始
江戸時代を舞台にしていますが、個人のいいように書いているため、おかしな点などが出てくると思いますので、注意が必要です。
澄んだ水面を想わせる笛の調べが聞こえてきた。
楽会という、毎年冬至に催される管弦の会である。
妖や化生などが多い江戸では、楽会は欠かせない。
楽会で奏される清らかな調べは、妖や化生を鎮める力があるからだ。
冬至は闇が長い。だからこの季節になると楽会が催される。
毎年、姫巫女と呼ばれる少女巫女が歌っていたが、此処十年姿が見えない。
まだ幼いながらに今の世を嘆くような哀愁漂う声色は、穢れを祓うに相応しかった。
しかし、此処十年彼女は表には一度も出ていない。
それと同時に各地で妖による農作の被害や、鬼の出現で村が焼き尽くされるなどの被害が相次いだ。
米の収穫もままならないので、江戸から離れた村では厳しい年貢の取り立てに耐えきれず、一揆を
起こす農民などが増えている。
流石の陰陽師といえども、鬼相手には苦戦する一方で、鬼の方はここ最近では数が増している。
最早、戦どころではなく全国の武士が鬼の討伐に狩り出されていた。
そして、江戸の一角にある此処、足利道場も例外ではない。
「兄様、今日こそは稽古のお相手を…」
障子を開けると部屋には誰も居なかった。
机の上に置かれた文には、丁寧な字で『隣村へ行って来る』とだけ書かれていた。
しかし、鬼の討伐にはかなりの時間を要する。人間一人でどうこう出来る相手ではないのだ。
兄は文官に向いているのではと満は思う。
足利家は代々政治には疎いのだ。
女の身である満には、武士として刀を振るうことも、政治に参加する立場でもない。
足利家の養女として、別の武家へ嫁ぐのが役目だ。
女人は大人になると生家を出て、新しい家族を迎える。
それが通例なのだ。
「私は嫁ぐより、兄様の様に刀を振るったり、体術で負かす方が好きなのに…」
そう呟きながら、自分の部屋へ戻る。
幼いころから兄と稽古を積んできた。剣術も体術も、兄に負けたことなど一度もない。
昔から怪力持ちで、家の家宝の花瓶を割っては怒られた。
歳はもうすぐ十八。もう大人である。しかし、どの家もそれどころではないのだ。
袴を履き、長い黒髪を後ろにまとめて結う。
童顔故に、男装すれば武士にはみえる。
腰に小太刀と差すと、隣村へ急いだ。
今から急いでも、隣村に着く頃には夕方になるだろう。
季節が冬が故に、辺りは薄暗い。
「この山を越えれば、村へ着きますね」
そして方向音痴に限って、普通の道を行こうとはしない。
山道を歩くこと半刻。
もう、辺りは暗い。
満は村へ行くことも叶わなければ、後へ引き返す事も出来なかった。
完全に迷ったのだ。
「進路も退路も断たれたとは、このような状況でしょうか?」
半べそをかきながら辺りを見回す。
雲が月を覆い隠し、動けるような状態ではなかった。
松明を持ってくれば良かったと少し後悔する。
その時、獣の様な咆哮が山全体に木霊する。
鳥が一斉に羽ばたいた。
地響きがして、とてつもなく大きな何かが木々を破壊しながら向かってきた。
耳鳴りが激しい。足に力が入らない。
逃げなければいけないのに、身体が言うことを聞かない。
赤い大きな体。頭から生える巨大な角。金色に光る大きな目。
幼いころ、絵巻物で見た姿だった。しかし、絵よりずっと恐ろしい。
その大きな手は、満を簡単に掴んだ。
いくら怪力でも、手を塞がれてしまっては、身動きなどできない。
骨が折れていないことが奇跡に等しかった。
鬼の大きな口が開き、形の良い牙が覗く。
「いやぁぁぁーーー!」
山に悲鳴が木霊する。
えーと、第一話にして主人公が登場しないという事態になりました。
次は必ず出しますので、温かい目で見守って下さるとありがたいです。
長くなりましたが、感想やコメント送ってくれると幸いです。