表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ホワイト・アウト・ホタル

作者: アタリ




「夢をみてた」

「夢?」

「そう、夢」



 大崎の指先がわずかにハンドルを傾けた。練馬ナンバーのレンタカーは、通り雨の降る高速を抜けて、薄く雲が広がる空の下を走っていく。もう仄暗い東に向かって、車は行く。



「長い夢だった」



 カフェのバイトのときにはいつも上げている前髪は、今日は起き抜けのままにしてあって、その間から丸っこい目が覗いていた。大崎の視線がこちらを向いて、「へぇ」と探るような相槌が返ってくる。


「いい夢?」

「……悪夢かも。とびきりの」

「じゃあ話しておいた方がいい」


 コノ先左カラノ合流ガアリマス。曲もラジオもかかっていない車の中、私の膝の上のリュックが揺れる。それに手を回して抱きしめ、窓に頬をつける。冷たさが頭に凍みた。


「夢は話すと本当にならないらしいから」




 急に誘ったのに、学校終わりにわざわざ車を借りて、大崎は来てくれた。「なんで急にドライブ?」とは、池袋駅前で合流したときに訊かれたけれど、「そういう気分だったんだよね」と言ったら、それからは何も訊かずにいてくれている。


 大崎はいいひとだと思う。学科でも、幹事長をしているダイビングサークルでも、大崎は人気者らしい。私と同じバイト先でも、先輩や社員から可愛がられている。


 大崎を知る人はみんな、私に「大崎とはどうなの」と訊いてきた。いいやつだと思うよ、どうなの、なんて、何回も言われた。いいひとだとは、思っている。本当に。



 私はひっそりとため息をついて、大崎を見た。さっぱりとした好青年、誠実そうな目は、明らかに心配の色をしている。


「それなら、話そうかな」


 そう言ってしまってから、舌がどうしようもないほどに渇いて、私は炭酸の抜けたサイダーを一口、喉に流し込んだ。大崎は黙って、私が話し始めるのを待っていた。

 誰にも言わないで、とは、言わなかった。そうでなくても大崎は言わないだろうとも思った。

 頬杖をついて、窓の外に目線を投げる。


「……夜の東京だったの。終電間近の渋谷。数人で遊んだ帰りだった」











 一日中晴れていたのに、帰りになって急に雨が降り出した。一緒にいたのは大学の友だちで、方面はばらばら。渋谷の雑踏の中に車を停めて、そのまま解散した。私ともう一人だけがJRで、私たちは二人でハチ公の前を駆け抜けることに決めた。

 ありがちなことだが、友だちが友だちを呼んで開催されたドライブだった。その彼は私の友人と同じサークルの男子で、私は初対面だった。


 カーキ色のシャツを着た、どこか気の抜けたひとだった。ふわふわでうねうねの金色の髪、べっこう飴みたいな色の縁の眼鏡。ぼんやりと車の外を見て、たまに話を振られてはスローテンポに喋る。正直、ドライブの間はろくに喋らなかったから、印象は薄かった。



「雨ひどくなってきたねぇ」



 スクランブル交差点の近くで雨宿りをしている間、彼はへらりと笑った。彼の手には明らかに1人用の、くたくたの折り畳み傘が握られている。傘を持っていない私が、「なんで笑うの」とちょっと怒ったふうに言ってみると、彼はすぐに「いや、そんなつもりはなかったんだよ」と頬をかいた。その素直な反応が面白くて、私は一気に彼に興味が湧いた。


「冗談だよ」

「え、冗談なの?なんだぁ」


 彼がまた笑った。「本当に怒らせちゃったかと思ったよ」



 渋谷の喧騒は、強さを増した雨の音でかき消されていく。信号が青にならなければいいなんて、そんなことを夢想した。なんでドライブの間、彼と喋っておかなかったんだろう。もう少しだけ、彼と話してみたかった。



