災いへの予兆
男の首を狩るはずのその刃が、獲物に届くことは無かった。
男を結界が守り、『鴉』は主の手から離れ壁に当たって落ちた。
「……」
手の痺れと、男の生存に不満を抱きながらも、桃太郎は男を見る。
向こうも同じように今起こった出来事を理解していなかった。目を大きく開き、唖然をした表情を浮かべていた。
「いやはや、いい勝負だった…と言いたいけど、いくらか手加減されてしまったようだ。
まったく、君は口が軽い…」
白衣を着た男と同じ白髪の男性が立っていた。
今、戦っていた男より歳をとっており、猫背気味である。
年寄りの様な歩き方だったので、見方によっては老人と答える者も少なからずいることだろう。
「結界を破ったのか…」
驚いた様に桃太郎は男を見た。白衣の男は嬉しそうに微笑む。
「あぁ、破らしてもらったよ。今、人出が足りなくなるのは困るんだ。
しかし、君は本当にそっくりだねぇ。思わず殺したくなる程…」
最後は険しい表情でそう言った。しかし、直ぐに愛想のいい笑みを浮かべて、冗談だと言う。
「こいつは、俺の獲物だッ!俺が殺すッ!」
男が吠えた。白衣の男は彼を鋭い眼差しで睨む。
「いやぁー、すまない。結界に守られながらこんな大口を叩くとは…。『負け犬の遠吠え』と言うんだったかな?こちらでは。今回は視察のつもりだったんだ。もう帰るよ」
「覚えておけッ!お前は俺が必ず殺すッ!名はまだ名乗らないッ。
次にお前に会い、その名を口にする時こそ、お前が死ぬ時だッ!忘れるなッ!」
白衣の男が不敵に微笑む。すると、突風が吹いた。
砂埃が舞い、桃太郎は袖で目を覆う。
しばらくすると風は止み、西洋の鬼達の姿は無かった。
溜息を吐くと、床に転がっている『鴉』を鞘に収めた。髪を結い、埃を払う。
『いつもいつもいつも…あいつが原因で事が起こる』
忌々しそうに鴉が言うと、桃太郎は苦笑した。
「『呪い』なんて使えるのか、初めて知ったよ」
『お前も多分、どっかにあると思うぞ?『刻印』が間違いなく刻まれてる。あいつの事だ、絶対に』
「…そっか。うーん、けどあの人がこんな事仕組むはず無いしな。そして…」
「「こんな面白い事を見逃す筈無い」」
綺麗に声が重なる。桃太郎はくすくすと笑った。
「あの人のことだから、今もどこかで見てるよ。自分の撒いた火種だもの。
しかも、『刻印持ち』ときた。…なぁ、鴉。あまり嫌うなよ」
『お前は甘いよ…今までアレのせいでどれだけ苦しい思いをした?仮にも…』
「どうやって上がろうか?階段壊れてるし…」
ぶつぶつ文句を言う鴉を余所に、桃太郎は上を見上げた。
ぽっかりと穴が開き、天井が見える。
「簡単に行けるだろうが。今のお前なら」
紛い鬼と言えど、治癒力・脚力・聴力など人よりも遥かに優れている。
だから、この前も軽がると塀を飛び越えもした。
どてっと倒れた音がして、鴉の視界には天井が映る。
『桃?』
主は既に気絶していた。
紛い鬼と言えど、限界がある。頭を強打した衝撃で既に参っているのに、黒鬼の力を解放したのだ。
紛い鬼にしては、桃太郎の力は強大過ぎた。自分の命を蝕むほどに。
桃太郎の髪を結う為の紐は、その力を抑えてくれている。
『案外、ギリギリの勝利かもな…』
人ならば冷や汗が出たであろう。小さく溜息を吐く。
遠くから、足音が近づいて来る。おそらくは椿達だろう。
『全く…これから、何も起こらなければ良いのだがな』
鴉はもう一度、重いため息を吐いた。
「面白いことになったな…」
辛うじて残った遊郭の屋根の上に人影があった。
異国の服を着て、歪んだ笑みを浮かべて、獲物を観察するかのように見つめている。
『遊びも程々にな?』
腰に差している刀が喋る。鞘までその刀は真っ白だった。
「退屈は嫌いだ。良いじゃないか、あいつ等が勝手に喧嘩を売ったんだ。
あぁ、これで暫く凌ぐことが出来る」
『…程々にな?』
もう一度、刀が喋った。
しかし、もう聞く耳を持っていまいと判断し、溜息を吐いた。
我が主は、退屈を紛らわせるならばどんな手段も厭わない。
火が屋根までまわり、凄まじい音を立て崩れる。
人影は、既に無かった。