江戸の大火
江戸は、大火に見舞われた。
闇に傾くその町を、赤々とした火の粉が飛び交う。
それを拒むかの様に、しんしんと雪は降り続いていた。天を仰げば、誰もがその光景に息を呑むことだろう。その様は美しく、時に荒々しく、妖しいものだが、誰一人として空を仰ぐ者はいない。例え眼中に入っていようと気に留める余裕は無いようで、切羽詰まった表情で彼等の前に立つ巨神に挑んでいた。
「銃や刀でも歯が立たないか。王家は良くこんな化物を封印出来たな」
雅が引き攣った笑みを浮かべ、刀を握り直す。
「…にしても、人が見当たらない。靖正、何かしたのか?」
椿はそう言った後、流れるような手捌きとは遥かに言い難い危なっかしい手つきで口やら何やらを器用に使いながら銃に弾を込める。
「星巫女様や先輩方が人払いの術を江戸全体に掛けてある。江戸の人々は恐らく狭霧殿に避難しているだろう。…それにしても札も効果があまり無いな。蚊に刺された程度だ」
靖正が札を放つ。巨神に当たるとそれは直ぐに燃え尽きてしまった。
巨神はそんな彼等の攻撃を気にする素振りなく、民家を破壊しながら進んでいる。
しかし、札が気に障った様で、赤黒い眼が三人を捉えた。
シュウウウ…と空気を吸い込む音が聞こえて来る。
「おいおい、さっきの咆哮より危ないの来るんじゃないか?」
「余程、弱々しいにしろ効果のある札が気に食わなかったんだな」
靖正と椿がそんなことを話していると、巨神を観察していた雅が一歩退いた。
「あぁ。確かに気に食わなかった様だな。
このままじゃ塵に還るぞ。見ろ」
巨神の大きな口の中に赤い光がちらついている。
それは空気が吸い込まれていく程小さく収縮し、飴玉くらいまで縮んでいた。
「よし、逃げるぞ」
椿は軽く頷くと、銃を懐に仕舞った。
そして靖正の首根っこを掴むと一気に地を蹴り、真横へ跳んだ。
二人が左右の真横へ退いた時、光線が放たれる。
凄まじい熱気が辺りを覆うと共に、一直線の血の様な赤黒い光線は真っ直ぐに伸び、そこいらに建っていた民家を塵へと還した。
そんな悪戦苦闘する三人の姿を桃太郎は上から見下ろしていた。
「この妖気…、いつかの自称神か。父上が天誅下したみたいだが、止めを刺しそびれた様だな。
…これが成れの果てか。哀れだな」
「『哀れ』か。お前が言えた義理か?」
その声に臆することなく桃太郎は静かに振り向いた。
「久しぶりですね。父様」
そこには鳥とも蛇とも違う良く分からない怪物に乗った王家の頂点に立つ男がいた。
彼こそが桃太郎の実の血の繋がった父親であり、彼が父親の血を濃く継いだことは一目見ただけで分かるだろう。
「あれは少しはマシな出来だが、やはり失敗作に変わりない。邪魔だったから封印しておいたが、島原の件でお前にちょっかい出すのに丁度良い素材だから解いてやったが、色無に手傷を負わされ、後に俺紛いの奴に不様に殺されかけた。
お前より出来の良い鬼でありながら、お前より不様で滑稽で愚鈍。
…生き恥晒しという点ではお前と同等か。
まぁ、時間稼ぎには丁度良い素材だから生かしたまでだ」
「…そうですか。飽きたら殺す。貴方らしい子供染みた発想です。憂さ晴らし出来たなら結構で」
売り言葉に買い言葉。
どちらも遊びでは無く、本気である。
「『生き恥晒し』ですか。結構ですよ。本当の事ですから。ですが、貴方の方が生き恥を晒している」
ぴくりと王の手が反応する桃太郎はそこまで言って、深く息を吐く。
親に刃向かう。
それが我が主にとって、それが如何に恐ろしく、勇気の要ることか。
夜を震わす静かな声色で、彼は言い放つ。
「己が罪を弁えろ」
ひゅっ…。
ぶしゅっ!
二つの音が数秒ズレて聞こえた。
少なくとも桃太郎には、その二つの音しか耳に届かなかった。
空を斬る音がした。
後の一つは分からなかったが、前の一つは確実に分かった。
思考がその音の正体を探ろうと回転する。
だから目の前に立つ父の姿など彼の眼中には入らない。
『馬鹿っ!さっさと逃げろっ!』
「え」
思考が遮断され、現実に引き戻される。
次の瞬間、鋭い痛みが走った。
何処に?