「こんなに人が多いと、すぐはぐれちゃうかも」



 そんなことを言ってみる。彼は私を見て目を瞬かせ、「そうかもねぇ」と目尻を下げた。


「でも僕の髪は目立つから、たぶん大丈夫」

「……たしかに」


 私はまだ赤色の信号をちらっと見て、彼の顔を見上げ、首を傾げた。



「いいな、金髪。私も金色にしてみたい」

「そぉ?黒髪、似合ってるよ。綺麗な感じ」

「えっ、ありがと。……でも染めてみたいな。どこの美容院?」

「ああ、これ地毛なの」

「地毛?うそだ」

「さぁ、どうでしょうねぇ」



 くふくふ、と変な笑い方をして、彼は髪を指先でいじった。その細めた目に、私は釘付けになっていた。いままで出会ったどんなひととも違う、特別な男の子。



 ぱっと、信号が青に変わる。彼が傘を手に私を振り向いた。


「時間やばいかも。走れる?」

「無理、って言ったらどうするの」


 咄嗟に、そんなことを口走っていた。彼はしばし私を見つめて、また頬をかく。


「困ったなぁ」


 終電に向かって駆ける人の波。雨の渋谷、青信号が明滅する。




「ドライブでもする?」




 彼がそう言ったのは、信号が赤になったのと同時だった。


 私はまじまじと彼を見た。彼にからかっている様子はなく、あくまで穏やかに、私を見つめ返している。



「また?」

「また」

「朝まで?」

「うん」



 もう電車ないし、と彼は付け加えた。私は思わず噴き出してしまった。漫喫とか、ネカフェとか――ホテルとか、そういうのが出てこないのが純朴だと思った。

 ひとしきり笑ったあと、私は頷いた。


「いいよ。連れてってよ、ドライブ」


 彼はまた目尻を下げて、くたくたの折り畳み傘を開き、私に差しかけた。



 車は渋谷マークシティで借りた。「深夜料金は安いらしいよ」と私が受け売りの知識を教えると、彼はバックミラーを直しながら「それは助かるねぇ」と言った。


「僕いま財布の中に現金250円しか入ってないよ」


 それに笑いながら、私はシートベルトを締めた。かちっ、と鳴る音に妙にどきどきした。彼の細い指がナビの上を滑る。



「どこ行こうか?」

「どこでもいいけど……あ、海とか行きたいかも」

「ありだねぇ」



 慣れない手つきで画面を叩き、彼は千葉の適当な海岸にピンを刺した。


「じゃあ、発進しまぁす」

「お願いしまーす」



 ハンドルを確かめるように握り、彼はゆっくりとサイドブレーキを下ろした。車は滑らかに駐車場から出て、人もまばらになった雨の渋谷を走り始める。



 スマホを車につないで適当に流行っている曲をかけながら、車は高速道路に乗って加速する。くだらない話を延々とした。黒い街、まばらなビルの明かりは星みたいで、いまこの瞬間世界に二人きりのように思えた。誰も知らない夜、騒がしい雨の街を抜け出す、特別な男の子と私。さっきまで一緒にいた友だちも置いて、私だけが彼と海を見る。



「怒られないの、親とか、彼女とかに」



 普段絶対に言わないようなことを口走ったのも、たぶんそんな夜のせいだった。隣に座る彼の目はべっこう飴色をした眼鏡の縁でよく見えなかったけれど、口元は柔らかく緩んでいた。


「僕一人暮らしだし、彼女もいないからセーフ」


 その言葉に、じっと座っていられないような気分になって、私は助手席に座り直しながら「不良だ」と茶化した。


「君もでしょ」

「そう。私たち二人とも不良」



 前から来た車のハイビームが、私たちのライトとかち合って白く溶ける。眩しい白色に照らされた彼が、ちらとこちらを見た。




「一緒だねぇ、僕たち」



 その顔はどこか嬉しそうに見えた。



「今日会ったばかりだけど、似た者同士な気がするよ」




 胸の奥の方が、ぎゅ、としびれた。私は彼の横顔を見つめたまま、何も言えなくなる。


「……今日、じゃないよ。もう昨日になった」

「あ、そっかぁ」


 彼は私の様子なんて気づかないみたいに、またへらりと笑った。



 車はあっという間に東京を抜け、千葉をしばらく駆けて高速を降りた。舞浜を通って「ディズニーだ」などとはしゃいでいた私にも、その頃には流石に眠気が来ていた。それを察したのか、彼が「ちょいっと休憩」と言って、やたらと駐車場の広いコンビニに車を停めた。



