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探偵たちに歴史はない

前作

探偵たちに時間はない

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・アルファポリス

https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/888396203

・カクヨム

https://kakuyomu.jp/users/tanteitocake

・エブリスタ

https://estar.jp/users/1489121538

・pixiv

https://www.pixiv.net/users/53107717

で公開済みの作品のブラッシュアップ後一気読み版となります。

二〇二八年十一月一日、秋の柔らかな光が「探偵社アネモネ」の窓から差し込んでいた。窓際に立つと、街路樹が黄金色に輝き、風にそよぐ葉がカサカサと心地よい音を立てている。銀杏並木の先には、古びたレンガ造りの建物が並び、時間の流れに逆らうかのように静かに佇んでいる。

外の空気はひんやりとしていそうだ。ほんのりと湿った土の香りが漂っている。秋の深まりを感じさせるその香りは、心を落ち着かせると同時に、何かしらの冒険を予感させるものだった。空の青が澄みわたり、透明感が増す様子がどこか懐かしさを呼び起こす。

探偵社の中には、三人の若き探偵が集まっていた。外の景色を眺めながら、彼らは次なる事件の気配を感じ取っていた。この街には、まだ解明されるべき謎が無数に存在する。黄昏時の空が橙色に染まり、夜の帳がゆっくりと降り始める様子が、一層その雰囲気を引き立て――

「……そうだったら良いけどなー」

探偵のうちの一人、光岡(みつおか)陽希(はるき)が頭の後ろで両手を組み、口を開いた。彼の後ろからやってきた(たちばな)理人(りひと)が、彼に紅茶を出しながら、「こら」と諫める。

「探偵社アネモネ」では、久しく依頼人が来ていなかった。この事態に、当然、所長である海老原(えびはら)水樹(みずき)も危機感を覚えてはいる。しかし、宣伝をしても、結局その分で赤字であろうことは、容易に想像できた。

そもそも、「探偵社アネモネ」には、従業員が三人しかいない。ロシアンブルーのように滑らかな髪をした、海老原水樹。オーボエのような声をした、橘理人。いくつものピアスをつけ、アプリコットジャムの色の髪をした、シャムネコのような顔の光岡陽希。この三人だけで、もう十年ほど事務所を回している。三人とも同じ二十九歳で、十年以上探偵業しかしたことがなく、広告をデザインできるような人物がいないのだ。

「陽希! ずっとソファでごろごろしているなら、何か事務所の宣伝文句でも考えてください。どうせ、そうやってネットサーフィンしているだけでしょう? この間だって、フェイクニュースにまんまと引っかかっていたじゃないですか」

「ふふーん。もう引っかからないもんね。理人ちゃんから、フェイクニュースの見分け方を教わったし! AIで作られた人物には、目の奥に『AI』って消せないマークが入ってるんだって」

 どや顔で、スマホの画面を思いきり此方に向けられる。ここまで言い切られると気になったが、そそっかしい陽希の、たった一個の優位な点を誇るような顔を見ると、質問するのも癪だ。

「僕だって、そんなこと知ってます」

「まあまあ、水樹。探偵が暇なんて良いことでしょう?」

理人は穏やかに笑っているが、陽希は欠伸し、水樹は頭を抱えた。

その時である。

青いソファでぐったりしていた陽希が、急に頭を上げて叫んだ。

「お客さんだぁ!」

陽希は耳が良い。ほどなくして、階段を上がって来る軽やかな足音が水樹にも聞こえてきて、事務所のドアが、ぱぁんと開いた。差し込む光が眩しい。

現れたのは、短めの茶髪でスマートフォンを握り締めた女性だった。つい、探偵の性か、水樹は彼女の全身を見てしまう。ベージュのトレンチコートにピンクのニット、ブラックのスキニーパンツ。足元は黒のローファー。

桜庭(さくらば)汐海(しおり)と申します! 『探偵社アネモネ』は、此方ですか? 私の同級生の麻理香ちゃんを探してください! 消えちゃったんです! 忽然と!」

***

明らかに興奮した様子の汐海を、事務所の青いソファに何とか座らせた。先ずは落ち着かせるために、理人が紅茶を淹れにいく。

水樹は、汐海の話を聞きつつ、テーブルに投げられるように広げられた、汐海からの書類を整理し始めた。

どうやら彼女の同級生である神崎麻理香が消えたらしいのだ。行方不明になる前に最後に目撃されたのは、二人でルームシェアしているマンションということだった。彼女らは何方も大学生で、大学院に進学が決まっている才女だったらしい。

「お二人は、どのような学問を?」

「私も麻理香ちゃんも、考古学をやっています」

理人が運んできた紅茶を一口啜り、汐海は少し落ち着きを取り戻したようだった。ベルガモットの爽やかな香りが、ふわっと事務所の中に漂う。

水樹は書類に綴られた情報を確認しながら、汐海の話に耳を傾けた。その資料の中に、麻理香の写真があった。長い黒髪をポニーテールにし、眼鏡をかけて、カジュアルな服装に身を包んでいる。前髪に二本のピン。マンボウの飾りがついたものと、猫の飾りがついたもの。

麻理香が行方不明になった日、汐海とルームシェアをしているマンションで、食事をする予定だったそうだ。食事の準備のために二人で台所に立った時に姿を消したらしい。キッチンにはサラダ油の入った皿が倒れていて、その隣には包丁が落ちていたという。

また、彼女の部屋も物色された形跡があり、クローゼットが開けられていた。鍵がかかっていたにも関わらず、どうやら室内に入り込まれているらしい。

麻理香は、警察の調べによると死亡しているということになりそうだったが、汐海はスマートフォンを両手で握り締め、

「麻理香ちゃんは生きています。絶対に!」

と、叫んだ。そう、信じたい気持ちも分からなくはない。現実がそうではなかったとしても、その望みがなかったら、汐海は潰れてしまうだろう。

水樹は書類に綴られた情報を読み終えると、汐海に笑いかけた。

「僕たち『探偵社アネモネ』が、あなたの依頼をお受けしましょう」

***

その二日後に、水樹ら「探偵社アネモネ」の三人は、麻理香と汐海がルームシェアをしていたマンションの部屋の前に来た。モダンなデザインが目を引くマンション。外観は淡いグレーを基調に、コンクリート打ちっぱなしの壁がスタイリッシュな印象を与える。エントランスは広々としており、ガラス扉が光を受けて透明感を放っている。エントランス周辺には、秋の花々が色とりどりに咲いている。オレンジのマリーゴールド、紫のアスターが揃い、季節の彩りを添えている。これが、住人たちの忙しい日常の中に、癒しを提供しているのだろう。

事前に聞いていた話では、汐海が帰宅し、鍵を使って扉を開けたら――すでに部屋は何者かによって荒らされた後だったようである。

「麻理香ちゃんがいなくなってからは、ビジネスホテルに泊まっていて、帰ってません。怖くて」

と、泣きそうになっていた汐海から、鍵は借りている。

「理人、間取りについても良くメモを取ってください」

水樹は理人に声を投げる。先ずは玄関。靴箱に数足の女性物の靴が並び、傘立てには、青いビニール傘が一本だけ。そして、中は白を基調としたインテリアで統一されている。

水樹らが中に入ると、まずは正面の短い廊下があり、左側にトイレや洗面所に繋がる扉。右側には二つ部屋があるようだ。

「汐海さんから頂いた間取り図によると、手前の部屋がリビング、其処から繋がる形で、奥がダイニングです。全体的に色合いが白と黄で統一されていて、素敵なマンションですね」

水樹は理人の言葉に頷きながら、手前の部屋に入った。リビングには大きなソファがあり、その奥にダイニングキッチンがあるようだ。理人は水樹に続いて部屋に入り、「とても綺麗に片付けられていますね」と呟いた。

