証
「あなたは、まだ此方へ来てはいけないわ」
誰かが、霧の中でそう言った。
そして、手を引いて元居た岸へ連れてく。
目覚めた時は、寝台で寝かされていて、しばらく杉野の説教を聞いていた。
何故か、悲しく懐かしい。
鈍い痛みが、首元で蠢く。自分は訳も分からず泣いていた。
ずっと、昔の事だ。
「…貴女は?」
霧の向こうに見えたのは、見知らぬ女の人。
とてつもなく美人さんだ。それなのに、彼女から溢れる雰囲気は、何処か間抜けていて滑稽だ。
「あぁ、良かった。間に合ったわ。…私?うーん。忘れてしまったわ。誰だったかしら?」
「わ、忘れちゃんですか!?」
ふふふっと、美人さんが笑う。それは、美しく可愛らしい笑みだった。
その笑みに、母の姿を重ねる。
「満…ちゃん、だったかしらね。小さくて、可愛らしいのね。
私にも、貴女よりもう少し小さい息子が居るの。臆病で、泣き虫で…とても優しい仔。
生まれてきたときはね、真っ黒だったの」
最後の言葉に耳を疑った。
一体、彼女は何が言いたいんだろう?
「『黒鬼』って、周りは呼んでいたわ。
私、『あぁ、これが黒鬼なんだ』って感心した。…人の形というよりも、子犬の様だったわね。
皆、気味悪がったけど、私は愛おしかった。
例え…目が赤くても、望まれなくても、愛されなくても、あの子は生まれてきてくれた。生き続けてくれた。私の過ちを正してくれた…」
「息子さんの名前は、何て言うのですか?」
美人さんは困った様に微笑む。
「…決めてなかったの。二人で決めようって約束したから」
…さん
…満さんっ!
遠くから、声が聞こえてきた。
「桃の声だっ!」
それを嬉しいと感じてしまう。
何だか、その声が酷く懐かしく思えるのだ。
そんなに長く、此処に居たのだろうか。
「満さん…!」
霧の中から、桃太郎が現れる。
満の顔を見たとたんに、安堵の表情を浮かべたが、その表情が直ぐに固まる。
「あ…、か、かあさ、ま?」
歯の音が合わず、そして、目が泳いでいる。
桃太郎が珍しく、動揺している。
「……。」
女性は何も言わなかった。唯、悲しそうに微笑んでいた。
「『いきなさい』」
一言、彼女が言う。そして、深い霧の中に消えた。
桃太郎も何も答えずに、満の手をとると歩きだす。
歩く度に、綺麗な鈴の音が遠くでなっている音が聞こえた。
「…今のひと」
「満さん、けして振り向いては駄目ですよ。それが、この黄泉の掟です。それこそ、死者との境。
例え、誰がどう言おうと振り向いては駄目ですよ」
満の問いを打ち消す様に桃太郎が言う。
曖昧に頷くと、握る手に力が籠った。
「…どういう意味で言ったのでしょうね?」
ぽつりとそんなことを桃太郎が、呟いた。
私は、ただ、そんな曖昧な表情を浮かべている彼の横顔を見つめていることしかできなかった。
「…星巫女様は?」
「心配ありませんよ。彼女が、任せてほしいと言ったのですから。心配は無用です。ほら、あそこが…」
とんっと背中を押されて、そのまま光に包まれる。
桃太郎は、静かに笑っていた。
ちょっと、先に行ってて下さいと、そう言っていたような気がした。
結局は、心配なんですね。
「貴女、笑わないのね。」
最初、姫巫女は私にそう言った。
「面白くもないのに、何故笑う必要があるの?」
そう言いかえすと、姫巫女は…いや、まだ幼い少女は当たり前だと言うように微笑む。
「誰かを幸せにする為に」
それは、子供らしくない答え。
しかし、その少女はその言葉を本当に幸せそうに言うのだ。
「私の仕事ではないわ。私の使命は主を導き、民を導くこと」
淡々と言うと、それでも彼女は笑う。
「それも、誰かの幸せにつながる道よ」
彼女は生まれつき身体が弱かった。
農家の出だが、その才能を見込まれ、ついには姫巫女と呼ばれるまでに至ったのだ。
まだ、こんなにも幼い子が、一体どんな想いを秘めて励んできたのだろうか。
それが、この答えだ。
彼女はただ、幸せを願うのだ。
それこそが、彼女の願いであり、指名。
姫巫女の名を持つに相応しい、神に愛された少女の祈り。
「…貴女は、ことごとく私の願いを台無しにするわね」
目の前に立つは、何一つ変わらない少女『姫巫女』。
しかし、その中身は随分成長した。
忌々しい化物によって。
「ごめんね。態々、禁忌まで破ってくれたのに。けど、そんなの誰も喜ばないから。
…私は、死んだ。言い訳なんてない。そうでしょう?