「なんか買ってくるから、ここにいて」



 彼はそう言い置いて、運転席のドアを閉めた。あまりにも眠そうな私に気を遣ったのだろうと申し訳なく思ったが、ありがたく助手席のシートを倒して目を閉じた。



 まどろむ瞼の奥、彼の表情が焼きついていた。眠気はピークなのに、彼の柔らかい雰囲気に満ちる車の中で、どうしようもなく胸が高鳴っていた。このまま海にたどり着いて、あの喧騒に帰って、そのあとはどこへ行こう。連絡先を交換して、今度は二人だけでハチ公前に待ち合わせようか。似た者同士、と言った彼の声が耳に残っていた。ほどける口元を指先でおさえて、助手席の上に身を縮めた。



 少しして、私は起き上がった。寝つけそうになかったし、彼と二人でいるこの時間をわずかでも取りこぼしたくなかった。

 窓からコンビニの店内を覗こうとして顔を窓につける。夜の冷たさに目が覚めた。





 そして、終わった。





 コンビニの駐車場を渡っていく、少し猫背気味の彼。無機質なコンビニの明かり。こちらには背を向けて、彼が頭を上げた。その視線の先は、まだ暗い夜の闇。




 その空に、何よりも黒い〈何か〉が、立っていた。




 巨大な、影。そうとしか言いようがない、禍々しい〈何か〉だった。〈何か〉はそこに佇んで、その黒をじんわりと空に広げていた。




 彼はそれを見上げ、左手に提げたレジ袋から水のペットボトルを出した。レジ袋を乱暴に足元に放ると、彼はそのペットボトルを開け、〈何か〉にそれを掲げてみせた。



 それから、思い切り、そのペットボトルをひねり潰した。



 呼応するように〈何か〉がねじれる。ペットボトルからは勢いよく水が噴き出し、コンビニの光を反射してきらめいた。〈何か〉の呻くようなおぞましい声が、はっきりと耳に届いた。


 そして、温度のない声も。




「死ね」



 それが彼の口から発せられたと、数秒遅れて気づいた。




 〈何か〉は霧散して夜闇の中に溶けていった。彼はそれを見送って、レジ袋を拾い上げた。それから踵を返し、車の方へ足を向けた。



 私は我に返って、助手席に縮こまった。忘れていた呼吸が戻ってきて、肩で息をしながらきつく目を瞑る。


 さっきまでの浮かれた気持ちは、もうどこかへ飛んでいってしまっていた。胸の高鳴りもしびれも何もかも思い出せない。すべてが夢だったかのように遠くにあって、私の心は〈何か〉の影と、別人のような彼の姿に覆いつくされていた。



 ドアが控えめに開いて、肩が跳ねた。



「買ってきたよ。これでいいかなぁ」



 私はそろそろと瞼を押し上げて、身を起こした。そこには穏やかに微笑する彼がいた。


 ふわふわでうねうねの金髪も、カーキのシャツも、べっこう飴の色の眼鏡も、何も変わらない。でもその手のレジ袋の底は、少し破れていた。


「起こしちゃった?ごめんね」


 眉を下げ、申し訳なさそうな顔をする彼は、人畜無害を絵に描いたような青年の姿をしている。背筋を寒気が駆け抜けて、私はただ呆然と、彼の顔を見つめていた。




 あの黒色の〈何か〉、それはもちろん恐ろしかった。

 けれど何よりも、彼の冷たい声が、乱暴な仕草が、どうしても脳裏に焦げついて離れなかった。




 訊きたいことは、山ほどあった。




「……ごめん、ちょっと寝ぼけてるかも」


 私は慎重に笑顔を作った。彼は私の言葉に、表情を緩めた。


「もうすぐ海だよ」



 コンビニの駐車場から、車が走り出す。私は車の外に目を遣った。不気味なほどに静かで、いきものの気配のひとつもない駐車場を、コンビニの白い光が照らしていた。


 またしばらく車を走らせた。車内には流行りの音楽がかかっていて、私と彼はまたくだらない話を浪費して、何も変わらないはずなのに、何かが確実に変わってしまっていた。



 東の空が明るくなってきたころ、ナビが目的地に近づいたことを知らせた。目の前には防波堤と砂浜と海があった。

 ほかに車の一台もない駐車場に入ったとき、彼が声を上げた。


「やばぁ、太陽昇ってきた」


 容赦のない一番目の陽の光が目を灼いた。急いで車を停め、二人で駆け出す。砂浜に足を取られながら波打ち際まで走った。数歩先を行く彼が何度も振り向いて、私に笑顔を向けた。


