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日常煽動劇場  作者: 野神 真琴
由紀夫編 「第一章 死ぬほど死にたいから死ぬ気で死ぬ」
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反骨


 僕がソクラテス先生に頭を下げて教室を後にすると、後ろから荒井も一緒に付いて来た。彼女はスケートボードを持っていない方の手で教室の扉を閉めて、何も言わずに廊下を歩き始めた。


「ソクラテス先生は割と良い人だった」と僕は荒井の後ろを歩きながら言った。


「禿げているしゲイだけど、悪い人じゃないわね」

「ゲイ?」


 荒井は肩をすくめるだけで言葉を返さなかった。後ろからでは彼女の表情を伺う事が出来ないが、僕は聞き間違いをした訳では無さそうだ。荒井はこちらを見もせずに一定の速度で歩いていく。


「それにしても、今からどうするんだ?」

「私はもう帰るか何処かへ行くわ。由紀夫も早く戻るべきね」

「そんな素敵な戻る場所があるなら早く教えて欲しかったよ。もし、そんな素敵な場所が無いのなら荒井に付いて行っても良いか?」


 荒井は振り返って僕の目を見た。本当に美しい人や本当に賢い人、本当に強い信念だとかを目の当たりにすると、自分が主人公では無いのだと改めて実感してしまう。荒井を見ていると自分が主人公には成れないのだと思い知らされるのだ。荒井はあまりにも主人公じみている。


「付いてくるって何処に?」

「何処かは僕には解らない。行き着く場所はわからないけど、なんとなく荒井に付いていったら楽しそうだ」


荒井には僕の目を好きなだけ見させておいたし、僕の方は好きになってしまうくらい荒井の目を見ていた。


「競争に勝ったらね」と荒井は唐突に言って、廊下を走り出して手に持っていたスケートボードに乗った。彼女は板についた動きで、板についた車輪を大きく轟かせる。


「僕は走るのが苦手だ」と叫びながら、荒井に追いつく為に足を大きく動かした。このままでは置いて行かれてしまうと思い、走ってはいけない廊下を全力疾走する。


荒井は振り返って微笑みながら「私は歩くのも苦手よ」と言って僕を見た。彼女のスカートが良い感じになびくので、僕はこのまま後ろを走るのも悪くはないなんて、とても下らない事を考えてしまう。


 教室からは何人かの教師が顔を出して、騒がしい僕達に怒号を飛ばしたが、わざわざ追いかけて来る教師は居なかった。リノリウムの床を転がる車輪の爆音で、色々な教室の授業を一時的に中断させてまわり、最後に行き着いたのは僕達の教室近くだ。僕は息を切らせて汗をかきながら、やっとの思いで荒井に追いついた。


「由紀夫は見かけによらず運動神経が悪いのね」

「君の性格ほど悪くはないさ」


 荒井は微笑んで「私はお腹が空いたから何か食べに行くけど、由紀夫はどうする?」と言った。


「これだけ必死に走ったんだ。勿論、付き合わせてくれるんだろ?」

「私は性格が良いから、競争で勝てなかった由紀夫の好きにすればいいと思うわ」と荒井は言って嬉しそうな顔をした。「どうやら、由紀夫は頭も悪いみたいね」


 荒井はスケートボードを小脇に抱えて、二組の教室に向かって歩き始めた。僕は何も言わずに付いて行ったし、彼女はいつもの様に悪びれる事なく教室の扉を開けた。教室では年老いた女性の教師が日本史の授業をしている。定年を超えていそうな見た目をした教師は、もともと皺の多い顔に更なる皺を作って僕達を見やる。荒井は相変わらず堂々としていたが、クラスメイト全員分の視線を浴びた僕は、思わず目を伏せてしまった。


「あなた達は一体?」


 荒井は教師の言葉を無視して自分の席へと向かったので、僕も自分の席に向かった。皆から好奇の眼差しを浴びながらも、僕達は何事も無かったかのように着席した。


「どうぞ、続けて」と荒井が教師に言うと、教師は怪訝な顔を浮かべながらも授業を再開した。隣の席に座っている荒井は僕の方に膝を向けて、不思議そうに顔を傾げた。


「顔が赤いわよ?」と荒井は小さな声で言った。羞恥心で顔が赤くなっている人間に一番言ってはいけない言葉だ。顔が赤くなっているであろうとは予想していた僕に対して、第三者による事実確認をさせられてしまえば、赤い顔は更に赤みをます。