心の何処かで『愛されたい』と思ったの。女として最後は死にたいとずっと思っていた
…あの日、それは叶ったの。だから、私は十分だわ」
「あの化物が、貴女にその紛いものの感情をこぼそうが、私の知ったことではありません。
所詮、それは偽りでしかない。貴女が想う価値さえない男です」
悲しそうに姫巫女は目を伏せる。
…私は負けたくなかった。
こんなにも想っているのに。
こんなにも、貴女の為を想っているのに。
なのに、貴女はあの男に恋をした。
「私にとって、あの男は恋仇。どうしても、あの男にだけはとられたくなかった…。」
『姫巫女の命を捧げるのです』
ー御上は、そう言った。
それは、彼女に会う前からずっと、そう決められていた。
霊力の高い少女を姫巫女として、祀る。
そして、時が来たらその魂を贄として捧げる。
その為に『姫巫女』は存在する。
御上の命令で、すでにあの日、彼女が死ぬよう仕組む手発が整っていた。
毎度の食事には少量の毒を少しずつ盛った。
色々な罠や、刺客も手配した。
彼女は、本当に純粋で清らかな心の持ち主だった。
私は、いつしか彼女に心を開いていたのだ。
しかし無情にも、自らの使命と、紛い鬼の少年が邪魔をする。
あの男…いや、少年は何だか気味が悪い。心が無いのだ。
どこか、彼に昔の自分を重ねていた。
後に気付くが、…私は、自分に似たこの少年を唯、恐れているだけだった。
姫巫女は、次第に彼に惹かれはじめ、ついには部屋へ呼んだのだ。
忘れもしない、蒸暑い夏の夜。
危惧していた…私にとって一番嫌なことが起ころうとしている。
だから私は先回りし、物陰に身を潜めた。
会話が聞こえてくる。
「桃の事が好き。」
「姫巫女様、な、何を…ご冗談が上手ですね…。しかし、ほら、もっとうまい嘘じゃないと…。
今のは、些か縁起が悪い…」
しばらくの間があった。
「残念ながら、私は…星巫女様を想っております。…それに、貴女様は主の妻。
そんな無礼な発言はお控えください。それに私は、次から『姫巫女代理』ではなく、星巫女様の書記官見習いとして、狭霧殿でお勤めをすることになりました。…貴女と会うのは、これで最後です」
「本当に?最後なの?」
縋るように、切羽詰まったような声で彼女は言う。
今にも泣きそうだった。
「良いじゃないですか。貴女はこれから自分の使命を全うすることができ、私は、想い人の傍で励むことができる。…もう、十分でしょう?」
許せない、許せない、許せない、許せないッ…!
お前の様な化物が姫巫女様から好意を寄せられるのも、お前が、その好意を踏みにじることも。
彼女が、こんな男を愛すのも…。
全てが、憎たらしくてならない。
あの男が部屋を後にする。
姫巫女は泣いていた。
私が、…私しかいない。彼女を救えるのは、私しかいない。
「…もう、良いでしょう?貴女が彼をどれほど想おうと所詮、あの男が彼方の想いに応える日は無いわ。私が、何とかするわ。大丈夫、貴女は死なない。私に任せて」
「…星巫女?いつから…?一体、何の話を…」
「御上の好き勝手な都合で、貴女を殺めるなんて間違いだわ」
姫巫女が後ずさる。
「御上が…私、いや、『姫巫女』を?ま、まさか、歴代の姫巫女様方がお亡くなりになられた原因は…。いや、しかし…」
「大丈夫よ、姫巫女。私が頼めば御上だってお赦しになるわ。
だって、あの御方は何の力ももっていないんですから。私が、そんな人に屈する筈がないし、『星巫女』の称号を持つに相応しい巫女も現れない。
これからは、二人で仲良く暮らしましょう?