直後、リビングの中央でしゃがみ込むと、黄色いカーペットをめくり上げる。陽希も、隣から首を伸ばすようにしてそれを覗き、特に何もないことを確認した。

「リビングは荒れていないです。本当に、犯人たちは入って来て真っすぐ、麻理香さんを狙って襲ったらしい」

水樹は腕を組んで呟いた。続いて、理人が、陽希と二人で手前の部屋から順番に扉を開けていく。部屋の雰囲気や間取りは汐海から聞いた情報の通りだった。

「麻理香さんは、バイトもしていないし、御実家との関係性も良好。となると……やはり、大学内で問題が起きたとしか思えないですね」

水樹が腕組みして唸っていると、理人は整った眉を困ったようにハの字にし、

「と言うことは……」

「ええ、理人、およそお前の想像のとおりですよ。大学に、潜入捜査します」

「わーい、大学生活楽しそうー!」

もろ手を挙げて喜んでいるのは陽希だけだ。水樹と理人は額を押さえた。長丁場になりそうだ。



神崎総合研究大学。多岐にわたる学問分野を誇るこの大学では、歴史の深い校舎が魅力的だ。麻理香と汐海が在籍する大学である。

「どう見ても、大学生という雰囲気ではないですよね」

その大学の校門で、理人は顎に手をやり、眉を下げて困ったような笑みを見せた。ライトグレーのカーディガン、白いチノシャツ、ダークグレーのスリムフィットパンツ、ブラウンのレザーブーツ、シルバーの腕時計。彼が持ちうる「大学生の服」というイメージで揃えて来たと、事前に水樹と電話した際にも言っていた。しかし、まもなく三十歳になる体に着ると、どう頑張っても大学生には見えない。

「厳しいかもしれませんね、理人」

「ですよね……」

かく言う水樹も、しょげる理人の隣に並んで自分の姿を見下ろすと、似たようなものだった。ベージュのクラシックなストライプ柄のシャツ、オリーブグリーンのスリムフィットのチノパンツ。更にその一歩後ろにいる陽希は、カラフルなグラフィックTシャツとオーバーサイズのフーディー、カーゴパンツ、バケットハットを身に着けている。世代が若ければ若いほど、流行の変化は速いから、恐らく自分たちのような格好の生徒が他にいないであろうことは、想像に難くなかった。

しかし、一先ず此処は、大学生になりきるしかない。三人、校門に並んで立っていると、汐海が髪を揺らして走って来た。

「わざわざ来てくださってありがとうございます」

「此方こそ、方々に手を回して頂きありがとうございます。今日からの僕らの潜入捜査、バレてはいませんか?」

 水樹の、小首を傾げての問いかけに、汐海はあたりを見回して、水樹に顔を寄せて囁いた。

「取り敢えず、同じ学部の仲間にも内緒にしてあるので……バレていないと思います」

「ありがとうございます。案内をよろしくお願いいたします」

「こちらです!」

***

考古学の部屋に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、古びた木製の書棚に並ぶ数々の歴史的な書籍や資料だった。書棚の木は、何十年もの時を経て濃いアンバー色に変わり、その表面には無数の小さな傷跡が刻まれている。書棚の上には、埃をかぶった古代の土器や彫刻。過去の遺物が無言の語り手となっている。

部屋の中央には、長いオークのテーブル。そこには様々な発掘物が並べられている。テーブルの上には、古代のコインや壷の欠片、風化した石板などがあり、それぞれにラベルがつけられていて、その由来や発見場所が記されている。窓から差し込む柔らかな自然光が、これらの遺物に当たり、微かな陰影を作り出す。

部屋の奥には、ガラスケースに収められた貴重な遺物が展示されている。ケースの中には、保存状態の良い古代のジュエリーや彫刻があり、ガラス越しにその繊細な細工が見て取れる。ガラスは時折、部屋の中の光を反射し、まるでこれらの遺物が再び生命を帯びたかのように輝く。

部屋に漂うのは、古い紙と木の香り、そしてわずかにかび臭いにおい。この独特のにおいは、過去と現在が交錯する考古学の部屋ならではのものだろう。壁には、様々な発掘現場の写真や地図が貼られており、考古学の部屋に訪れる者にとって、ここが歴史の探求の場であることを物語っている。

「先生! 以前お話していた、他校の考古学部の皆さんを、お連れしました」

汐海が言うと、テーブルの向こう側にいた生徒らしき人たちの、更に奥にいた男性が振り返った。

「鷹見教授です」

「教授の鷹見隆道です。私の学部へようこそ」

水樹に手を伸ばしてきた隆道その人は、白髪が混じり始めた髪に、眼鏡をかけている。背が高く、風格があるように見えた。

「海老原水樹と申します」

水樹は人当たりの良さそうな笑みを作って、隆道が差し出してきた手を掴んだ。続いて、他の「探偵社アネモネ」のメンバーも手を伸ばす。

「橘理人です」

「光岡陽希でーす」

「ええ、三人とも、よろしくお願いします。私の学部の生徒達も紹介しよう」

と、達道は奥から生徒たちを呼び、一人一人を並べて、自己紹介をさせてくれた。名乗る際に一歩ずつ前に出てくれる彼らを、水樹は頭にメモするように、記憶した。

葉山優子。黒いショートカットで、知的な雰囲気。白のブラウスに黒のタイトスカート、黒のパンプス。シンプルなパールのネックレスをしている。

雨宮健吾。中肉中背で、ややくたびれたスーツを着用。無精髭を生やしている。

橘ひかる。明るい茶髪で、カジュアルなファッションが特徴。背が低く、元気いっぱいの雰囲気。明るいイエローのフーディに、ライトブルーのデニムショートパンツ。足元はカラフルなスニーカー。

「あとは、貴方達を紹介してくれた桜庭君です。うちの学部、楽しんでいってくださいね」

「よろしくお願いします」

隆道が締めた直後に、「探偵社アネモネ」のメンバーと、生徒たちの声が重なった。

***

また、皆が各々の研究に向かい始めたところで、水樹は偶然一番近くにいた、ひかるに声をかけた。

「鷹見教授の論文を拝読したのですが、今までに発見されていないが、存在が噂されている謎の文明について書かれていて、とても興味深かったです」

詳しい話を、汐海に訊いても良かったのだが、こうして学部の中の生徒と、コミュニケーションを取るきっかけにする目論見もあった。ひかるは水樹をまっすぐ振り返り、大きな赤茶色の双眸を輝かせて、

「そう! そうなんです。ヴェルミル文明と言って、もしも実在することが分かったら、発祥は此の大学のすぐ裏手にある小さな丘の辺りだったとされていて、世紀の大発見になるかもしれないんですよ!」

と、半ば叫ぶように言って、両手を広げた。

水樹が事前に読んで来た資料に、ヴェルミル文明についての記載はこうあった。


僅かに残されている資料によると、ヴェルミルの語源は、文明内の言語で「虫」と「世界」に由来する。これにより、「虫の世界」という意味を持つが、ここでの「虫」は生命の象徴として使われている。ヴェルミル文明は、自然との共生と再生のサイクルを重んじる文化を持っており、土地の豊かさと生命の循環を象徴する名前として「ヴェルミル」が選ばれた。

また、ヴェルミル文明はその独自の建築様式や芸術作品でも知られている。鮮やかな赤と金を基調とした色彩が特徴で、これは彼らの信仰する太陽神の象徴でもある。遺跡から発掘された工芸品や文献から、ヴェルミル人が高度な天文学と農業技術を持っていたことが明らかになっている。

このようにして、ヴェルミル文明はその名称に込められた深い意味と歴史的背景を持つ、豊かで神秘的な文明として描かれている。


「ヴェルミル文明について、ほんの僅かにあった資料を見つけたのは、何を隠そう鷹見教授なんですよー!」

流石ですね、と水樹が相槌を打とうとしたところで、健吾が、じめっとした声で割って入った。

「成果が全く出ていないのに、こんな研究良く続けると思いますよね」

「雨宮君」

優子が咎めるような声で言ったが、健吾は唇を尖らせて続ける。

「鷹見教授は、変わり者で有名なんです。他の教授たちとの交流もほとんどないし、休み時間はいつも難しい顔をして、変な絵柄のカップに苦そうなコーヒーを淹れて、それを啜りながら外を見て。僕は、あんな研究者には、なりたくないなぁ」

「鷹見教授は優秀な教授ですよ」

優子は水樹と健吾の間に入って、引き攣ったような笑みを浮かべた。しかし、健吾は唇を尖らせ、引き続き、ぶつぶつと言葉を続ける。

「こっちは、ヴェルミル文明を調べられるのが、此処しかなかったから入っただけですし……」

「ヴェルミル文明についての資料は本当に少ないのですが、この大学のすぐ傍で、見つかったんです」

優子が、健吾の声をかき消すように言った。

「この大学の向かいにあったでしょう、今は廃校になった小学校。其処に資料が残っていたんだって、鷹見教授が仰っていました」

「神崎小学校ですね」

「やっぱり御存じでしたか。神崎小学校の校舎の何処にあったのかは分からないですが、多分図書室とかに残っていたのかしら。この地域で、噂自体はそもそもあったんですけれど、その資料が見つかったのは、それが初めてだったんです」