右目が、見えない。
何かが頬を伝う。
涙か?
否、そんな筈は無い。
手でそれを確認しようとした。
動かない。
何故?
足が何かに当たった。
左目でそれを確認する。
手が、在った。
左手で頬を拭う。
その手は血で汚れていた。
目が自然と父の手元へと向かう。
目が合った。
目が在った。
「……っ!」
吐き気を必死に堪える。
それを冷ややかな目で見下しながら、液体に満たされた小瓶を懐から取り出す。蓋を開け、くり抜いた目をその中へ入れた。
ちゃぽんっ…と水の跳ねる音が微かに聞こえた。
小瓶を大切そうにゆっくりとした動作で懐に戻すと、黒い血に濡れた白銀の刀を二三度振った。
「中途半端な紛いにはお似合いの姿じゃないか」
そう言って、切り落とした右腕を蹴り飛ばす。
切り離された右腕は真っ逆さまに大火の中へと吸い込まれていく。
「鴉、急ぐぞ。北だ」
『大丈夫か…?』
王は何も言わずニヤニヤと笑いながらその様子を見ている。
「今更何を失おうと大したことはない。
父様。用が無いなら鬼ヶ島なり、何処へなりとっとと消え失せなさい」
「生憎、お前が思うほど暇ではない。…『鵺』」
自らの妖刀の名を呼ぶと、白銀の刀が灰色の光を放つそれは先程のよく分からない怪物の姿になった。
王は鵺に飛び乗ると、少しだけ離れた。
「…妖陽、やれ」
静かに言い放つ。
何かの気配が桃太郎を捉えた。
「何だ?巨神の動きが止まった…。一体、何を見ているんだ?」
椿がいくら目を凝らしても何も見えない。
空の黒と、火の赤と、雪の白。
それらの色が互いに混じり合い、時にせめぎ合う。
互いが主張し、調和する。
「素直に感銘を受ける風景だが、状況が状況故に無理だな」
苦笑しつつ、そんなことをぼやいていると、ドサッと何かが落ちてきて土埃がたった。
雅がそれを覗き込む。
そして、彼の思考が結論へと至った時、彼も同じ様に一点の方を見上げた。
その表情は怒気に満ちている。
「後は頼んだぞ」
低い声でそう呟くと、白鴉に乗り、空へ舞い上がる。
「っおい!…一体、どうしたんだ。その腕がどうかしたのか?」
靖正が落ちてきたそれを持ち上げる。
血が通っていないかと思わせる程に真っ白で、折れそうな程に細い。
黒衣がそれを一層際立たせていた。
「全く、何をやってるんだか…」
その声と同時に巨神が何かを指差す。
その指から先程と同じ光線が発射された。
「鴉、避けられるか?」
赤黒い光線が真横を掠める『避けられるが…、片腕じゃ、きついぞ。アレがそう簡単に逃がすとは思えんし…』
ちらりと王の姿を見た。
何かを仕掛けて来る様子は無いが、鴉の言う通りそう簡単に逃がしてくれるとは思えない。
そして、巨神が放つ光線もこの状態だと避けるのは難しい。
「この馬鹿息子がっ!」
右から何かが飛び出す。
頬に痛みが走った。
殴られたと気付くのに暫く掛かった。
「父上…、いきなり何て事するんですか」
胸倉を掴まれ、揺すられる「何故、一人で何でもやろうとするっ!?
何故、誰にも頼らない!?周りがどれ程心配してると思ってるんだ!」
聞きましたか、父様。
貴方が創り出したもう一つの『失敗作』は、ちゃんと貴方の願い通りの役割を果たしていますよ。
「…それは、すみませんでした。然しながら父上。
たまには、信じて待ってみては如何です?」
「こっちが何度待ったと思ってるんだ!?親が子を心配するのは当たり前の事だろう!
…何だ、その間抜けな面は」
「いえ…、何でも。後は頼みましたよ。父上」
そして思い出した様に、王の方を見た。
「さっきの発言は、撤回します。ごめんなさい、父様。今度甘いものでもおごりましょう」
「馬鹿が…」
呆れ返った様に王は呟く。そして、脇差しを引き抜いた。
それを一瞥すると、静かに目を閉じた。
「鴉、行くぞ」
『あぁ』
どこか嬉しそうな、照れを隠しきれていない場違いな表情を浮かべ、桃太郎は北の空へと向かって行った。