師の心 弟子知らず
鴉は辺りを見回した。
桃太郎の予想どうり、奥に進むほど今まで感じなかった禍々しい妖気を感じる。
さらには血の臭いも濃くなり、慣れていない人間ならとっくに吐いているだろう。
ぐしゃ、ゴキリッ…。
微かな音が聞こえてきた。
鴉にはその音に聞き覚えがある。
ーあぁ、『食事』の音か。
にやりと口を歪め、人の姿になり地へ降り立つ。
至る所に血溜まりが出来ており、ぽつりぽつりと赤い点が続いていた。
「…お零れは貰えそうにないな」
残念そうに溜息を吐き、歪な道標を頼りに歩く。思い出した様に、黒い羽根を取り出すと息を吹きかけた。すると、意思を持ったかのように羽根は夜空へ飛んでゆく。
見えなくなるのを確認し、ゆっくりと進む。かつて経験したこともない緊張感が、彼を包んでいた。
「見る限り、大分食い散らかしたな。とんだ食いしん坊がいたもんだ」
敵は左程遠くなく、もうその影が見えてきた。骨を砕く音と血の臭いが鴉の食欲を注ぐ。
「あんなに丸々と太った獲物を、俺が見逃すと思うか?」
うまそうだと呟き、唇を一舐めした。
ーくれぐれも、お前が最後の晩餐になるなよ?
そんな苦笑しながらも言う主の声が聞こえたような気がした。
「桃太郎、もう起きて平気なんですか?」
満の問いに、桃太郎はにっこりとほほ笑む。
「正直、大丈夫じゃありません…冗談ですけど」
窓辺に佇み、手には黒い羽根を持って。今まさに桃太郎は外へ出ようとしていた。
「おい、コラ。熱は下がったのか」
「おや、泰光さん。どうですか、具合は?」
少し驚きながらも訊ねる。腕には添え木があり、その上から包帯がぐるぐる巻きにされていた。
「一か月もすれば治る。…それにしても、師匠さんが怒っていたが?」
ちらりと障子を見て、直ぐにそらした。障子からは溢れんばかりの殺気が漂っている。
「いやぁ…、多分、絶対怒ると思ったんで、お札貼ったんです。私の任意なしでは無理」
きっぱりと言うと、泰光は溜息を吐いた。
「だが、今回は陰陽師が来てるだろ?ヤバいんじゃないか?」
「…………そうでしたね。もう、物音しませんし。そろそろ行かないと本当に殺される。それではっ!」
桃太郎の姿が消える。下を見ると、足を引きずりながらも懸命に走って行く姿が見えた。
同時に障子が開く。
「桃は?」
「「あそこに…」」
指さした時には、桃太郎はちょうど曲がり角を曲がるところだった。
ふふふふふふふふふふ……と椿は笑いながらもその後ろ姿を見ていた。
次の瞬間には、もう曲がり角を曲がる後ろ姿がちらりと見えた。
「「「「速い…」」」」
四人一斉に声を上げる。
「けど、あれって…」
靖正が確認するように秀忠の顔を見た。
「えぇ。式神です」
「分かってたなら、教えろよっ」
椿の怒鳴り声が遠くから聞こえてくる。
「桃さんはとっくのとうに出ていかれたでしょうね。保険として式神と札を使った…。
ほら、此処から見れば分かりますよ?随分、たくさんの目眩まし式神をつくったんですねぇ」
感心して秀忠は辺りを見渡す。満達も同じようにその視線の先を追った。
「無駄な労力だな」
靖正が呟き、泰光はうんうんと頷く。
『島原』はとてつもなく広い。
それを感じさせないほどのたくさんの『桃太郎』が足を引きずりながら縦横無尽に走り回っていた。
「秀忠、大至急探り当てろ。他の二人にも来るように言っておけ」
「うん、今すぐに桃さんのところへいかせてあげるあら、落ち着いて」
いつに間にか戻ってきた椿がドスの効いた声で話す。
ー血の臭いと禍々しい妖気は、島原全体を満たしていた。
椿の手にはくしゃくしゃになった式神が握られている。白いはずのその紙は、黒い血で汚れていた。
「そろそろ、着く頃かな…?そして死刑執行も、着々と手発が整い始めている…だろうな」
げっそりとした表情で、桃太郎は言う。
額の包帯には血が滲み、頬に涙の様な跡を残し地に吸収される。玉の様な汗が桃太郎の衣を濡らしていた。
咽そうな強い血の臭いと、今まで感じたこともない禍々しい妖気に、発狂しそうだと思う。
「鴉…、頼むから喰われるなよ?父上にどう顔向けしたらいいか…父上の妖刀さんにもだ」
ふと、小さな息づかいを感じ立ち止まる。屋根の上に人影があった。向こうも桃太郎に気付いたようで、ひらりと軽い身のこなしで屋根から、桃太郎の前へ降り立つ。
「何だ、桃か…」
長い白髪の髪に、白い肌。氷の様に冷たい瞳。凛とした声。白い着物を纏った鴉に良く似た少女だった。
男のように喋るので、勘違いする者も少なからずいるだろう。
「白欄さん、でしたよね。…鴉を助けて下さってどうもありがとうございます」
桃太郎がぺこりとお辞儀をすると、白欄はそっぽを向いた。
そして、鴉を地面に落とす。
「べ、別に…。わ、私は不甲斐無い弟と、我が主の命で此処に来ただけだ。…お前を助けようとか、心配で様子を見に来たわけじゃないからな。断じてっ!」
くすくすと笑う桃太郎を見て、声を荒げる。桃太郎は嬉しそうに笑った。
「だとしても、お礼くらい言わせて下さいよ」
「私は、もう行くっ。主が待ってるのでなっ!さらばっ!」
突風が吹き、その風に乗りながら白欄は空へ飛んだ。
素直じゃないなと思いながら傷だらけの鴉を刀の姿に戻し、鞘に納める。
鴉はとりあえず無事だった。しかし、妖を倒したわけではないのだ。安心するのはまだ早い。
「戻りたいのも山々だが、動けん」
ふぅ…と溜息を吐き、その場に座り込む。
とんとんっ…
肩を誰かに叩かれる。
気配は全くと言って良いほど感じなかった。さすがは、王族が封印しただけある。
「……」
蛇に睨まれた蛙の様に、動くことが出来なかった。冷や汗が流れる。
「ねぇ、お兄さん」
ー無邪気な子供の声。肩を叩いた感触は人の手と同じ。
「此処に来た白い人と、黒い人、見なかった?」
「…見た。だが、あれは食い物じゃない」
「ふぅん…?ねぇ、お兄さん」
ぎちりッ…。
掴まれた肩に力が籠り、食い込んだ爪が肉を抉る。
「赤と青、どっちがいい?」
出来たら、一時間後に次話更新予定。