その後は、講義が始まるまで優子の話を聞いた。

***

大学の食堂は、独特の明るさがある。学生たちの活気と談笑の場だ。広々としたスペースには長テーブルと椅子が整然と並び、自然光が大きな窓から差し込む。壁には学生たちの活動やイベントのポスターが色鮮やかに貼られている。食堂のカウンターには、日替わり定食やカレーライス、ミートソースやカルボナーラなど、様々な料理が並び、香ばしい匂いが空気を包む。フライの音と共に、笑顔のスタッフが忙しそうに動き回る。学生たちは友人と一緒に食事を楽しみ、温かい雰囲気に包まれている。デザートにはプリンやフルーツポンチが用意されており、食事の後の楽しみも充実しているようだ。コーヒーやジュースなどのドリンクも豊富に揃い、学生たちは好きなものを選び、楽しいひとときを過ごしている。

水樹たち探偵社の三人は並んで座り、水樹の向かいに座った汐海は、身を乗り出していった。

「どうですか? 何か分かりそうですか?」

水樹はカルボナーラを口に運びながら、首を横に振った。そして飲み込んだ後に答える。

「未だ、調べ始めたばかりで何とも。ただ、御学友たちの雰囲気におかしいところはありませんでしたね」

 汐海はうなだれて落ち込んでしまったが、こういうことに関して依頼人に嘘を吐くのは、かえって不誠実である。

「ヴェルミル文明は、もしその全貌が分かった場合、日本の歴史文化が変わるレベルの大発見なんです。だから、麻理香ちゃんも命を狙われてしまったのかも……」

「一度、小学校も調べておいた方が良いでしょうか」

理人の問いに先に反応したのは、暗い顔になった汐海ではなく、陽希だった。

「やっぱり何事も実際に見てみないと分からないからね」

陽希は、いつになく真面目な顔つきと口調で、断言した。

***

汐海がお手洗いに立っている間に、探偵社の三人だけで、一度話し合いをすることにした。

陽希は、アプリコットジャムのような色の髪をピアスだらけの耳にかけ、シチューを口に運びながら、言った。

「ヴェルミル文明について解き明かせば、滅茶苦茶金持ちになれるかもしれないわけじゃん? だったら、麻理香ちゃんが、ヴェルミル文明の秘密を握っちゃってー、それを知った誰かに、やられちゃった可能性もあると思うんだよねぇ」

シチューは、一見して温かさと豊かさを感じさせる。クリーミーなソースが鮮やかな野菜と柔らかなチキンを包み込み、見た目にも美しい。じゃがいもや人参、玉ねぎが皿の中で色とりどりに配置され、食欲をそそりそうだ。バターとミルクの香りがほんのり漂い、一口すくうたびにスプーンには濃厚なシチューがたっぷりと絡んでいる。水樹は水を喉に通しながら、頷いた。

「早く動くべきだというのは、僕も同意です。麻理香さんが誰かに誘拐されたのだとしたら、犯人らから身代金の要求も、何もないわけですから、殺害はしていないまでも、何処かに売り飛ばされるなど、悲しいことになっているかもしれない」

かつて、血縁者の女性から襲われた経験を持ち、それにいまだに苦しむ理人を前にしては言えなかったが、どこかに売られてしまっている可能性もあるだろう。とにかく、急がなくてはと思った。

***

汐海を案内係にし、「探偵社アネモネ」の三人は神崎小学校を訪れた。大学から歩いて、ほんの数百メートルであるが、活気のある大学内その周りとは全く異なり、既に窓ガラスが割れ、蔦に覆われた小学校の校舎は、何処となくモンスターのようで恐ろしい。

「一度、ヴェルミル文明に関する文献が出てから、神崎小学校への一般の方々の出入りが禁止になっているんです。入れるのはうちの大学の生徒だけで、鍵は私たち考古学部の人たちだけが持ってるんですよー。入ったこと、内緒にしてくださいね」

「勿論です、我々は探偵ですので、捜査に関する秘密は保持しますよ」

女性と話すのが得意な理人が、オーボエのような声で告げると、汐海はすぐに安心したようだった。実際には、昔少しだけやんちゃだったという陽希に頼めば、鍵開けなんて簡単にできるのだが、それはいざという時の手段として取っておきたい。

校舎の中は、ずっと閉め切っていた建物特有の、黴臭さがあった。

「教授は図書室で資料を見つけたそうです。その資料そのものは、写しを取って、戻したそうです。私も読みましたが、他の資料を探すのならば図書室に行ってみますか?」

「そうですね、まずは其処を目指しながら、道中をよく観察していきましょう」

古い小学校というのは、水樹にとって実に動き回りにくい。水樹は片足が不自由で、平らなところでも杖が必要である。上下の移動が全部階段という環境は、修行のようだった。一階移動しただけで汗がにじむ。

「おんぶしましょうか……」

理人が心配してくれたが、首を左右に振る。

「さすがに僕は重いですよ。早急に小学校のバリアフリー化を進めるべきですね」

実際、ある事故で怪我をする前、自分が小学生の時は両足が動いていたので、感じたことがなかった。必然的に、足元をよく見る機会にはなった。その過程で、二階から三階に移動する途中の段で、一個光るものを見つけた。しゃがむことができないので、理人を呼んで拾い上げてもらうと、マンボウの飾りがついた髪留めのピンである。

少し先を歩いていた汐海が、飛ぶように水樹のところへ来て、そのピンを奪うように手に取った。そして、悲痛な声を上げる。

「これ……麻理香ちゃんのお気に入りのピン留めです! どうしてこんなところに」

水樹は無意識に顎に手をやった。

「まず、彼女は、この小学校を訪れていたことが分かりましたね。そして、これがお気に入りのピン留めであれば、落ちたら気付いて拾っているでしょう。飾りがかなり大きいですから、床に落ちれば跳ねて音がしますから。それを、落としたまま立ち去るということは、恐らくその余裕もなかったからではないでしょうか」

「麻理香ちゃんは、ここで連れ去られたかもしれない……? じゃあ、マンションが荒れていたのは?」

「連れ去ったくらいですから、鍵を奪って開けて、マンションで連れ去られたように偽装したのでしょう」

 人差し指を立てて、推論を続ける。

「そうだとしたら、もう一つ、確定することがあります。家の鍵を奪ったところで、彼女の家がどこにあるかを知らなければ、意味がありません。依って、犯人は家の場所まで知っていた人物」

「水樹」

理人に窘められ、ハッとなって口を噤む。汐海が真っ青になって、うつむいているのにようやく気付いた。目を膜で覆うように涙が光っている。

水樹は、汐海に近寄り、手を取った。

「……大丈夫! 僕たちが動き出したのですから。いや、大丈夫にします、きっと、大丈夫にしてみせます」

汐海は言葉こそなかったが、何度も頷いていた。

***

図書室に到着した。もう借りる者もいない本が整然と並び、古い本特有の匂いが充満している。グレーのカーペットの床を進む。一応、いくらかの本は別の学校か何かに持ち出されたのか、棚がごっそりとカラになっている部分もあるが、とはいえ、この本を片端から見るというのは無理だ。

「どのあたりの書籍であったか、教授から話はありましたか?」

「そこまでは。ただ、歴史の本が他にもたくさんあったって言ってたから、あのあたりじゃないでしょうか」

それを聞くと、何も言わずとも水樹と理人と陽希で「歴史」と書かれた札が天井から下がっているあたりに歩み寄って、本棚から一冊ずつ本を抜き、中に目を通し始める。水樹が三冊目くらいを手に取り、開いた瞬間だった。

床に一枚のメモが落ちたのは。

ひらりひらりと、花びらのように回転して落ちていくものだから、簡単には拾えず、運動神経の良い陽希がキャッチした。

「何だろ、このメモ。変な字が書いてある」

水樹が手を伸ばすと、其処に陽希がメモを乗せる。白い紙きれだったのだろうが、古く黄ばんで、何色だったか分からない色の抜けたインクで、次のように文字が並んでいた。


"Uv fdxswf xq hylh gnblfkpqy gm vgl gnsq excmoyrf si pfi."

"Ulv njwdkv gr srvs fvmh zsposwo lg, 'O dlpbyvec ahxtnh grwt si bvz et cpv 12'."


