それぞれの願い
鬼法炎寺から程無く歩いた山奥に『戒めの洞窟』という洞窟がある。
見習い僧が、最後の修行過程として此処で己の迷いを見つめる。
しかし、失敗すると心が壊れ感情を失い廃人となる可能性もあり、そうした僧も実際存在している。
「夷隅様も此処で修行し、見事制覇。己と向き合ったのですよね。そして、強力な法力…いえ、妖術を手に入れた」
「まぁね。簡単に言えばそんなところかな。けど言うほど簡単じゃないから頑張ってね」
洞窟内は意外に広い。そして、妖気に満ちていた。
辺りを見回していると、ふとあることに気付く。
「此処、戒めと呼ばれるだけあって、いろんな感情が閉じ込められていますね。
しかも、ほとんど恨みや嘆き。いつ妖怪が出て来てもおかしくありませんよ」
「そうだねぇ…。話してなかったっけ。今から十数年前、此処の洞窟の奥にはそれはそれは強い妖が居たそうだ。
それを此処の始祖である…といっても、人間なんだけど。その始祖である僧が封じた。
しかし、あまりにも強すぎる妖故に呪いが村中に広まったんだと。あちらこちらで、飢饉が起こるから何とかせねばってなってね?
その呪いを鎮める為の生贄として優秀な人の僧が百人余り集められた。もちろん、一生遊べるくらいの金額を出すという条件でだ。大まかな内容としては妖怪の祟り封じと言われていたらしい。
その各地から集められた僧を人柱として洞窟の壁に埋めたり、無縁仏として奥の祠の地下深くに眠ってもらっているんだよ。彼等の犠牲あって、江戸は何も起こらずに済んでいる。今のところはね」
「百人余りの僧…。そうですか、事情は説明せず金だけ与えて…。通りでこんなに負の感情があるか分かりましたよ。私から言えば、よく何も起こらなかったですね。けど、何れ溢れ、滲みでてくるでしょう。策は講じてあるのですか?」
桃太郎は淡々とした口調で言うと、夷隅は苦々しく笑った。
「正直、無いよ。あぁ、着いた。この湖というか池というか…一応呼吸は出来るから。頑張ってね」
ドンっと背中を押されて、そのまま派手な水飛沫を上げて落ちて行く。
あの人、泳げないこと知っていて態と押したな。
そのまま何も出来ずに沈んで行った。本当に呼吸が出来る。
しかし、意識はどんどん薄れていった。
その頃、泰光はというと…。
主に雑用という手伝いを行っていた。
「だって、お前才能無いから」
「なら如何しろって言うんだ、一体?」
今手伝っている作業は書庫の整理と、異国から取り寄せた書物を一文字一句間違わずに写すこと。
何とも地味な作業だが、案外嫌では無かった。
周りの歳の近い陰陽師達とはすっかり打ち解け、色々な話を聞く。それもまた楽しいことだ。
人に信頼されやすい。
自分でも、一種の才能であることを認めていた。
「お前、どちらかと言えば、武士より商人の方が向いてるだろ」
何気なく靖正が言ってくる。それに軽く頷きながら溜息を吐いた。
「どちらかと言えば、そうだな。父も政治に関しては全然駄目だし。向いていないことは百も承知だ」
「結構、皆警戒心解いてるし。凄いことだぞ。さっきも色々話してただろ。何話してたんだ?」
「色恋沙汰とか、鬼の事。此処、資料豊富だろ?書庫で資料に目を通せてある程度は分かってきた。
鬼にとって、白鬼の存在はでこっちでいう御上と同じ位なんだろ?もしかしたら、それ以上かもしれない。それで、一つ気になる話が書いてあったんだが…」
「…あぁ、どうせ、禍々しき鬼を討伐する白鬼の話だろ?詳しいの読みたいなら、貸すぞ」
「あ、あぁ。有り難う。今日の分が書き写し終わったら取り行くな」
素っ気なく答えた靖正に心底驚いたが、今はとにかく書き写す作業に専念した。
だから、あまりにも集中しすぎて、靖正の呟きは全く聞こえていなかった。
「あの話が本当なら、何でアレは傍に居るんだろうな…?」
頬杖をつきながら、心底面白くなさそうに。または、どうでもいいと言う様に。
空はいつしか茜色に染まり、書庫は影を落していく。その頃には書庫の整理などは一通り終わり、見習い陰陽師寮に戻っていた。
一応、使っていない部屋が一つ空いていたので、有り難く身を置かせてもらっている。
