同情と同調
「まぁ、私の事はなんて呼んでくれても構わないけどね」と教師は言った。「荒井さんと三島くんは学校が楽しいかい?」
「全く」と荒井が言って、僕は「全然」と返す。荒井も僕も後ろに続く言葉は同じだろう。
「私も学校は嫌いだ。ヒステリックな教師も居るし、皮肉ばっかりを言う生意気な生徒だっているからね」
「学校が好きな人なんて居るのかしら?」
「そりゃあ居るだろうね」
「とんだ物好きだ」
僕の言葉を聞いて荒井と教師が微笑んだ。僕達の出した見解を纏めるように、荒井が「大人になっても嫌いな学校に行く人も居れば、子供なのに学校に来ない人も居る。そいつらも学校が好きな人と同じくらい変な奴ね」と自虐的に言った。僕は荒井から鬱屈とした美しさを感じた。
「荒井さんは学校を辞めるのかい?」
「充分に色々と学んだし、もういいかもね」
「何を学んだのだい?」
「基本的には中学校と同じで、碌でもない奴が跳梁跋扈している事と、私は生きるのに向いていないっていう事」
「生きるのに向いていない?」
「そう」と荒井は短く返す。「私の性格や思想を根本的から変えないと、この世界で生きていくのは難しい。でもきっと私は変われない。じゃあ、世界を変えるしかない訳だけど、そんな大それた事は出来ないでしょ?」
「荒井さんの、どういった性格や思想が、生きるのに向いていないと思うのだい?」と教師は尋ねたが、荒井が何も答えるつもりがないのは直ぐに解った。彼女は口をつぐんだまま教師の目を見続け、充分な沈黙という返事をしている。目は口ほどに物を言うと聞いた事があるが、荒井は目を使って口では何も言わないと語っていた。
軽い沈黙をかき消す為に、僕は「荒井は死にたいのか?」と素直に尋ねてみた。安っぽい映画に登場するチンピラみたいな台詞は、これから僕が彼女を殺そうとしているみたいだ。
「本当の意味で死にたい人なんて居るの?」
「本当の意味って?」
「死への好奇心から実際に自分を殺すとか、そういうのが本当の意味で死にたい人じゃない?」荒井は自分の傷だらけの腕を見た。「生きたくないから死のうとしているのかもしれないし、死にたくないから生きようとしているのかもしれない。もしかすると、死にたくないから生を感じる為に死のうとしているかもしれない。ただ、はっきりしているのは、私は死にたくないし生きたくないの。消えたい。すぐにでも。でも、消えるなんて出来ない。私は死ぬほど死にたいから死ぬ気で死のうとしているのね」
僕も荒井の傷だらけの腕を見た。心の傷が腕に現れているようだ。僕はどうしても彼女の腕が触りたくなった。人の傷に触れたいと思うなんて、もしかすると僕は異常者なのかもしれない。
「荒井さんが死んだら私は悲しいな」と教師は言った。彼の言葉に同調するように、僕も首を縦に振った。
「ソクラテスを悲しませない為に生きるのも、親を泣かせない為に生きろってのも、とても無茶な相談よ。私は自分の事で精一杯なんだから、周りの事なんて考えられない」
皆が無言になった中、荒井は「でも、ありがとう」と小さく言った。荒井が何に対して感謝を述べているのかは判然としないし、感謝されるような事を誰かがしたとは思えない。
「私は馬鹿だからね」と教師は重い声で言った。「荒井さんに対して、どう言えば良いのかが上手く解らないのだよ。生きていれば良いことがあるなんて無責任な事も言えないし。でも、荒井さんの力には成りたいと本気で考えているよ」
荒井は表情を欠いたまま、自分の腕を眺めている。教師の言葉を聞いているのか聞いていないのかは解らないが、彼の暖かい言葉は彼女に何の表情も与えなかった。やがて荒井は「ソクラテスと由紀夫は、何の為に生きているの?」と振り絞るように言った。
何の為に生きているのかを考えながら、僕は教室の窓を眺めた。外は今にも雨を降らしそうで、グラウンドの方からは笛の鳴る音が聞こえる。暑いのに晴れていない状況で体育をしている有象無象の人に対して同情したが、晴れない心で止まない雨に病んでいる荒井に僕は同情できない。
彼女の腕に刻まれた傷は痛々しく同情も出来るが、心にある痛々しい傷には同情が出来ない。可哀想なのは荒井ではなくて、彼女を取り巻く環境だ。世間やら世界やらが可哀想なのだ。僕もその悲しい世界の住民だ。荒井と僕に必要なのは、太陽や傘になる存在なのかもしれない。僕は荒井と同じ世界に生きている。同情すべきは僕や荒井ではなくて、世界そのものだ。
