思考と思惑
「ひっく…、うぅ…」
『満ぅ~、どうした?そんなに泣いて…。怖い夢でも見たか?』
あやす様に夜一が小さな翼をパタパタと揺らしながら辺りを飛ぶ。
「月明かりの無い夜は、悪夢を見やすいわ。ほら、泣きやんで」
いつのまにか星巫女が側によって優しく頭を撫でてくれた。
仄かに梅の香りがする。服に炊きしめているのだろう。
「ちが、違うんです…。悪夢じゃ、なくて…。も、もしかしたら、そうかもしれないけど…。
夢に、幼い桃太郎出て来て、か、可哀想です…。あ、あんまりじゃありませんか…」
星巫女は驚いた様に目を瞬かせていたが、次には少しだけ口元を緩めた。
「そう…。夢で、幼い桃を見たのね…?」
「うっ…、うぅ…。何度も、何度も、刺されて、傷付いて…。倒れて、また起き上がって…。
うわぁぁぁん!!」
星巫女は満を抱き寄せると、静かに言い聞かす。
「姫巫女もね、昔、同じ夢を見たの…。桃がたくさんの人達に囲まれて、傷付き、倒れながらも助けようと手を伸ばす…。最後は桃が村人全員喰ってお終い。そんな夢。
満は、本当に桃が好きなのね…。大丈夫、それはただの夢だから。もう、過ぎ去った過去だから…。
ねぇ、満。貴女なら、桃を救えるかもしれない。本当の意味で…。
もし、余裕があるのなら、明日の早朝地下に来て頂戴。貴女なら、桃を救えるわ」
「星巫女さまは、その夢、見なかったんですか?」
ふふっと、星巫女は苦笑いを浮かべる。
そして遠くを見つめた。
「あの子は、私の恋敵だから。それ以上でも、それ以下でもない。ただ、それだけ」
そう言って星巫女はもう一度満の頭を優しく撫でる。
そのぬくもりに触れ安心しきったのか、すぐに寝入ってしまった。
「ほら、欠伸しないっ!さっさと、始めるわよっ!」
倫の頭から二本の角が生え、赤い唇からは二本の小さな牙が覗く。
「はいっ!」
へこたれている暇も、くよくよしている暇も無い。
今は、ただ前へ進むのみ。
守られる側から、護る側へ。
倫との修行は、鬼の力を使いこなせるようになることが目的。
「行きますっ!」
満の頭から二本の小さな角が生え、瞳は金色に光る。普通の鬼と何も変わらない姿である。
岩を蹴り、拳を握る。
倫はそれを避け、鳥居の上に飛び移る。
満の拳は目の前の岩を見事に砕いた。
「段々とだけれど、使いこなせるようになってきているわね。物覚えが早いのは助かるわ」
『やけに嬉しそうじゃねぇか。良いことでもあったか?』
地下の修行場から少し離れた大きな鳥居の上に、星巫女と夜一が立っていた。
「えぇ。やっと教えがいのある子が見つかったから。本当にすごいのよ、満は」
ふーんと早朝の修行を見ていない夜一はつまらなそうに欠伸を一つ。
「それにしても、神の使いだけあるわね。人型になれたなんて」
『こう見えても、意外にやる男だぜ。俺は。と言っても、白鬼の力に影響されているからだろうが』
「きゃっ!」
ボチャンッと水の中に落ちる音が聞こえて、そちらに目を向ける。
「うぅ…、またやってしまいました。どうにも、まだ慣れないんですよね…」
「ほら、早く立つっ!いつまで浸かっているつもり!?」
妖気を足元に集め、足場を作る。集中力が切れると足場が崩れ落ちてしまうのだ。
忍者になったような気分だが、そんな悠長な事を言っている余裕はない。
木刀を構える。
神気が満ちたこの場所の力を借り、この拳に神気を宿し自分の持つ妖気と混ぜ合わせる。
まだその段階には至らないが、気を拳に集める。
「行きますっ!はぁっ!」
気合の入った掛け声一つ。地下に木霊する。
時は少し遡り、早朝。
『戒めの洞窟』の奥深く。
ゴポッ…。
さっきまで呼吸が出来ていたというのに、いきなりその液体は水へと変化し奥深くに入って来る。
泳げなくはあるが、鉄鎚ではない。ただ、上へともがく。だが、身体は意に反し底へと沈む。