「子供の悪戯かな」

そう言ったのは汐海だけで、水樹たちは、そのメモをじっと見て立ち尽くしていた。


***

水樹たちは結局、そのメモと幾らかの書籍のページを写真で撮影して探偵事務所に帰って来た。しかし、実際のところ、確かに結果が出せそうな捜査方針も、現状ないというのが事実だ。

真っ青なソファに座って、水樹は頭を両手で押さえた。

その時、目の前に、小さな木のプレートに美しく並べられたミニクロワッサンサンドが置かれた。ハッとなって顔を上げると、理人が立っている。整った黒い眉を下げ、不安そうに目を覗き込んで来た。

「コーヒーもすぐにお持ちしますから、召し上がってください。何か食べないと、もちませんよ」

壁にかかった時計を見ると、いつの間にか日付が変わっていた。陽希は別の椅子に座ったまま、船を漕いでいる。

「正直、食べる気がしないのですが」

「水樹、貴方の悪い癖ですね。ひとたび仕事となると、寝食も忘れて取り組む。貴方は素晴らしい探偵です、が、栄養を摂ってからの方が、頭も回るというものですよ」

「子供扱いしないでください」

少し頬を赤くして水樹が言うと、理人は苦笑を浮かべ、今度は陽希に毛布をかけた。

何はともあれ、出された料理を食べてみることにする。サンドの中には、新鮮なハムとクリーミーなブリーチーズが挟まれており、ルッコラの緑が鮮やかに映えている。クロワッサンの外側はサクサクとした食感を保ち、中はバターの香りが広がるふんわりとした生地。一口かじると、ハムの塩気が絶妙で、ルッコラのほろ苦さが味を引き締める。そのころ届けられた珈琲を一口飲むと、水樹は頭を下げた。

「美味しいです。ごちそうさまでした」

「いいえ。それでは、残りの仕事を片付けていきましょうか。お手伝いします」

理人は水樹の横に座ると、散らばっていた書類を手でまとめる間に、思考もまとめるように話し出した。さりげなく、他人に頼るのが嫌いな水樹が気を利かせなくても良いように、先回りして動いてくれる。理人は優しい人だ。

「……このメモに残った暗号は、ヴィジュネル暗号という感じがしますよね」

 水樹が言うと、理人は、先の図書室で見つけたメモの写真を取り出して、水樹の前に置いてくれた。

「ええ。キーワードが分からないので、全く解けそうもありませんね。まぁ、この謎の文章に意味があるのかどうか、そもそも分からないのですが。ただの子供の思い付きにしては手が込んでいる気がします」

「何とかヒントだけでも出ないものでしょうか? 現れる回数の多い文字を確認していく、頻度分析というやつです。例えば、『l』や『v』が英文には多く現れますから……」

「水樹。お言葉ですが、麻理香さんの失踪の謎に、この暗号が関わっている、とすら確信が持てない今、此処に時間を割くことはできないでしょう?」

「ただ、あの小学校には何かある」

 水樹は虚空をにらみつけて、そう呟いた。

***

明くる日、引き続き大学を訪れた「探偵社アネモネ」の面々。朝が早かったからか、考古学部の人たちは、珈琲を飲んでいた。

「教授、また可愛いマグカップ使ってますねー」

汐海が隆道の左側から身を寄せるようにして手元を覗き込み、笑う。それは確かに愛らしい、クレヨンらしき画材でウサギの絵が描かれたマグカップである。

「本当だ、可愛いー! お子さんが描いたんですか?」

 陽希も、隆道の右側から身を寄せるようにして、声を弾ませる。すると、隆道は困ったように眉を下げて、曇った声で答えた。

「……まぁ、子供が描いたことは事実です。私の子供ではありませんがね」

陽希が更に質問を重ねようとしたものの、各々が自身のマグカップの話を始めてしまったので、タイミングを失ったようだ。

「文明の資料が見つかったという、神崎小学校のことについて聞かせていただけませんか」

進展しない調査に焦りもあったが、水樹は、マグカップの話が一秒途切れたところで、迷わずに神崎小学校について口にした。何も分かっていない状況で、手札を隠していても意味はない。

「この学部は、偶然、神崎小学校の出身者が多いんですよ。全員、井の中の蛙大海を知らずというか、挑戦しないんだ」

健吾が唇を尖らせる。すると、優子が穏やかに笑って、こう答えた。

「私の家、代々この近くに住んでいますから、父母も兄も、神崎小学校の出身ですよ。私も、勿論」

水樹が前のめりになると、流石の優子も一瞬ぐっと首を引いたが、すぐに目を細める。

「明日、うちから何か、資料をお持ちしますね。と、言っても別に、ごくごく一般的な小学校ですから、たいしたものはないですが……写真や、卒業アルバムですとか……家族の分も」

「ありがとうございます。ご都合の良い時間と場所を教えてください。取りに伺いますので。理人」

優子の横に立っていた理人が、水樹の呼びかけですぐに手帳を開いてメモを取り始めたものだから、全員が少し引いたのが水樹には分かった。取り敢えず理人の背中を叩いて、アイコンタクトを送って、それからにこにこと笑みを作って見せておいた。



翌日、古い木製のドアをくぐると、温かい琥珀色の照明が優しく迎えてくれる喫茶店「ひだまり」。壁にはセピア色の年代物のポスターと絵画が並び、アンティークの真鍮の時計が静かに時を刻む。窓際の席にはふんわりとしたクリーム色のクッションが置かれ、テーブルには季節の花が彩りを。カウンター越しには、白髪交じりの短髪のマスターが手際よくコーヒーを淹れる姿が見え、深い香りが店内に広がる。穏やかなジャズの音楽が流れ、心地よい時間がゆっくりと流れていた。

待ち合わせた優子が来る前に、優子に連絡して許可を取ってから、「探偵社アネモネ」の三人で珈琲を頼んだ。

「あの……水樹、私の気にすぎかもしれないのですが」

 水樹が珈琲を一口含んだところで、理人が右隣の席から声をかけて来た。

「神崎大学で、考古学部で皆さんとお話していた時、妙な視線を感じました」

「妙な視線?」

「ええ、今も」

 水樹は全く気付いていなかったので、小首を傾げ、声を潜めて聞き返す。陽希も巨大なBLTサンドにかじりつき、理人の顔を覗き込んだ。

理人は辺りを見回してから、口元に手をやり、しばし考えこんでから答える。

「視線を感じたのは、我々が優子さんと待ち合わせした瞬間でした。そう考えると……優子さんに特別な好意を抱いている方からの嫉妬かもしれません」

水樹と陽希は、ガクッと体を前に倒した。

「……それなら別に、構わないでしょう。簡単です。今回の依頼が解決すれば、誤解は解けますから」

「そうですね。お騒がせしました」

其処へ、優子がやって来た。

「遅くなってしまって申し訳ありません」

白いブラウスは、柔らかくもありながらきちんとした印象を与える。襟元は程よく開き、控えめなパールのネックレスが輝きを添えている。その上に羽織ったネイビーのカーディガンは、袖を少しだけ捲り、手首に見えるのはシルバーのスリムな腕時計。「探偵社アネモネ」の三人は、軽く腰を浮かせて、頭を下げた。

優子は先ず珈琲を頼み、それが届く前に鞄から資料を取り出した。

「私の両親と兄弟、私の小学校の時の資料です」

「ありがとうございます」

卒業アルバムや文集に目を通す。小学生たちの作文も、頭に叩き込んでいく。水樹は文章を読むのは得意だった。だが、特段、捜査の進展になりそうな資料は見当たらない。理人と陽希にも視線を送り、何かないか確認するが、二人同時に首を左右に振るだけだった。

諦めかけた時、ふと、学級通信が目に留まる。近年は、資源の保全の為か生徒たちに配布されていないのかもしれないが、当時はクラスの活動の様子を、時折担任教師がまとめてプリントとして配っていたのだ。

それぞれの学級で、その月に起きたイベントが、それらのプリントに、写真付きで紹介されている。校庭で雪だるまを作る雪だるま大会、春の遠足から、学習発表会など。

「行事が多くて、楽しそうな学校ですね」

 理人が穏やかに感想を述べると、優子はプリントを自分以外が見やすいように並べつつ、頷いた。

「神崎小学校では、卒業式の後、校庭の裏庭に、タイムカプセルを埋めるっていう行事もあるんです。遺跡の話が出たうえ、更に小学校自体が廃校になってしまったから、もう掘り起こす機会はないのかもしれませんが……」

「この写真は?」

水樹が指を指した先には、数人の子供が和気あいあいと何かの作業をしている写真があった。優子もそれを軽く覗き込んで、ああ、と声を出す。

「これは、父の写真ですね。神崎小学校では、三年生と四年生の時に、『先輩と遊ぶ会』という会が年一回開かれるので、その時の写真だと思います。それぞれの学年の時に、六年生が教室へ来てくれるんです」