「きっと、風邪気味で体調が悪いんだ。荒井だって顔が白いけど大丈夫か?」


「きっと、風邪気味で体調が悪いのよ」荒井はそう言って、机の横に掛けられた黒いリュックを膝の上に置いた。「体調が悪い時はドーナツを食べるのが良いわ。ちょうど、期間限定の新商品が四種類も出ているし」


「じゃあ、頭が痛い時はパンケーキでも食べるのか?」


「そうよ」と言った荒井の顔は、何処か誇らしげで可愛かった。美しい人間が見せる可愛気は、文句の付け所が無い。


「普通は雑炊だとかを食べる筈だ」

「私は今からドーナツを食べに行きたいのだけど、由紀夫は雑炊が食べたいの?」


「いや、別にそういう訳じゃない」と僕が言うと、荒井は髪を揺らしながら首を少しだけ傾げた。彼女の顔を覆うように切られた黒髪は、僕にマカロンを連想させた。真っ黒のマカロンは硬そうに見えて脆く、苦そうに見えて甘い。それは世界で一番甘くて、とても体に悪いのだろう。


「由紀夫は何を食べたいの?」と荒井は言った。昼に何も食べていなかった彼女とは違い、僕はさっきコンビニで買った弁当を食べたばかりだ。こんな蒸し暑い日に食べるとしたら、「やっぱ、蕎麦だろ」と呟いた。


「考えられないわ。由紀夫は本当にティーン?」

「蕎麦にアレルギーでも持っているのか?」

「私が拒否反応を示しているのは、この歳で蕎麦を食べたいと思う由紀夫によ」


「ちょとそこ」と教師が僕達を指差して怒鳴った。「お喋りをするのなら他所でしなさい。授業に遅れて来ておいてお喋りなんてしないで」


 荒井は席を立って膝に置いていたリュックを背負った。僕は急いで荷物をまとめようと思ったが、まとめる程の物は何もない気がした。僕が登校に使っているスクールバックや、机の中に仕舞われた物が、全てゴミに思えてしまう。ほとんど飲み切ったペットボトル、内容が理解できそうもない教科書、三島由紀夫が書いた外見と中身が薄っぺらな本、持って帰る価値も持っていく価値もない。


「あなた、一体何処へ行くつもり?」と教師が荒井に言った。彼女は教師の声なんて聞こえていないかのように無視をして、座っている僕を上から見ていた。何が必要で何が不要なのかを考えていると、全ての物事が不必要に感じてくる。結局、僕は手ぶらで席から立ち上がった。


「話を聞いているの?」と教師は僕達に怒鳴る。荒井は不安そうな顔を僕に向け、僕は清々しい気分で彼女の目を見ていた。


「あなた達、早く席に座りなさい」教師の怒りを多く含んだ命令を聞いても、僕は怖くなかった。きっと、荒井のせいで感覚が変になっているのだろう。教師が声を大きく荒げる度に、僕の中に存在する恐怖心や羞恥心は薄らいでいく。荒井だって同じ感覚なのだろう。いい歳をして大きな声を出し、舐められる事をしている癖に、舐められたら終わりだと思っている教師は滑稽だ。恥ずかしい事をしているのは教師で、馬鹿な事をしているのも教師だ。自己の更年期障害を主張するかのように、感情を制御出来ない老人に対して、僕は憐憫の情すら覚え始める。


 僕達のせいで授業が中断されている事に申し訳なく思い、僕は教卓に背を向けて後ろの扉へと歩を進めた。教師は何かを怒鳴っていたが、何を言っているのかは解らなかったし、解ったところで意味なんてないだろう。


僕は扉を開けながら後ろを振り向いた。しっかりと荒井がついて来ているかを確認したのだが、最初に目が合ったのは教師の方だった。教壇の上から何かを言っている教師に向かって、僕は「お喋りをするから他所でする」と言って荒井の顔を見た。すぐ後ろに居た荒井は微笑みながら頷いたので、僕達は教室を後にした。


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