光が差し込み、幻想的な青を彩る美しい湖。
その水は鉛の様に重く、意思を持ったかのように身体にまとわりついて来る。
足元から影が伸びる。
それはゆらゆらと水中に揺れて、人の形を形成する。
そこに光が差し込み、有り得ない幻を魅せる。
徐々にそれは肌色に変わり、艶やかな漆黒の長い髪を揺らせ、触れた手の温もりさえ伝わって来る。
「かあ、さま…?」
母は、優しい笑みを浮かべて頬に触れた。
その手は温かく柔らかい。
記憶をそのまま復元させたかのような、まだ若々しい母親の手は頬から首へと移る。
もう片方の手が添えられ、力が込められる。
「っ!!…ごぼっ!」
水が開いた口から侵入してくる。
それだけで意識が遠退いた。
底が見え始めると同時に、底からも黒い影が此方へ向かって来た。
それはやはり姿を変え、今は亡き人々が姿を現す。
桃…
複数の声がそう呼んだ。
それは姫巫女の声であり、尚吾の声であり、神無の声であり、母の声で…。
幻だと分かっていても、笑顔を浮かべ自分に微笑みかけてくれるその人たちをどうにかする術は無く。
意識はおぼろげで、身体は深淵へと引きずり込まれる。
「桃っ…!」
誰かがそう呼んだ。
真っ白な温かい光が身体を包む。
抱かれているのだと気付くのにしばらく時間が掛かった。
白い光は姿を変え、満になった。
だが、その顔は涙で赤く腫れ、くしゃくしゃである。
「ぷっ…。くくっ…、何です、か。その顔…。お嫁にいけ、ませんよ…」
あぁ、わざわざそんな顔で、御魂を飛ばして来なくても。
けど、黒い影は消えた。呼吸も楽だし、何より水が入って来ない。
「…満さんの魂は、とてもあたたかいですね」
意識が薄れて行く。
おぼろげな意識の中、彼女が微笑んだような気がした。
誰かが手を掴む。
そのまま上へ引っ張られた。
「げほっ!ごほっ!…し、師匠?」
「けほっ…。全く、泳げない癖に何でこんな修行に挑むんだか。危なかったんだからな、本当に」
岸には雅が立っていて、すぐに手を伸ばし引き上げてもらった。
「この湖。ただの湖ではなく、黄泉に通ずる道の様だ。『井戸』の様に狭間を繋ぐ場所とでも言おうか。
だが、いくらか達が悪く、死者が湖の中を漂って修行に来る者の生気を吸い取ったりしてるみたいだな。この湖の水を一滴でも飲めばもれなく死者の仲間入りだ」
「げほっ!…そういえば父上、泳げませんでしたよね。だから、師匠に泳がせたんですか?」
「ほっとけ」
「いきなり呼ばれたからなんだと思いきや、泳げなかったから呼んだのか」
やや不服そうに椿が言う。
「…煩い。違う。とにかく黙れ。
この寺、どうにもおかしいとは思わないか。此処の僧にしても、夷隅様にしても何かズレを感じる」
「父上は、黒鬼じゃないのにそういうことには敏感ですよね。黒鬼の能力紛いも使えますし、私より待遇いいじゃないですか」
むぅ…と子供の様に頬を膨らます桃太郎の頬を叩いてしぼませると、軽く溜息を吐く。
「お前の方が苦労してるし、力もある。単に使いこなせてないだけだ。ほら、戻るぞ」
「……あ。」
桃太郎が思い出したように柏手を打ち、失望したような声を上げる。
「どうした?」
「修行失敗したので、何も得られなかったと思いまして…」
残念そうに溜息を吐く。
だが、それを微塵にも感じさせない能面の様な表情が浮かんでいる。
「「……。」」
「どうかしましたか?二人揃って」
「いや、何でもない。戻ろう」
雅がそう言って、すたすたと先を歩く。
椿も腑に落ちないような表情でこちらを見ながら、雅の後に続いた。
ぽつんと一人残された桃太郎は苦笑を浮かべて、自らの頬を軽く抓った。
「ついに演技まで滞る様になるとは。全く…この先、どうなることやら…」
抓った頬は内出血を起こしていた。