僕は荒井に同情は出来ないが同調は出来る。
「私は小さな楽しみの為に生きている」と教師は話し始めた。「好きなテレビ番組や映画を見るだとか、美味しい物を食べるだとか、誰かと楽しい話をするだとか、大きいとは言えないけど小さな楽しみがあるから生きていけるんだ」
順番的に言えば次は僕が答える番だろうが、生きている意味を上手く説明できる気がしなかった。物事には意味や理由が存在する筈だ。僕が今こうして生きているのにも、理由や意味がある筈なのだ。
「多分」と僕は見切り発車で言葉を放った。喋りながら考えていれば何か思いつくことを期待して。「ここで直ぐに答えられない時点で、きっと僕には生きている意味や理由なんてないのかもしれない。もしくは何も考えずに生きてきたのかもしれない。きっと、僕は惰性で生きています。生きる理由がないように、これといって死ぬ理由もないのかもしれない。いや、やっぱし死ぬ理由はいっぱいある。朝起きるのはしんどいし、友達は未だに出来ないし、頭も悪すぎる。どうして僕は生きているのだろう?」
僕には芥川龍之介的なぼんやりとした不安もないし、それこそ三島由紀夫みたいに明確な不満もない。生きられるから生きているけど、死ねるのなら死んだっていい気がする。
「三島くんはきっと何かに期待しているのじゃあないかな?」と教師は言った。「自発的に何かをしようとしなくとも、自分以外の何かが動くのを待っているのかもしれない。自分に期待していなくとも、周りに期待しているのかもしれない。私は自己完結しているけれども、三島くんにはそれが出来ていないのだと思う」
「そうかもしれません」と僕は言った。人生を諦めるには若すぎるけど、自分が何者かに成れるなんて妄想出来るほど若くもない。自分自身に諦めがあっても、自分以外の何かに期待しているのだ。
「もしかすると、悲観的に捉えすぎているのかもしれない」と言う教師に向かって、僕は否定をした。確かに僕は何かに期待しているが、決して悲観的ではない。悲観的ではなくて現実的なのだ。そして、残念ながら現実は悲しい物だ。
「荒井は何の為に生きているのだと思う?」と僕は言って、自分から話を逸らせた。
「私は寝る為に起きているし、死ぬ為に生きている。寝られないから起きているし、死ねないから生きているの」
何かを言おうとした教師に向かって、荒井は微笑みながら右手を出して言葉を止めさせた。彼女に表情が戻って僕は安心した。
「そろそろ行くわ、ソクラテス」と荒井は言って席を立ったので、僕も慌てて椅子から腰を上げた。
「授業に戻るのかい?」
「あら、それは名案ね。どうしてそんな良い事を思い付きもしなかったのかしら」
教師に対して荒井は楽しそうに皮肉を言っていた。彼女らしくて思わず僕も笑ってしまう。辛気臭い話をするよりも、冗談を言っている彼女の方が美しい。
「スケートボードは返したって担任の先生には伝えておくから、ちゃんと授業に戻るんだよ。また一緒に話したいから、暇な時はいつでも私に教えてくれないかな?」
「気が向いたらね。でも、一体何を話すのよ?」
「次は命の重さについてでも話そうじゃないか?」
「じゃあ、私は命の軽さについてでも教えてあげるわ」と荒井は偉そうに言った。彼女は教師と対等でいたいのかもしれないし、ただ単に教師を馬鹿にしているだけなのかもしれない。
僕は命の重さと軽さについて考えてみた。命はとても重い気がするし、そうあって然るべきだとも思うが、実際の所はとても軽いだろう。今の平和な日本では一つ一つの命が重いとされているが、戦時下の時はそうでもなかった筈だ。命がいかに重いかを教育されてきた僕達の世代では、どんどん自殺者が増えている。毎年二万人くらいが自殺で死んでいるらしい。自殺なんて珍しいものではない。次に自殺するのは荒井かもしれないし、自分の親かもしれない。もしかすると僕自身かもしれない。国や時代によって命の重さは変わるし、個人の考え方によって命の価値も変わるのだ。
「三島くんは私に何を教えてくれるかな? きっと、私は荒井さんや三島くんから沢山学ぶ事があると思うのだよ。だから、また皆で話そうじゃないか?」
「そうですね」と僕は返した。「僕は同情と同調の違いとか、友達の作り方とか、下りエスカレーターの安全な乗り方とか、男と女の見分け方とかを教えますよ」