そんなにあの男が好きならば、たまに呼ぶくらいの事はするわ」
彼女は一瞬だけためらった。
そして、二度と私の手をとることは無かった。
「いいえ。私の命で民が救われるのなら、この命謹んで差し上げましょう。
たった一人の少女の想いと、民の命とであれば、優先するのは民の命。」
そして、すべてを赦すような笑みを浮かべてこう言った。
「その民の中には、御上も、…桃も、そして、」
最後の言葉は聞こえなかった。
手に入らないのなら、届かぬ想いならいっそ…。
気付いた時には、彼女の心臓に小刀を突き刺していた。
彼女の鮮血が、私に降り注ぐ。
私だけにだ。
あの化物も、御上も、けしてふれられない。
真っ赤な彼女の命。
最高の至福だった。お前が何を罪と思おうが、それは、所詮紛いものの縁。
自己満足の縁。
「全く、世話の焼ける人ですね。…姫巫女様、会えましたでしょうか?」
「煩い。何でお前が…」
その呟きに男は苦笑した。
言葉が雑になってますよと、忠告する。
「「私は」」
お互いの言葉が被る。
そして、続く。
「貴女が」「お前が」
「「大嫌い」」「です」「だ」
そこまで言って、奴は軽く口笛を吹く。
お見事っとでも言う様に。
「お互い、同じ人を想っていましたからね。正直、邪魔者以外の何物でもありませんよ、貴女」
「ふん。お前の存在の方が目障りだ」
あの日、彼女が言った言葉。
彼女がいたから、不器用な私たちは前へ進む決心が出来た。
彼女が、初対面の人に心を開くなんて初めてよ。
…桃、凄いわね。
初めて、お互いあった時。
すぐに、敵だと勘づいた。
だから、お互いの印象なんて最悪だ。
「馬鹿ですね、本当に。最後まで、聞かずとも分かるでしょう?」
もう一度、男は繰り返した。
それは、失われたあの日の言葉。
「その民の中には、御上も、…桃も、そして」
「私の事を想ってくれた優しい親友…星巫女、貴女もよ」
姫巫女の姿を見た様な気がした。
男は、静かに手を差し伸べる。
あの時の様に、誰かに頼る様な幼く小さな手ではなく、
剣を握る武士としての、勇ましく、しっかりとした手。
その手を、そっと掴む。
どちらかが、「ありがとう」と言った。
もしかしたら、両方かもしれない。
光は、直ぐそこまで迫っている。
そして、その光に包まれた直後、
…さようなら
そう、誰かが言った様な気がした。
男が、静かに鈴を暗闇へ投げる。
小さな音が、一度だけ鳴った。
「…眩しい」
生温かい風が吹きぬける。
夏特有の、身体を包むような風が。
空からは、容赦のない日の光。
蝉の鳴き声が、反響する。
「…星巫女様」
満が、何かを言う前に私は問う。
「桃は?」
「無事…とは、言い難いな。だが、平気だろう」
師の背中に背負われた桃太郎は、小さく微笑んだまま眠っていた。
それは、赤子のような笑みだった。
「…さて、帰るか。結局、徹夜か。初めてだな。お前も来るだろう?」
椿が不敵な笑みを浮かべて問う。
私も、意地悪な笑みで返した。
「残念だが、書類を書かなければいけないのでな。うちの陰陽師達がそろそろ喚く頃だ。
…だが、祭には行く。必ず、行く。桃に伝えておけ。今年の『姫巫女』はお前だと」
星巫女様が見せた笑みは、とてもすがすがしく。
あの言葉の意味は、きっと彼女が桃太郎を認めてくれた証だ。
なんだか、祭がとっても楽しみだ。
「満、行くぞ」
兄が、手招きしている。
元気よく返事をすると、彼等の元へ駆けた。
季節は、夏。
もうすぐ、祭が始まる。
長い…。
すみません、本当に。
本当は、祭のこととか書きたかったんですけど、それはまた別の機会と言うことで。
次回からの章は、季節が秋!…深い意味はありませんが。
そして(?)次からの更新時間は、6時頃が頻繁になっていくと思います。(←どうでもいいけど、御報告)