「この子が持っているマグカップ、見たことありませんか」

理人も陽希も顔を寄せる。一人の男児の手に握られたマグカップ、其処には確かに、幼児が描いたような兎の絵がある。優子が、あっ、と声を上げた。

「これ、鷹見教授が持っていらっしゃるマグカップ?」

其処から全員がしばし無言になったことが、優子のつぶやきに対する同意であった。

「鷹見教授も、神崎小学校の出身者だった。なのに、あの時に会話に混ざって来なかったのは、僕としては少し違和感があります」

「俺たちが夢中になって話してたから入りにくかったんじゃない?」

「……なら、良いのですが」

「……優子さんは、麻理香さんが行方不明になったことについて、どう考えていらっしゃいますか?」

理人が、オーボエのような声を潜めて、優子に問う。優子は俯き、指を組んで小さな声で答えた。

「恐ろしいな、と思います。ただ……」

言い淀んだところで、優子のスマートフォンが鳴った。優子は申し訳なさそうに、眉と頭を下げて店の出入り口の付近へ一度出ていく。

残された「探偵社アネモネ」の三人は、目を見合わせて、優子が言い淀んだ先を考えた。水樹の脳内には、優子が、「麻理香の失踪について」何かを知っているのではないかという閃きが浮かんでいた。

珈琲をまた口に含んだら、ちょうどここで飲み終わってしまった。店員に声をかけ、もう一杯のコーヒーを注文。それが届いて、なお――優子が席に戻って来ない。「探偵社アネモネ」の三人で麻理香の件について話をし、流石にそれも尽きたほど待ったが、戻らない。胸騒ぎを覚えて、水樹が杖を持って立ち上がると、理人も陽希も腰を上げた。

店の出入り口に来て、水樹は茫然としてしまった。優子がいなくなっていたからだ。

辺りを見回している間に、陽希が、「俺、探して来る」と、飛び出して行った。理人も、「一人きりになるのは危険です」と叫んでついて行く。水樹は走れないので、店内に残り、先ず優子にメッセージを送信。支払いを済ませつつ店員に、さりげなく「優子を見なかったか」と質問した。

「嗚呼、同席されていた女性の方なら、先ほど、出て行かれましたよ。男性の方と一緒に」

「男性? どんな男性でしたか? 服装や、年齢、特徴があれば何でも良いです」

店員は困惑したように首を左右に振る。彼女のポニーテールが揺れた。

「い、いえ……青っぽい毛糸の帽子と、ベンチコート、マスクを着けていらしたので、体形も顔も良く分かりかねます。申し訳ございません」

其処へ、理人と陽希が走って戻って来た。水樹の安全も心配していたようだった。矢張り優子の姿は何処にもないということだった。念のために水樹はスマートフォンを確認したが、メッセージは既読にすらなっていなかった。

***

翌日、「探偵社アネモネ」のメンバーは午前十時に、神崎大学の学食へ向かった。その入り口では真っ青になった汐海が立っていた。其処から視線だけで合図し、一旦外へ出て、自分たち以外いない校舎の裏側へ向かった。

「葉山さんまでいなくなってしまって……」

「矢張り、お戻りになりませんでしたか」

汐海はとうとう涙目になってしまう。水樹たち「探偵社アネモネ」の三人は、並んで深々と頭を下げた。

「大変申し訳ございませんでした。僕たちがついていながら」

「優子ちゃんがいなくなったのは、俺たちが喫茶店で喋ってた時だったんだ。麻理香ちゃんの失踪事件について、何かヒントがないかって、神崎小学校について質問してた最中だった。優子ちゃん、何か言いづらそうなことを言おうとしてた」

「そうだったんですか……」

「もしかすると、優子さんは、麻理香さんの失踪に関して非常に重要なことを、ご存じだったのではないかと、私たちは考えています。明らかに、貴女方が所属する学部で、事件が起きている。私たちに引き続き任せてくださいませんか?」

理人が言った言葉に、汐海は涙で真っ赤になった眼を上げた。

***

考古学の学部に向かうと、やはりかなり暗い雰囲気になっていた。生徒が二人も行方不明になり、今日の鷹見教授の講義は、当然だが暫く休講となったらしい。

学生たちは各々、椅子に座って額を覆ってうなだれ、教授本人は、窓に近い壁に寄りかかって腕を組んでいる。

「こんな時にお邪魔してしまい、申し訳ございません。優子さんと最後に会った友人として、どうしても直接、当時の状況をお話しておきたくて」

水樹が、彼らの中心点に、杖を支えに立って言う。そして、昨日の出来事を丁寧に説明した。汐海が苦しそうに胸を押さえている。

隆道が、窓の外を向いたまま、森閑とした声でつぶやいた。

「もう、これ以上、ヴェルミル文明の調査はしないでおこう」

その言葉が聞こえるか聞こえないかの、食い気味の段階で、雄吾が机を叩いて大声で叫んだ。

「ふざけるな! 俺たちがどれくらいの金をかけて、ヴェルミル文明の研究をしてきたと思ってるんだ!」

 隆道もいよいよ顔を上げ、汐海も隆道を見て固まっている。しかし、雄吾は顔を真っ赤にし、地団太を踏んで、「こんなところで諦めきれるかよ……」と吐き捨てて、飛び出した。

余りに突然の怒号で、誰もが固まってしまい、雄吾を追いかけられなかった。




結局、少し間をおいて隆道が雄吾を追ったが、それから一時間ほど探しても、見つからなかったらしい。隆道がそれを告げる為に大学に戻って来てからも、「探偵社アネモネ」のメンバーは雄吾をしばらく待ったが、戻らなかった。

「申し訳ないが、今日はお引き取り願いたい」

と、隆道が頭を下げたので、「探偵社アネモネ」のメンバーは、事務所に戻った。

***

一先ずは、全員で、普段来客用に使っているガラスのテーブルと、ブルーのソファを使って、そこに今回の依頼の資料となる写真を広げて、三人で腕組みして考え込んだ。

「しばらく、大学には伺えそうもないですね。水樹、この先どう捜査するおつもりですか?」

「汐海さんからお話を伺うことで情報を得つつ、神崎小学校について調査を深めたいところです」

「この資料、返せなかったねー……」

 目の前にある資料の半分は、優子が持って来てくれたものだ。

「これを置きっぱなしで行方不明になってしまわれたのだから、仕方ありませんよ。一応、見直してみますか」

 水樹は、そう言いながら、それらの資料を、片方の手に一枚ずつ手に取る。丁度、右手に持ったのが、生徒の作文を集めた文集だった。生徒の学年にかかわらず、ランク付けされ、掲載されている。そう言えば、これは流石に文章量が多く、億劫になって未だ読んでいなかったな、とその頁を捲る。運動会が楽しかった話や、出来なかった水泳ができるようになるうまで頑張った話など、作文の内容は様々だ。

「教師はこれを読んで吟味しているのですよね。児童の作文の良し悪しなんて、僕には全然分からないです」

「私も。教師の皆さんを尊敬します」

 理人も、そう言いながら、文集を覗き込んで来た。丁度其処から数頁を読み進めた先の、ある少女の作文で、水樹の目が留まる。


   だいすき だがし屋さん

六年一組 はなむら ひより

 ヴェルベット・スイートコーナーという、小さなだがし屋さんがあります。

えいがみたいな棚をのぞくと、きらきらした包装がいっぱいで、まるでお宝みたい!

ルンルン気分でお気に入りのキャンディを買うときは、本当に楽しいです。

ミルク味のチョコレートは、おばあちゃんも大好きだから、よく一緒に食べます。

ルビー色のラムネ玉も、とてもきれいで美味しいんです。

文具コーナーの近くには、小さなゲーム機も置いてあって、友だちとよく遊びます。

メロン味のガムを噛みながら、ゲームに夢中になると時間を忘れちゃうんです。

イタズラ好きな弟が、よくお菓子をつまみ食いしようとするので困ります。

のんびりとした午後に、だがし屋さんで過ごす時間は、私のお気に入りです。

秘かに、だがし屋さんには特別な空気が漂っている気がします。

ミステリーの本を読んでいると、どこかにお宝が隠されているんじゃないかと思う。

ツボのような形のお菓子入れを見たとき、ひょっとしたら宝箱かもと想像します。

ゆっくり歩いて帰る途中、袋から甘い匂いが広がります。

リスみたいに小さな口でチョコをかじるのが好きです。

のこぎり型の容器に入ったゼリーは、開けるたびにワクワクします。

きらめくラムネの粉を、一気に口に入れる瞬間が最高!