しかし、痛みも何も感じない為、それを知るよしもない。
もしも完全な化物になったら。
痛みを知らない化物は破壊の限りを尽くし、その手を血に染める。
大切な物、全てを壊しながら。
「…その割には、全然そういう予兆みたいなの無いんですよね。けど、星巫女様が先見したんで外れるわけないか…。
しかし、満さん才能ありますね。もうあの段階まで行くとは。後でお礼の文でも送りましょう」
ふと、掌に視線が行く。
掌が赤く染まって、ぽたりぽたりと血が滴る。
だが、瞬きを二三度している内に唯の水滴だと分かり、苦笑しつつも服で拭う。
どうやら、全く無いわけではないらしい。
「おーい、置いて行くぞ」
「あっ、待って下さいよ」
もし、そんなことが起こりうるとするならば。
大切な物を壊すくらいなら。
「自害する覚悟は出来ている」
ぽつりと呟くと、椿が何か言ったかと聞いてきたので首を振りつつ話題を変えた。
****
「おーい、泰光ー。仕事だ」
「ん…?あぁ、もう朝か。すっかり読み耽ってしまったな」
陰陽師寮の隅、やや埃被った個所の目立つこの空き部屋が今の泰光の仮住まいである。
机の脚は折れ、傾き、部屋の至る所に蜘蛛の巣が張り巡らされている。
「まさかとは思うが、一晩中それ読んでたのか?」
「あぁ。皆頑張っているんだ。俺だけ楽する訳にはいかないだろう。
それに、中々興味深い本だった。後で書き写させてもらっても良いか?」
「おう、好きなだけやればいいさ。それ、前に此処にいた奴が書いたものだから」
ややふてくされたように靖正が言う。
その言い方に心当たりがあったので、聞いてみた。
「この字の綺麗さといい、癖といい…もしや、桃が書いたのか?」
「あぁ。あいつ、『姫巫女代理補佐官』だっただろ?仕事以外は暇なんで、許可貰ってちょくちょくこっちに来たりしたぞ」
「そんな大層な役名だったのか。皆、『姫巫女代理』って言うよな。にしても、わざわざ許可が必要なのか?」
「だって長いだろ。普通は略す。知らないだろうと思っていたけど、当たったな。
星巫女様達の住む『狭霧殿』を含む領土は、女だけが入ることを許される神聖な場所。
高位の陰陽師とか術師なら男女問わず入れる。
この陰陽師寮を含む領土は、陰陽師専用の言わば男子専用の場所だ。
だから狭霧殿などで暮らす者は誰であろうと、許可が必要になる。
…まぁ、あいつの場合討伐対象であったからそれが解けるまで中々入れてもらえなかったけどな」
「あぁ、紛いにせよ、鬼には変わりないもんな。
にしても、よくまとめてある。見やすいし、分かりやすいな。全く、天からいくつの才能を頂いてんだか」
泰光がそう呟くと、靖正もうんうんと頷く。
「此処だけの話しだが、あいつが此処に入れない時は術を教えてもらう代わりに、俺が秘密裏に入れたりしたけど。…そのおかげで、星巫女様の側近になれたし、最年少の天才陰陽師ーなんて呼ばれてるんだぜ。これでも」
胸を張りながら靖正が言う。
少し苦笑しつつも、書庫の整理に向かう為立ち上がる。
「桃、結構調べたんだな。鬼のこと…。何でそんなに調べたのか分からないが。
だからこそ、この本の信憑性は高いし陰陽師だってこれを参考に鬼狩りしているんだろ?」
「あぁ。それが一番詳しく記されており、実際にその事柄も正しいと証明された。
…なぁ、泰光。お前は自分が本当に人間だって証明できるか?
ちゃんと、自分が『足利泰光』だと言える根拠はあるか?
…あいつは、自分が何なのか分からなかったから、調べたんだと思う。
『得体の知れない化物は誰だって気味悪がるだろう?』ってのが、当時の口癖だったから。
だから、俺には全く以て今のあいつの考えが理解できない」
先程まで理解出来なかった靖正の思考が今は理解できる。
もし、この本の事柄が本当ならば。
彼は自ら死にに来た様なものだから。