸分の狂いもなくそれはピタリと当てはまった。
彼は同じ作業着を着た仲間達と、時折談笑を交えながら木材や土を運んでいる。
今、家には彼の帰りを待っている誰かがいるだろうか。仕事で疲れた彼を温かく迎えてくれる人がいるだろうか。そうだといいな。
私はすっかり彼に魅せられ、動けずに立ち尽くした。肩にかけた学生鞄のストラップが風に揺れる。
あの時と同じ真っ赤な夕日が、どこからかやってきた闇と溶け合おうとしている。沢山の人が行き交う交差点の一角で、私は逞しくなったあの子の姿を目に焼き付けようとした。
すると、ふいに向こう側にいるあの子がこちらを見る。
すると、ふいにあの子がこちらを見た。鼓動が早くなった。確かに今、視線が合っている。感情を表に出すことをしなかったあの頃のあの子と同じ、凛とした瞳に射抜かれ硬直するが、数秒も経たないうちに彼は視線を元に戻してしまった。
私は途端に泣きたくなった。それはあの子と視線が合ったからではなく、またその視線をそらされたからでもない。目頭が熱くなり、心臓が圧迫され、喉の下がぎゅーぎゅーと締め付けられた。
あの子は生きていた。 こんなにも、力強く、人の輪の中で。
胸のなかに温かい何かがじんわりと広がっていくのを感じる。鞄の柄を無意識にぎゅっと握り締めていた。
あの子からすればそんな私の感情はお節介にも程があるが、あの子がたった一度だけ見せた綺麗で悲しい笑顔が脳裏に焼き付いて離れないのだから仕方がない。
勇気を出して一歩を踏み出し近くまで歩み寄る。体の周りを砂埃が舞った。
突然近づいてきた女子高生をあの子は…… 彼は不審そうに見上げながら威圧感のある声を出した。
「何ですか」
「……あの、私」
「……」
「ゆうと、くん……ですよね」
「え? はぁ……」
警戒の色を強めた彼を前にぐっと言葉が詰まった。彼は私のことなんて覚えていなかった。当然、といえば当然だ。後にも先にも、話したのはあれだけだったのだから。
夕日に照らされて彼の汗がきらりと光る。そして強い瞳に見詰められて一瞬目眩を覚えた。
あの、ともう一度声をかけるより先に彼は言う。
「ここ危ない。退いて」
反射的に、ごめんなさいと消え入るような声で応ると、彼は何か言いたげにじっと見据えてきた。しかし言葉を発する気配はない。
私は一体、何を期待していたのだろう。
やはりあの子にとってはとるに足らない記憶だったのかという恥ずかしさから、くるりと背中を向けて急いで交差点の方へ戻ろうとした。
工事現場から数メートル離れた時、すかさず追ってきたのは、背中にかかる彼の、あの子の、ゆうとくんの、声。
「俺の話はつまらなかっただろう」
私はもう既に瞳いっぱいに溜まっている涙を拭うこともせずに振り返った。そんなこと、ないよ、と震える声で答える。
「そうか? あんな話、黙って聞いてくれたのはあんただけだった」
木材が積み上げられる音に混じって、ありがとうと彼は言った。
お礼を言いたいのは私の方なのに。そして失礼な誤解をしていたことや、本当はつまらなかった勉強のこと。幼さ故に放ってしまった残酷な言葉をまとめて全部謝りたかったのに、言葉が喉につかえてなかなか出てこない。
「決めて、たから……」
「なにを」
「また会ったら、今度は私から、声を、かけるって」
「……」
私を見て少しだけ笑みを零すと、彼はまた何事もなかったかのように作業に戻っていった。あの日と同じ、しっかりとした足取りで。
私はまたその姿を少しの間見送ってから、地面を踏みしめ力強く一歩足を踏み出した。彼とは逆の方向へ。
そして思ったのだ。あの時、地面を蹴る音に紛れて消えて入ったあの子の言葉はきっと『ありがとう』だったんだな、と。
いつかのあの子
(夕日は今にも、西へ堕ちる)