のどが渇いたら、冷たいサイダーで気分をリフレッシュします。

しお味のせんべいも忘れずに買うのが、私のルールです。

たのしい思い出をいっぱい作れる、だがし屋さんが、大好きです。


水樹は、この作文に顔を近づけた。

「……何か、この文章、妙ですね」

「小学生の文章ですから」

理人が困ったように眉をハの字にして笑っている。どうやら、文章の出来栄えを批評したと思われたらしい。水樹は、「僕を、子どもに対しても譲歩できない男みたいに誤解しないでください」と首を左右に振り、

「一文ごとに改行されていたり、内容の切り替えが急すぎたりしています」

と、呟きながら、作文のそれぞれの行の先頭の文字を突いていく。

「ヴ、エ、ル、ミ……『ヴェルミル文明の秘密』……?」

 その時、急に、陽希が「ヤバいって、これ!」と大声を上げたので、水樹と理人は顔を上げる。

「理人ちゃん、見て見て!」

陽希がスマートフォンの画面を印籠のように見せつけて来る。トレンドのトップにある文言が目に入って、水樹は鳥肌が立つのをはっきりと感じた。

それは、一つの動画だった。

黒髪の青年が空いている道路を歩いている。街灯が一瞬暗くなった瞬間、道路の脇から腕が伸びて来て、その青年の二の腕を掴み、画面の外へ引きずっていった。青年は、大きな声で助けを求め、叫んでいるが、誰も彼を救うものはいない。

「この服装……どこかで……」

顔をアップにすると、どう見てもそれは健吾のように見えた。そして更に、血の気が引く。

「健吾さんが、連れ去られた……?」

 水樹が言う直前に、「探偵社アネモネ」の三人は、同時に動き始めた。

三者三様、分担して動画の調査を始める。水樹は、拡散され続ける動画について、話題にしている人たちの内容を速読の容量で読み込んで分析し、この動画が撮られている場所を絞る。そして、候補を理人や陽希に共有した。陽希は、その場所の候補から、少しずつ範囲を狭めていく仕事だ。理人は、動画の発信元の特定を急いでいる。

三十分ほど経ったところで、水樹たち三人は一斉に立ち上がり、事務所の車であるプラムブラウンクリスタルマイカのタントに、全員飛び乗った。

運転席は陽希だ。理人は件の動画を再度チェックしている。

水樹は、少しでも情報を得ようと、窓の外を見た。これから、人が連れ去られた現場に向かうためか、日常の営みの中にどこか、かすかな異質さを感じてしまう。交差点を渡る人々の足取りは慌ただしく、その顔に浮かぶ、疲れたような表情は街灯の鈍い光に照らされて、影を深めている。繁華街を離れ、やや古びた住宅街に差し掛かると、道端に佇む猫が、車を目で追うように見つめていた。黒々とした毛並みの中に光る黄色い瞳は、無機質な街の空気と妙に調和する。遠くで鳴り響く救急車のサイレンが耳に届く。その音はどこか遠ざかりつつも、青年の心の奥底に薄い波紋を投げかけているようである。

水樹が窓から顔を戻すと、理人が口元を覆うように手をやって考え込んでいるのが目に入った。

「どうしました、理人?」

「いえ、この動画なのですが……」

理人が、シャンパンゴールドのノートパソコンの画面を水樹に向けて来る。その画面には、先ほどの、健吾が何者かに誘拐される一部始終が録画されている。

連れ去られる健吾を、理人が人形のような白く長い指を動かし、タッチ操作で拡大していく。腕を背中側に捻り上げられ、痛みに苦悶する健吾の顔を見ているのは辛い。しかし、其の目をどんどん拡大していくと――

瞳孔の真ん中に、周囲の景色ではないものが、映り込んでいる。水樹は画面から一センチくらいの距離まで顔を近づけ、其処に映っている文字のようなものを、読み解こうとした。

「えっと……この形からすると、『A』……『I』? 『AI』ですって!?」

「ええ。少なくとも、こちらの動画内の健吾さんは、Ai。この動画はフェイクニュースです」

 このような動画が、こんな状況で世界中に拡散される理由は何か。水樹は考えるよりも早く叫んでいた。

「陽希! 引き返してください。事務所が危ない」

***

「探偵社アネモネ」は、荒らされていた。

セキュリティーに関しては、個人情報を扱う職場であるため非常に強固なものだったが、工具らしきものを使われて、強引にドアや窓が破られていた。三人は、暫し茫然と立ち尽くすしかなかった。

何か盗まれたのか、壊されたのかは、後で警察を入れて確かめるしかないことは、三人ともすぐに分かった。ただ、明らかなことが一つだけある。

「……優子さんからいただいた資料が、根こそぎなくなっていますね」

水樹が呟くと、陽希がふらふらとテーブルに寄って行って、何もなくなっているテーブルを撫でた。

「どうしよう、優子さんが命懸けでくれた、大事な資料だったのに……」

理人が、そんな陽希に近寄って行って、その背を撫でる。だが、水樹は鼻を鳴らした。

「おどおどするんじゃありません。犯人の思うつぼですよ」

「だってー……」

「盗まれたということは、あの資料は重要だったということの、証明に他なりません。先ほどの文集の文面を、僕は暗記しています」

「文集の文面?」

陽希はインターネットを用いた調査に身を粉にしていた時だったので、聞いていなかっただろう。水樹は、覚えている文章を諳んじて、更に、その頭の文字だけを拾った。

「あの怪しげな作文の、それぞれの行の文頭の文字だけを拾うと、『ヴェルミル文明の秘密 ユリノキの下』となるのです」

「ゆりのき……? 百合って木に咲くんだっけ?」

「百合ではありませんよ、陽希。ユリノキはユリノキという植物です」

目を白黒させる陽希に、水樹はため息を吐く。本当に、興味のないことにはとんと興味がない奴だ。本棚から一冊の植物図鑑を取って来て、机上に広げる。其処には、ユリノキに関する記載が確かにあった。

「比較的、珍しい木です。更に、小学生の子どもが、この文章を残している。子どもの移動距離の範囲かつユリノキの下、というだけで、かなり場所は絞れるでしょう」

「後は、作文の作者である少女……『はなむら ひより』さんの消息を掴む必要がありますね」

「俺、調べてみる!」

陽希が早速事務所を飛び出して行きそうになるので、水樹はその腹のあたりに手を当てて制して、

「もう遅いですから、明日出直しましょう。事務所を荒らした犯人が、戻って来ないとも限りません」

と、首を左右に振った。その後、三人は警戒を交代で睡眠を取り、何とか無事に朝を迎えることができた。



薄い朝陽が「探偵社アネモネ」の窓から差し込む、午前七時。その光は黄ばんだガラスを透過しながら柔らかく広がり、荒れた室内のあちこちに明るい斑点を作り出している。光の束は、浮遊する微細な埃の粒をくっきりと映し出し、それがまるで静止した時間の中で踊っているかのような幻想的な景色を描いていた。

デスクの上では、山積みになった書類や新聞の影が微妙に形を変え、朝陽が照らす一部のページは色あせたインクを際立たせている。

いつも寝坊ばかりの陽希が、今日は交代の都合もあってか、この時間にもうテーブルに向かって懸命にラップトップのキーボードを叩いている。そこへ、理人が、心配そうに眉を下げながらブラックコーヒーとフルーツを持って来た。小さな皿の上に、カラフルなフルーツのスライスが美しく並べられている。目を引くのは、鮮やかなオレンジの色を放つミカンの薄い輪切り。その形は完璧な円を描き、透明感のある果肉が光を受けてキラキラと輝いている。その隣には、リンゴのスライスが並べられ、柔らかなクリーム色の果肉が、赤い皮の縁取りによって引き立てられている。皮の部分は薄い赤から濃いワイン色へのグラデーション。

「根を詰め過ぎないようにね」

「理人ちゃーん、ありがとー。もう目が痛いよー」

陽希が甘えるように理人の腰元に抱き着いた。コーヒーを下ろす前だったので、それを見ていた水樹から、「危ないぞ」と叱責を飛ばす。理人は引き続き困ったように笑うばかりだった。

「でもでも、聞いてよ、二人とも。俺、凄い情報をゲットしちゃったからね」

陽希に手招きされ、水樹も椅子を立ち上がって、杖を突きながら陽希の隣の席まで移動する。画面を覗き込むと、そこには四十年近く前の、童話のコンクールの結果が表示されていた。

陽希は、画面を指差して、堂々と声を張る。

「この一位を獲った子の名前、見てよ。『花村ヒヨリ』だって」

「個人情報」の概念が薄い時代だったのか、はたまた時間が経ち過ぎた情報だから公開しても良いと判断されたのか、花村家の住所が細かく付記されている。当時の写真もある。症状を持ってカメラに笑みを向けているヒヨリは、歯がところどころ生え変わっている途中で愛らしい。