足利家での自分の部屋の方か一回りくらい大きく、整理されていたが、前に住んでいた見習いの使い方が荒く、机の脚は折れ、至る所に埃がたまっていた。所々蜘蛛の巣が張ってあり、長年掃除していないことが一目で分かる。
帰る途中、靖正はちゃんと書物を貸してくれたので、暗くなる前に読んでおきたかった。
『鬼妖伝』というそのままの題名で、直筆であろう綺麗な達筆の文字で書かれている為読みやすい。
鬼にまつわる古くからの童話、童唄、風習など様々な事が書かれており実に興味深い内容だった。
戦いに力添え出来なくとも、他の方法で助けられれば十分だ。
案外、泰光は何に対しても切り替えが早い。
戦力にならないのは悔しいが、人の身である自分には不可能だと初めから分かっていた。
簡単に殺されるだろう。
だから、せめて弱点でも何でもいい。桃太郎達に戦の事は任せ、自分は江戸に被害が出ない様策を練ろう。桃太郎はいくつか策を練り、江戸の安全を確実なものにしようと奮闘していたが、そう簡単にいくものではないし、どんなに頑張ろうと確実に何かしらの被害は出る。
それをいかに最小限に抑えられるかが問題だ。
良い案は無いかと項を捲り、唸る。
日が完全に傾き、文字が見えなくなるまでずっと泰光はその動作を繰り返していた。
その頃、狭霧殿では…。
「おはようございます…」
「寝ぼけたこと言わないでちょうだい。もう夕刻よ」
狭霧殿の一番奥の部屋、星巫女の仕事場で満は目を覚ました。
外を見る隙間は無いので、時刻が分からない。
「私、何故星巫女様の仕事場で…?」
「簡単な事よ。人目が無いから」
そう言いながらも、星巫女は黙々と書類の様なものに何かを書いていた。
『ケケッ、随分寝たじゃねーか。寝る子は育つというが、身長にしても、胸にしても見込みねぇなお前っ!この夜一様の方が胸はともかく、身長はでかいんじゃねぇのっ!?』
げらげらと笑いながら、満の頭の上で子天狗が回っていた。
それを鼻で笑いながら、猫が鼠を狩るかのような素早い動きで鷲掴みにした。
ぐぇっ…と小さな悲鳴が漏れる。
丁度掌に収まる大きさだった。それににこりと微笑みながら言う。
「何処がですか?チャンチャラ可笑しいことを言わないで下さいよ。
現に彼方は今、こうして掴まれている立場にある。私が鷲掴み出来る程度の大きさなんですよ」
『ず、ずみまぜんでした…。な、内臓出る…。ぐぇ…』
鴉もこのくらいの大きさなら握れるのにと思いながら、桃太郎に想いを馳せる。
「こうしては居られません!星巫女様、今日は何の修行ですかっ!?」
「あぁ…、そのことだけど、担当を変えるわ。安心しなさい、信頼のおける部下に頼んだから。
アレの無茶苦茶な願いを叶える為に色々検討しているの。あぁ、面倒だわ…」
はぁ…と深い溜息をつきながら星巫女は筆に墨を付けまた何かを書いている。
すると、扉が控えめに叩かれた。
「あぁ、来たみたいね。どうぞ、入って」
星巫女が筆を置き、ちょいっと手招きする。
すると、誰の手も借りることなく、物凄い勢いで扉が開いた。
その先に立っていたのは、やや緊張した面持ちの少女だった。
丸みの帯びた可愛らしい顔だ。目もまた丸く童顔であるが、引き締まった唇や立ち振る舞いからそうは感じさせない。長い黒髪を後ろで束ねているが、髪の量が多いのだろう。少しばかりはみ出ている。
「話した通り、この子が色々教えてくれるわ。極僅かだけど鬼の血を継いでいるの。美人でしょ?」
茶化す様に星巫女が言うと、少女は頬を赤らめた。
「倫、お願いね」
「はい、星巫女様っ!」
「あの、よろしくお願いします。倫さん。私、足利満と言います」
満が手を差し伸べると、倫は冷ややかな目で満を見た。
そして、手を乱暴に握る。もちろん、星巫女に気付かれない様に。
「それでは失礼しますね」
「えぇ。二人とも、頑張ってちょうだい」
バタンッと勢いよく扉が閉まる。
倫は深い溜息を吐いた。そして満を睨む。
「白鬼だか何だか知らないけど、ホントッ貧相な餓鬼ね。歳いくつ?」
挑発的な言い方に戸惑いながらも、十七ですと答えると倫は鼻で笑った。
「十七でその容姿?衣服も、何で袴なの?女でしょ、あなた。さっさと巫女服に着替えなさいよ。此処ではそれが規則よ」
「み、巫女服ですか?も、持っていないですけど、何処に行けば貸してくれますか?」
「用意無しに此処に来たの?馬鹿じゃないの、あなた。やる気ある?
