不安と和解と新たな決意
酷く呼吸が儘ならない。
大火が酸素を奪うせいか、それとも江戸を覆う様に漂う禍々しい妖気のせいか。
「一応、鬼には耐性が備わっているんだが…。どうにも意識が遠くなる。そっちは大丈夫か?」
「一応術で守ってはいるが、この妖気、一般の奴らが吸うと面倒な事になるぞ。鬼に対する幻覚作用が植えつけられるみたいだ」
訝しげに聞いている椿を余所に、靖正は真っ白な札を高く掲げた。
札は直ぐにどす黒く染まる。かと思えば、次には塵になっていた。
「これだけ濃い妖気は、人の感性をおかしくする。普通の人間が何の対策も無しにこれを吸えば…、個人差はあるだろうが、発狂したり、異常な恐怖心に苛まれたり、もしかしたら辻斬りとかになってもおかしくないぞ」
「つまりは、誰の心の中に必ずしもある負の感情、または性質をこの妖気は表へさらけ出す訳だ。
…………。」
いきなり黙り込んだ椿に、靖正が眉をひそめる。
「行き成りどうした?」
「いや…、人間の負の感情とか性質をさらけ出す妖気なんだろ?
しかも、何の対策もしてない一般人が吸いこんだらかなり危ないっていう…」
遠回しな言い方に、靖正はイライラしながら先を促した。
「だから、どうしたって言うんだ!?」
椿は少し困った様に頭を掻いた。額には冷や汗が流れている。
ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと言った。
「泰光…、何の対策もしていない、唯の一般人だぞ?」
「あっ……」
思わず、柏手を打つ。
「それとも、修行で何か身につけたりしたのか?」
「…それに関しては、何の才も無かったんだ」
「そうか…」
二人の間に奇妙な沈黙が流れた。
その間にも、凄まじい音が絶えず響いている。
上では何やら剣が交わる音が聞こえるし、聞こうとせずとも巨神の指先から光線の放たれる音、爆発音が耳に入る。時に気味の悪い鳴き声が聞こえ、背筋が凍る思いだった。
「まぁ、満ちゃんがいるし…。何とかなるだろ。今は、こいつを倒すことだけに集中しようか」
出した結論、現実逃避。大人げない回答である。
「そ、それもそうだな…。そうしよう…」
やや引き攣った笑みを浮かべながら、二人は巨大な敵に向き直る。
椿は懐から桃太郎に貰った銃ではない別の銃を取りだした。
彼から貰った銃とは大きさや、操作の仕方が少し違い、威力重視の代物である。
だが、これを使いこなすには流石に片腕だけでは無理だろう。
ずっしりとした重さが腕にのしかかる。
ちらりと空から降って来た『片腕』を見た。
「さて…、これが効くかどうか」
弟と姉が異国で手に入れた土産。
使うことは一生無いと思っていたが、思わぬところで役に立ちそうだ。
「靖正、鬼退治のの算段と行こうじゃないか」
一方、上空では…。
絶え間ない光線の嵐と、私闘が繰り広げられていた。
「全く、何だその気味の悪い生物は。
尾は蛇、胴は虎か?顔は赤いから猿だな。…嫌な鳴き声だ」
顔をしかめながらも、雅は刀を握り直す。
「『鵺』。平安には、この鳴き声が聞こえるや祈祷を捧げていたもんだ。凶鳥なんて呼ばれていたぞ。
といっても、この刀に宿るのはそれを形作った刀匠の概念、また、斬られた奴らの思念に過ぎない。
つまりは本物ではない。だが、良く出来ているだろう?」
「…随分、物知り何だな。桃も、あんたも」
「『無知ほど愚かで罪深きものは無い』。そう、思わんか。我はそう思う。
だからお前は我が息子に劣る失敗作だ。
妖刀とは、二種類の成り方がある。
一般に刀とは三人斬れれば上等。安物は直ぐに人の油で切れ味が鈍る。
だが、戦においてはそれでは困る。だが、まだ火縄銃が伝来されていない時、槍や刀、矢しかない。
それは仕方のないことだ。だから今は少なくとも二本は腰に差すだろう?