「よくやった。この写真を持って、近場を巡ってみましょうか」

水樹がにやりと笑うと、陽希は早速その写真をプリントアウトする画面を開く。その時、水樹は、はたと気づいた。

「この、受賞した童話、何だか奇妙ですね」

童話の内容は、「とある未知の文明」がテーマになっていた。ある一人の男子小学生が、その失われた文明の歴史を紐解くという、スペクタクルな作品だ。理人もその作文に、首を伸ばすように覗き込んで目を通すと、水樹と顔を見合わせ、それから二人は同時に唸った。

***

再び、陽希が運転するブラウンクリスタルマイカのタントで、ヒヨリの住所として書かれていた場所へ向かう。古い車だけれど、ちゃんと走ってくれる。

そうして辿り着いた家屋は、静かな住宅地の一角にひっそりと佇んでいた。建てられた当時の流行を反映した、昭和のデザインがそのまま残されている。アイボリーのモルタル仕上げの外壁。所々に薄いひび割れが走り、長い年月が過ぎたことを語っているようだ。かつては艶やかだったはずのペンキも、今では日差しと風雨にさらされて色褪せ、全体にくすんだ印象を与えている。

切妻屋根は黒い瓦で葺かれており、まだしっかりと形を保っているものの、雨樋には落ち葉が詰まり、その周囲に苔が薄く広がっている。玄関には木製の引き戸があり、かつて丁寧に手入れされていた彫りのある装飾がまだわずかに残っている。

庭には、小さな木が数本植えられているが、その枝葉は自由気ままに伸び、明らかに人の手が長らく入っていない。雑草が足元を覆い、花壇だったと思われる場所には野花がランダムに咲いている。正面には小さな門があり、その鉄製の柱には赤茶けた錆。

「お待ちください、二人とも」

理人は、安全確認の為に、先んじてその庭に立って辺りを見回してくれる。それから、ため息を吐いた。

「水樹。ここには、もう……」

水樹にも分かっていた。理人がみなまで言う前に、頷いた、その時である。

「貴方たち、どちら様?」

背後から声を掛けられた。水樹は、自然と肩が跳ねたが、振り返ると、其処にいたのは七〇代と思しき女性だった。草刈りの道具と、雑草をまとめた袋を持っている。

「僕のおじが、昔、花村ヒヨリさんにお世話になったと話を聞いて……僕はおじにとても可愛がってもらって、そのおじが亡くなったので、故郷を巡っているところなんです」

水樹が嘘を、感動たっぷりの口調で伝えると、その七〇代の女性は不可思議そうに眉を顰め、首を傾げた。

「このうちにはね、五年前から誰も住んでませんよ。私は遠い親戚で、詳しいことは言えませんが」

「ヒヨリさんは、何処かへ引っ越されたんですか?」

「ヒヨリさんは、亡くなっています」

「嗚呼……五年前に訪ねていれば良かったね、水樹ちゃん」

陽希が肩を竦め、水樹が中折れ帽を手で押さえながら俯くと、更に女性は訝し気な顔をし、

「ヒヨリさんは、十一歳の夏に亡くなったんですよ」

「えっ……」

「ええ、川に落ちてね。おじさまがおっしゃってなかったんですか? 一体、いつのお知り合い?」

思わず言葉を失う水樹と陽希に、理人だけが冷静に、穏やかに、話を逸らしつつ立ち去るきっかけを作ってくれたらしい。気づいたらタントに戻っていた。理人が、あの場を取り繕うのに何を言っていたのか、水樹は全く聞いていなかった。そのくらい動揺していた。



廃校となった小学校の裏手には、苔に覆われた朽ちかけの門が横たわるように立っていた。木製の門柱には、風雨に浸食された古びた標語がかすかに残り、文字はほとんど判読できない。その傍らで絡みついた蔦が、まるで誰かを拒むように揺れている。

門を抜けると、草に覆われた土の道が緩やかに丘へと続いている。けれどその道は、かつて通学路だったとは思えぬほど荒れ果てていた。折れた石段、崩れかけた手すり、枯れ葉とともに積もる獣の骨。一歩踏み込むたびに、足元の気配が不自然に沈む。

あたりは静かすぎる。鳥の鳴き声もなく、風の音すら枝に吸われるように消えていく。道端にぽつんと立つ祠は屋根が崩れ、扉が外れかけている。その中には、風化した白布で包まれた何かが見える。誰も口にはしないが、其処へ向かっていた理人と陽希と水樹は一瞬、何かの視線を感じて振り返った。そこには何もいない。ただ、日が少し傾いただけだった。

そして丘の頂に現れるユリノキ。まるで空と語らう神木のようだ。幹は灰褐色で、縦に深く裂けた樹皮が時の流れを刻むように静かに呼吸している。高さは三〇メートルを超え、枝は四方に広がりながらも、どこか秩序を保った美しい樹形を描いていた。

葉は軍配のような形をしており、先端が切り取られたような独特の輪郭を持つ。枝先に黄緑色の花が見える。中心にはオレンジ色の斑が浮かんでいるのが幾らかうかがえるが、上向きに咲くため、地上からはその神秘的な姿を完全に捉えることが難しい。まるで、選ばれた者にだけ花の美しさを見せるかのように。

風が吹くと、葉が光を受けてきらめき、まるで空の鏡のように揺れる。蜜を多く分泌する花は、蜂たちにとっても特別な場所であり、甘い香りがほのかに漂う。

その根元には、誰も近寄らない理由がある。静寂の中に漂う神々しさ。それは単なる植物の威厳ではなく、何かを守り、何かを封じているような気配だった。ユリノキは、ただの樹ではない。記憶を抱き、時を見守る存在として其処にあるかのようだ。

誰も言葉を発さない。それは、目に映ったユリノキの神々しさが美しさではなく、「触れてはならぬもの」として存在していたからだ。

「嗚呼、此処だったんですね。私の求めていたものが眠っている場所は」

 背面から声がして、水樹たち三人の探偵は一斉に振り返る。

 鷹見隆道だった。

***

隆道は、水樹たちの一歩後ろから、眩しそうな、ひたむきな眼差しをユリノキに向けていた。

水樹はその顔を、同じく真摯な目で見て、約一分の沈黙の後、口を開いた。

「――鷹見教授。貴方が探していらしたヴェルミル文明と言うのは……」

 水樹の声に、隆道は、スローモーションのように視線を、水樹たち三人の探偵の方へ向ける。

「はい。恐らくは貴方達の推理の通りです。ヴェルミル文明は、ヒヨリちゃんの……私の同級生で、大事な大事なヒヨリちゃんが生み出した、創作の物語でした」

隆道は、その場に立ち尽くし、拳を作りながら語り出した。

***

ヒヨリは、小学生だった隆道の目に、とても神秘的に見えていたという。

髪は艶のある漆黒で、後ろ髪だけ細い三つ編みが入り、紅藤色の糸で結ばれていた。その痩躯に纏っていたのは、大抵いつも、淡いベージュに、焦げ茶色の模様が散らされたロングワンピース。裾にはひっそりと銀糸で描かれた幾何学紋様。お気に入りの履物だった、古風な編み上げブーツはオフホワイトで、靴底だけ紅殻色のアクセントがあった。

この特徴的な服装から、川に落ちて亡くなっていた時も、直ぐにヒヨリがヒヨリだと、分かったのだと言う。

ヒヨリは、「驚かせごっこ」が大好きで、誰かをびっくりさせると、小さく口角を上げて微笑んで満足するところがあった。拾った花びらや虫の羽を分類し、「文明の印」としてノートに記録していた。「秘密だよ」と人差し指を唇の前に立てながら、隆道にはそのノートを見せてくれたのだと言う。

後に、それはヒヨリの祖母が保管していたらしい古地図で示された、「ヴェルミル文明」なるものの痕跡なのだ、と隆道は教わった。「ヴェルミル文明」には学校の図書館にも僅かながら資料があり、数々の財宝があるらしかった。