あーあ、星巫女様に頼まれてるからなぁ…。私の服貸すけど、帰さなくて良いから。鬼が着た服なんて、気持ち悪いわ。髪はちゃんと整えてよね。髪結いは貸さないから自分で何とかして」
倫は冷たく言い放ち、満を置いて何処かに去っていく。
残された満はきゅっと袖を掴む。真珠のような透き通った涙が頬を伝う。
『あーあー。随分嫌われてんなぁ。ほら、泣くな。頑張れ』
「この服だって、お父様がわざわざ設えてくれたものなんです。確かに、安物ですが、足利家にとっては、随分高い買い物だったと思うんです…。倫さん、鬼、嫌いなんでしょうか…?
というか、髪結いの紐、どうしましょう?」
『極僅かとはいえ、血統の良い鬼のなんだろうな。
そういう鬼の子はお前みたいに鬼の力が色濃く受け継がれる。気配からして赤鬼か。
周囲に知られれば、きっと殺されるだろ。人にしても、鬼にしても『紛い子』はそういう対象になるんだよ。嫌でもな。…色々苦労してんだ。
あいつから見れば、同じ鬼の血をひくお前が蔑まれず、のほのほと育ってるのが悔しいんだよ』
「倫さんの心、傷だらけで、きっと星巫女様以外は信用していないんだと思います。
仲良くなれたら嬉しいのですけど…。
あっ、桃太郎はどうだったんでしょう?そこまで暗い雰囲気を感じさせませんが…」
満の呟きに夜一は苦笑した。
『お前には、分からねぇよ』
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「桃太郎は?」
「今、修行中ですよ。暫く放っといて下さい。しかし、此処で一体何を?」
夷隅の問いに、椿が苦笑しながら答える。
「片腕無いんで、座禅の修行は無理そうです。手、組めませんし。
せめて滝に打たれたら何か思いつくかと思いまして…」
「失礼ながら、剣振るえないんじゃないですか?彼方はどうするのです?」
「剣は振るえなくとも、銃があります。弟が異国を旅した際に持ち帰った物なんですが、中々威力があって剣よりも便利ですよ。…失礼ですが、燕とあやめの為に供養をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「えぇ。私でよければ喜んで」
夷隅がそう答えると、椿は安堵したように微笑んだ。
「夷隅様は何故、僧を志したのですか?まだ、聞いたことありませんよ」
「言ってませんでしたっけ?私は、弱き己を殺す為に此処に居るのです。
…そう言えば、雅さんが呼んでいましたよ。言ってあげてはどうです?」
「あぁ…。それじゃあ、失礼します」
そう早口で言って、椿は頭を下げると駆け足で去っていく。
冬の凍てついた風が木枯らしを舞い上がらせる。
「だから、私は君が羨ましいですよ。
私は力を望み、それが得られない。
君は、それがあるというのに、捨てたがる。
この世の理とは、如何に無慈悲なものなのでしょうね…」
苦笑を浮かべつつも、そんなことを呟きながら去る。
また風が吹いた頃には笑みは消え去り、阿修羅の様な僧が一人。
笠を深く被り直し、本殿へと戻る。