斬る、そして斬られる。斬られた方も斬る方もそこに恨み、憎しみその他色々な感情がある。
例え錆び、折れた刀でもその血肉に宿る感情を必ずも吸う。
力を十分に蓄えた刀は、もう錆びはせず、錆びがあろうとも切れ味は抜群に良く、『契』を交わした主が死ぬまで折れはしない」
「確かに、自らの血を剣に浸す事が『契』の条件。だが、白欄は代々継がれてきた刀だ」
「血を浸すも良し。だが、血だけでは綻びが生じる。そう、その寄生主の魂を吸い尽してしまうからだ。だから初代『雅』は自らの魂を代償とし、強大な力を手に入れた。
妖刀に白など存在しない。鴉の様に黒や赤が普通なのだ。その儚い白い色は、代々『雅』の魂を吸ってこその輝き。生命の脆さにして儚さ。
対価は何でもいい。しかし、魂を喰われない為には大きな代償が必要だ。
ある者は己の心臓を。ある者は血の繋がった子を。ある者は感情をな」
何処か悲しそうに王は呟く。
「力を手に入れた所で、目的がなければ意味が無い」
「お前、先程先代とか何やら言っていたがどういう意味だ」
その問いに呆れた様に溜息を吐いた。
そして、しっかりと雅を見据える。
「我もまた『雅』であり、お前も『雅』であるということだ。
我が初代『雅』は妖刀を手にした。しかし、その妖刀は対価が大きくなければ妖刀としての力を発揮しない刀だった。初代は自らの心臓を差し出した。だが、妖刀はまだ何の力も示さない。
次に親戚、家族、妻、子供…たくさん殺した。これが『同族殺し』の始まりだった。だが、妖刀は力を示さない。次に目を付けたのが陰陽術だった。
彼はそれで自らの魂を分裂させ、増殖させた。中には何の記憶ももたない赤子の様な『雅』も生まれた。彼はそれを『失敗作』と呼び、処分した。そして初代の魂は妖刀の糧となった。
だが、妖刀が力を発揮したところで何の意味がある?別に世界をどうこうしたわけでもなければ、斬り殺したい相手が居る訳でもない。ただ、見てみたかった。それだけだ。だが、当の本人は既に故人と化した。跳んだ茶番だ。だが、尚も『雅』は『分裂』と『増殖』を繰り返す。
何故か?初代の意思を色濃く継いだ核の存在が居るからだ。…もう、何の目的も無いのに繰り返す。
在りもしない幻を得るために、同じ記憶、名前を継いで」
「お前がその核か?」
雅の発言に王は鼻で笑う。
嘲笑うかのような皮肉に満ちた笑みだった。
「我が、核?もしもそうならお前の様な失敗作はとっくのとうに殺している。
『核』は死んだ。否、殺されたのだ。実に痛快に。あれ程喜ばしいことはない。
そして、お前ほど愚かしいものはいない」
「お前が慕い、愛していた姉こそが我らが魂の中心『核』なのだから」
「姉さんは女だぞ」
雅が至って真面目に答えると、王はふぅ…と溜息を吐いた。
その馬鹿にした感じが実に桃太郎そっくりだ。
「『核』とて、我らと同じである。人より長い年月であるにしろ、当然寿命が来る訳だ。
何台も繰り返していると、性別も異なることがあり、我の様に独立した考えを持つようになる。
長年の時に留まり続ける者など在りはしない。誰しも徐々に進化していくのだ。
当時の『核』はお前の傍に居た女だった。そして我が生まれ、たくさんの『雅』が生まれた。
我は昔からこの考えを持ち合わせていた為に、生まれてくる雅を消した。
そして、最後に残ったのがお前だ。
『核』とて、そう何度も『分裂』と『増殖』を繰り返せない。残った『雅』は我とお前の二人。
失敗作を生かし、育てる姿は実に惨めで面白いものだったぞ。
そして、あの事件が起きた」
思いだすかのように、王は静かに目を閉じた。
鬼ヶ島が沈む前数年前の事だろう。それしか、事件らしい事件は無い。
「『核』とある男の策によりあの事件は起こった。
何にせよ、あの事件は二人が故意に起こしたもの。俺を恨むのはお門違いだ。
そいつと『核』は、ある結論を出した。増やせないのであれば、別の方法をもって作ればいい」
その発言に毛が逆立つのを感じた。
「それが…、桃太郎なのか」
「あぁ、そうだ」
剣が交差する。
酷く、腹だ出しい事だった。
それを冷めた目で王は見た。
「我と『核』の子供。だが、お前と同等の『失敗作』だった」
鈍い音が響き、火花が散る。
「あの子は、『失敗作』なんかじゃない」