ヒヨリが亡くなる前、隆道はヒヨリから、小さく折りたたんだ手紙を受け取った。


たかみちくんへ

こんにちは。

このてがみを読んでくれたら、うれしいです。すこし長いけど、さいごまで読んでね。

きょう、文しゅうができました。みんなの作文、すてきだったね。わたしもがんばって書きました。

でもね、わたしの作文には、ちょっとだけ「ひみつ」がかくれているんです。

ほんとうは、たかみちくんにだけ、気づいてほしいことがあるの。

わたしが大すきな場所のこと。いい香りがして、すこしふしぎな場所。

そこにはね、わたしが見つけた「ヴェルミル文明のしるし」があるんだよ。世紀の大発見、その場所の名まえは、作文の中に、ちゃんと書いてあります。

たかみちくんが読んでくれたら、きっと気づいてくれると思って、こっそり入れました。

わたしは、たかみちくんのことがすきです。でも、それは作文には書いてないよ。

だから、このてがみにだけ、すこしだけ書いておきます。読んでくれてありがとう。

また、あの場所で会えたらいいな。

風がふいたら、わたしの気もちが、たかみちくんにとどきますように。

ヒヨリより


この数日後、ヒヨリは川に転落して亡くなった。其処に事件性はなく、完全な事故ではあったのだが。隆道の心には永遠に影を落とす出来事となり、隆道は延々と彼女の生み出した物語に耽溺して生を繋いだ。そして、考古学の道に進んだのだ。

***

隆道は今一度ユリノキの真下に立って、てっぺんを見上げた。その顔には、ユリノキの幹のような皺が刻まれている。

「内心は、考古学者になる前から、気付いていたんです。ヴェルミル文明なんてものは、ハナから存在しないってこと。小学校の図書館にあった資料だって、ヒヨリちゃんが作って、こっそり紛れ込ませたものだって」

「彼女が通っていた小学校にしか、ヴェルミル文明にまつわるものが存在しないなんて――よく考えればおかしい話ですよね」

水樹が、責めるでもなく落ち着いた声音で言い、隆道の背を優しく上から下へ、憑き物を落とすように撫でてやると、隆道も矢張り静かに頷いた。

「信じていたかった。ヴェルミル文明が実在すると。それだけが、ヒヨリちゃんがいたと言う事実を後押ししてくれる気がして」

「存在を証明するものなんかなくたって、ヒヨリさんは確かにいたんですよ。貴方の中にいる、それを信じて良いんですよ」

 水樹が更に穏やかに言うと、次第に隆道は声を震わせるようになった。

「余りに突然すぎて気持ちの整理がつかなかったんです。ヒヨリちゃんはもしかしたら、いなかったんじゃないかって。最近、御実家に人もいなくなって、余計に、時が経つにつれて、私が心の底から恋しかったヒヨリちゃんは……」

「ヒヨリさんは存在していました。私達も彼女のことを知った。そして、もう忘れたりはしません」

 水樹の声に、隆道は何度も何度も、首を縦に振った。そして、顔のしわを何倍も深くし、ぎゅっと自分を抱き締めて、こう声を振り絞る。

「ただ、見つけたかった気持ちは本当です。ヒヨリちゃんが隠した何か。彼女が私のためだけに作ったであろう『タイムカプセル』。私に見つけて欲しいと願っていたもの――」

その絶え入るように紡がれた言葉を遮るように、どすん、と重い音がした。流石にこの音には、隆道だけでなく、「探偵社アネモネ」の三人も肩を跳ねさせて、音の方向を振り返った。

健吾だ。

髪も服も乱れ、黒っぽい汚れのついた白衣を纏った健吾が、胸や肩を上下させている。地面に大きな袋が落ちていて、それが彼の手から落ちた音が響いたようだ。

「……どういうことだ……?」

健吾は、隆道とは恐らく異なる理由で、声を震わせながら近寄って来た。

「俺は! ヴェルミル文明に全てを捧げて来たんだよ! 学費だって、ない金かき集めて犯罪者にまでなってさぁ!」

鬼気迫りすぎる表情。後ずさりする隆道の襟首をつかむように、乱暴に手を伸ばす健吾は、その伸ばした手とは逆の手に、ダガーナイフを持っていた。

「どうしてくれるんだ、責任取れよ!」

陽希は猫のように華麗に飛び出した。

健吾も負けじと一歩踏み出す。白衣が風をはらみ、ナイフが斜めに閃く。陽希は、すかさず身をひねり、刃をかわすと同時に、右腕で健吾の手首を狙う。指先が触れた瞬間、白衣の袖が裂け、土の香りと汗の匂いが一気に立ちのぼる。

健吾は膝を突き出し、陽希の腹を狙うが、陽希は腰を落としてそれを受け流す。また、地面の湿った葉が舞い上がり、足元に絡みつく。陽希はその隙を突き、犯人の足を払う。健吾が倒れ、ナイフが地に落ちる。刃が石に当たり、乾いた音を立てる。

陽希はすかさずその刃を蹴り飛ばす。ナイフは草の中に沈み、金属の匂いが遠ざかる。続けざまに健吾の胸元に膝を押し当て、動きを封じる。白衣の布がくしゃりと潰れ、土と汗の混じった匂いが濃くなる。

頭上の木から、ひとひらの葉が落ちる。それは赤茶けた色で、空気の流れに乗ってゆっくりと舞い、陽希の肩に触れる頃には、すべてが静かになっていた。



二〇二八年十二月二十八日。「探偵社アネモネ」の今年の仕事納めの日であったが、相変わらず、オフィスには水樹・理人・陽希の三人しかいない。閑古鳥が鳴いている状態だった。

ヴェルミル文明についての一連の事件がまるで嘘のようだ。水樹は暇潰しに探偵小説を書きながら、ぼんやりと思っていた。

結局、麻理香も優子も、健吾によって誘拐され、健吾が暮らすアパートに監禁されていた。あの、ユリノキの下での一件の後、「探偵社アネモネ」のメンバーで駆け付け、二人を救出した。二人ともかなり殴られており、まだ復学できていないという。

「汐見さんがかなり情熱を持ってつきっきりで支えていらっしゃったので、きっと大丈夫だと信じたいです」

先週、入院中の麻理香と優子を見舞った帰りに、理人は自分の冷たい手に息を吐きかけながらそう言っていた。

健吾の動機はと言えば、分かり易く、ヴェルミル文明についての研究成果を、なるべく独り占めすること。彼は生活費すら削り、借金までしてヴェルミル文明を調べていた。ありもしない財宝を探すのに命を懸けていたのだ。

来客用のはずの青いソファの、ひじ掛けに顎を乗せる体勢で、陽希は欠伸まじりに言った。

「それで、結局、残されていた『タイムカプセル』の中身って何だったの?」

ユリノキの下は、隆道のたっての願いで、そして全て隆道の自費で、掘り返された。クリスマスのことだ。本来、探偵の仕事ではないが、水樹だけが立ち会った。

陽希の質問に、水樹はひょいと肩を竦めて、鼻で笑ってやる。

「中身を細かく見るのは無粋というものですよ。あれは、明らかに個人へ向けた贈り物なんですから」

「えー。良いじゃん、覗くくらいしたってさぁ」

「ですが、教授は、その『タイムカプセル』のブリキ缶を抱き締めて、いつまでも泣いていらっしゃいましたよ」

「水樹のお心遣いは、いつも細やかです」

理人は、そう水樹に相槌を打ちながら、白磁の皿をそっと水樹の前に置いた。皿の中央には、手作りのチョコレート・サラミが三切れ。断面は不揃いで、どこか優しい。濃い焦げ茶のチョコレートの中に、砕いたビスケットの淡い黄と、ローストしたナッツの艶やかな断片が散っている。ところどころドライフルーツの赤が滲み、まるで小さなステンドグラスのように光を受けていた。表面には、うっすらと粉糖がまぶされている。その白は均一ではなく、指先でふりかけたような跡が残っていて、家庭の温もりを感じさせる。端の一切れは少し欠けていて、包丁の刃が迷ったような痕がある。それがかえって、作り手である理人の手の動きや、台所の空気を思わせた。

皿の隣には、小ぶりな湯呑み。中には、深煎りのほうじ茶が注がれている。琥珀色の液面からは、香ばしい茶葉の香りが立ちのぼり、チョコレートの甘さを引き締めるように漂っている。

水樹は、その心遣いを有難く頂戴することにし、銀のフォークを手に取った。其処に自分の顔が映っている。

「実はね、理人。僕、子供の時の恋愛なんて、所詮おままごとの延長というか、一瞬の夢みたいなもので、結婚する訳でもないしどうでも良いと思っていたんです」

 水樹が言うと、理人は涼し気な目を僅かに丸めた。

「子供の時からですか?」

「ええ、僕自身が子供の時から」

「えー、なんか水樹ちゃんってつまんないガキだったんだね」

勝手に話題に入って来て笑う陽希を睨む。理人は、「水樹らしいです」と、困ったように眉を下げた。

水樹は咳払いして、話を続ける。出された菓子をフォークで刺し、口に入れて頬を膨らせた。

「でも、たった一回の恋が、一生を変えてしまうことがあるんですね」

そうつぶやいた時、外にしんしんと雪が降り始めるのが、視界の端に見えた。


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