「早く!」



 彼は足が速いとそのとき知った。遠ざかる彼の無邪気な笑顔は、どこか小さくてすぐ消えそうで、私は夏の夜に見たホタルを思い出した。浮かんでは消える優しい光は、彼の穏やかさによく似ていた。



 水平線の向こうに、眩しい太陽が顔を出す。隣同士で並んで、私たちは言葉もなくそれを眺めた。色のない海に太陽が反射して輝き、細かい光の粒が空気に満ちていた。


 盗み見た彼の横顔は、変わらず穏やかだった。遠慮がちに吹いた風が彼の金髪をさらって、眼鏡に朝日が反射する。




 穏やかな彼と、〈何か〉を殺す彼。

 ふたつの彼が存在していることを、私は知ってしまった。



 砂浜の上、私たちの間には人1人分の距離がある。


 そこには一本の線が引いてある。


 踏み越えれば、もうひとつの彼を知ることになる。


 それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわからなかった。


 ただ、その線の向こうに踏み入ったとき、何かがまた変わってしまう。それは確信だった。




「朝、起きるのが得意じゃなくて」


 これ以上余計なことを考えたくなくて、私はそう口にした。このまま考え続けていたら、言わなくていいことまで言ってしまいそうだった。


「だから、朝日なんて見たのは初めてかも」


 彼は私を見て、目を細めた。


「じゃあ、よかった」




 海は信じられないほどに綺麗で、私も彼もそれ以上何かを話すことはなかった。やがて太陽が完全に昇り切って、私たちは車に戻り、音楽とくだらない話を引き連れて東京へ帰った。


 渋谷に戻ったころにはスクランブル交差点前にも人が増えてきていて、いつも通りの一日が始まろうとしていた。車を返し、私たちは歩いてハチ公の前を通り過ぎた。


 彼は山手線に乗っていくらしかった。埼京線に乗る私とは、改札を抜けたところで別れることになった。



「楽しかった」


 少し混み合う改札で、彼がそう口にした。

 私は、うん、としか言えなかった。


 彼はずっと穏やかに笑っている。朝の忙しない渋谷の中で、彼だけが浮き上がって見えた。その顔を見ていられなくて、彼のスニーカーに目を落とす。



「僕みたいなのに付き合ってくれた、君のおかげ」



 顔を上げる。正面から見た彼の瞳は、眼鏡越しにも、何か大切なものを見ているような、そんな色をしていた。


「ありがとう」


 私は何も言えなかった。



 それじゃあ、と彼が手を振って、踵を返す。思わず私は、彼のシャツの裾を引いていた。



「あのさ、」



 彼が振り向く。その表情は少し驚いたふうで、その顔は初めてだ、なんて思った。



 呼び止めて、何を言いたかったのだろう。


 私、本当は、あなたがそう見つめてくれるような、そんな価値のある人間じゃなくて。頭も良くないし運動だってできないし、自分の顔だって好きじゃなくて、メイクで取り繕ってるだけ。私はただのありふれた凡人で、夜ごと遊び歩いているときだけ、自分が特別になったみたいだった。面倒事から逃げて、楽な方へと流されて、処女なんてどこで捨てたかも、もう覚えてない。