怒気を含めてそう言うと、王はこくりと頷いた。
「あぁ。周りがどう言おうと、あの子は私の子だ。失敗作でも、成功作でも何でもいい。私の子だ」
いつの間にか、我から私に変わっている。
桃太郎と話している時もそうだったから、恐らくは警戒している時だけ我なのだろう。
何だか、酷く疲れた。
この親馬鹿を斬る気にもなれない。
「お前、本当に王か?」
「仮初の、な。王として振舞うだけで良い。それが今の私に出来る唯一の事だから。それであの子を守れるなら何だってやるさ」
「やり過ぎだろう。腕とか、目を抉るなよ」
「…そういう命令が下ったからそうしたまで。私とて、好きでやっている訳ではない。
あの子も分かってて、振舞ってくれているんだ。これでも何度か文通はしている」
雅はふと、考える。
完全に和解していないか?と。
このとてつもない話が嘘だとは言い難く、実に信憑性の高い話だった。
「あの子を止めに来たんだが、お前が邪魔をするから行ってしまったじゃないか」
「桃は何処に行こうとしているんだ?」
「鬼ヶ島を取り囲むように浮かぶ、四つの島。
東に青竜、南に朱雀、北に玄亀、西に白虎。それぞれを祀る無尽の祠が建っている。
その祠の中に奉られている玉を鬼ヶ島の中心にある祠へ祀る。…対価と引き換えに島を沈める為に」
****
北風が長い髪を揺らす。
曇天の空で、凍てつく様な寒さが感覚を麻痺させた。
鬼ヶ島を避ける様に遠回りしながら、北に位置する無人島へと向かっていた。
「今回もやっぱり動かないな。生えてくる意味あるのか」
『鬼になれば動くさ。嫌でもな』
突風が吹く。少し、生ぬるい風だった。
「あぁ…。そうみたいだ。指だけ、動く様になったよ」
声色はいつもと変わらない。だが、鴉には彼がどんな表情を浮かべているか脳裏に鮮明に浮かんだ。
きっと皮肉げな笑みを浮かべて、何処か諦めたように新しい腕を見つめているに違いない。
ジャキッ…と何かを断つ軽い音が聞こえ、鴉は止まった。
「大丈夫だ。髪を切っただけだ。少し、鬱陶しかったから。前髪は無理だけど」
何度か小刻みにそんな音が聞こえ、やがて止んだ。
北の島が見え始め、そこへ着地する。
鴉は、桃太郎を降ろした後、人の姿になった。
「なぁ、桃。お前、対価は払えるのか」
「『対価』か…。どちらかというと選択だな。これからを決める為の。
だから、後悔しない。…鴉、私は命ある限り生き続けたい。そう思う」
何処か嬉しさを含んだ声で、桃太郎は言った。
「それで、良いんだな?後戻りは出来ないぞ」
「あぁ。大丈夫だ」
「満と敵対することになってもか?」
少しの間、沈黙が流れた。
「あぁ。少なくとも満さんとは敵対しないと思うから」
苦笑しながら桃太郎は言った。
もう何を言っても、変える気は無いらしい。
「なぁ、桃」
だけど、それで本当にいいのかと。そう思うのだ。
「ん?」
「人になれば…、満とも暮らせるぞ。何のしがらみ無く、失敗作としてでもなく、唯の人として暮らせるんだ。誰かを傷つけることも無ければ、傷付くことも無い。きっと…」
「…幸せになれるだろうね。少なくとも、満さんと結ばれれば。いろんな所行ったり、子供とかも出来てさ、嫁入りとかは泣いて惜しんだりして、…二人だけで暮らして、年とって、有り難うって言いながら、お互い死んで行くのも悪くないとは思う。むしろ素敵だし、そういう話は嫌いじゃない。憧れるさ」
「なら……」
ふと、桃太郎が立ち止まる。
そして、鴉の顔をじっと見た。
「誰しも、寿命ってあるだろう?鬼も人も…妖怪は違うかもしれないけど。
本当に、素敵な事だよ。多分、本当に幸せだと感じると思う。
誰だって好きな人には死なれたくないだろ?さっき言ったみたいに、二人で同時に死ねるなら別だけど、そうじゃない。
鴉、私の人としての寿命は、同じ人の寿命である白鬼よりもずっと短い。
身体の調子がおかしいのは、鬼化のせいだけでは無いんだ。元から病弱だから、いつ死んでもおかしくない。…もしも、人に戻って暮らせたとして、私は幸せな思いで死ねるかもしれない。
けど、満さんは生きているだろ?一人は寂しいからさ、そんな思いをしてほしくない。」
清々しい表情で桃太郎は言う。
その瞳は赤く、頭からは角が生え始める。
「『黒鬼』として、生きていくことに決めたんだ」