 何も特別なものを持っていなかったから、特別なあなたが欲しかった。



 人を利用して生きてきた。自分のことばかり大切で、ほかの人のことは知ろうともしないで。自己中心的で、わがままで、夜に汚れた、そんな真っ黒な私。



 それを言おうとしたのだろうか。彼の黒さと同じものが、私の中にもあるのだと言いたかったのか。


 似た者同士、と、彼の言葉を反芻する。



 彼をわかってあげたかった。



 そんなことを告げる勇気なんて、なかったのに。



「また、遊んでよ」


 そう口にすると、彼はまた、どこか嬉しそうに笑って頷いた。



「次は、どこ行こうか?」









 どこ行こうか。

 どこへ行きたかったのか。

 どこへ行ってしまったのか。




 結局何も聞くことはできず、一週間後、私のもとにその知らせは届いた。



 平日の朝。ポロン、と間抜けな通知音が響き、私はメイクの手を止めてスマホに目を遣った。

 夕焼けの待ち受け。そこに浮かぶ、友だちからのメッセージ。

 そのとき私が思い出したのは、対向車の白いライトに照らされて、どこか嬉しそうに笑う彼だった。



『この間一緒にドライブしたあいつ、事故で亡くなったって――』











 入り組んだ首都高の上を駆ける車は、痛いほどの沈黙で満ちていた。


 それまで何も言わずに話を聞いていた大崎が、遠慮がちに口を開く。



「夢の話じゃなかったのか」

「夢の話だよ」


 私はずっと、東京の街を見ていた。


「そうでしょ」



 明け方の夢。砂浜に書いた文字。あるいは、夏の夜のホタル。最初からそこにいなかったみたいにあっけなく、彼は消えてしまった。

 夢であってほしかったし、どこまでが現実だったのかもよくわかっていないけれど、彼はもういない。それだけははっきりと理解していた。



「彼を救えなかった」



 私はぽつりと言った。大崎がすぐに「お前のせいじゃないだろ、事故なんだから」と、少し怒ったように口にした。


「ただ一晩ドライブして楽しかったけど、相手が事故で亡くなったって……そういう話だろ。そりゃ、塞ぎこむのも無理ないと思うけどさ、お前は何も悪くないって。……いまは無理かもしれないけど、時間が解決してくれるよ。その男のことも、いつか忘れられる」



 私は黙っていた。大崎は優しい。優しくて、そして私のことを少なからずよく思ってくれている。だから励ましてくれるし、慰めてくれるし、今日のことも口外しないだろう。浮かれた気持ちなんてなく、嫌になるほど冷静に、私は大崎の気持ちを利用しているのだ。


 そんな私のことも、大崎のことも、やたら滑稽に思えてしまって、ため息をつく。腹の奥の黒色が、また私を呑み込もうとしていた。




 彼は、私に何を求めていたんだろう。



 私はあのとき、コンビニの駐車場で彼に、実は起きていたと言うべきだった。彼が抱え込んだ秘密を半分持つことができたら、何か変わったかもしれない。あるいは朝の渋谷駅の改札で、自分の黒さを正直に言ってしまえば、彼ももうひとつの自分を私に預けてくれたかもしれない。



 私が彼を孤独のままにして、そうして彼は、〈何か〉によって死んだ。



 あのとき、私が彼の痛みをもらっていたら。あのとき、ありのまま正直に私のいちばん黒いところを彼に打ち明けていたら、彼を繋ぎ留められたのだろうか。


 目を伏せる。いまさら気づいても遅いことを、あの日からずっと考え続けている。



 ふたつの彼が怖かったわけじゃなかった。彼のもうひとつを受け取る、その痛みが怖かったのだ。彼に向き合うことをおそれていた。そうやって逃げて、楽な道ばかり選んで、上っ面の付き合いだけでゆらゆらと生きて、そして私は彼をうしなった。



 私も、彼も、たぶん大崎も、みんなもうひとつを持っている。

 それを渡すことも、引き受けることも、私にはできなかった。





 私は窓の外を眺めた。


 東の空は暗い。そこに、空を覆う〈何か〉の影を私は見る。


 〈何か〉は、私を試すようにそこに佇んで、小さな車の行く先を見ようとしているようだった。





 リュックを抱きしめ、瞼を閉じる。体が細かく震えている。


 そのとき、耳の奥に穏やかな声がよみがえった。




 ――次は、どこ行こうか。




 流行りのポップス。くだらない話。ぽつぽつと落ちて柔らかく私たちを包む音。私は締め忘れた水道を想像する。水はやがて車の中を満たして、溢れ、高速道路の上にこぼれて線を描く。それは光の粒になって、ホタルの飛んだ軌跡のように揺れて消える。



 いつの間にか、私は人の溢れる渋谷駅に立っている。行き交う人の波の中、淡い光をまとう彼がそこにいた。ふわふわでうねうねの金色の髪は、人混みの中でもよく目立った。




 次は、どこ行こうか。




 彼は、私の答えを待っていた。




「次はさ」


 私は叫んでいた。雑踏も喧騒も聞こえない2人きりの朝の中で、彼は私をまっすぐに見つめていた。私の中の黒色を見透かしたように。




「次は、あなたの行きたいところに行こう」




 私は、そう言った。

 彼は嬉しそうに笑って、手を振った。






 目を開く。

 涙は出なかった。



 自分はもっといい人間だと、そう思っていた。



「……夢をみてたの、ずっと」




 私はまた、窓の外に目線を投げた。

 すべきことは、わかっていた。




お読みいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