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日常煽動劇場  作者: 野神 真琴
由紀夫編 「第一章 死ぬほど死にたいから死ぬ気で死ぬ」
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日焼け止めのかをり


 女性教師を見かねたのか、僕達を見かねたのかは解らないが、かねてよりこちらを伺っていたもう一人の教師がやって来た。紺色のポロシャツがよく似合っている初老の男性教師だ。きっと毎日似たようなポロシャツを着ているから、こんなにも上手くポロシャツを着こなせるのだろう。偶数日はラルフローレンを着て、奇数日はラコステを着る。きっとこの教師なら、ラコステのワニにラルフローレンのジョッキーが跨ったポロシャツでも違和感なく着こなせるだろう。


 初老の教師は右手に荒井のスケートボードを持ち、余った左手を女性教師の肩に置いた。


「先生、少し落ち着いて」と初老の教師は言った。「彼女はそこの彼氏と一緒なら話をしてくれるんだよね?」


 初老の教師は優しさが滲み出るような声質で、顔からも優しさが溢れ出ている。しかし、この教師が言った「彼氏」という言葉が僕には引っ掛かった。教師は僕と荒井が交際しているという勘違いして、「彼氏」という言葉を使ったのか、三人称の代名詞として「彼氏」という言葉を使ったのかが気になる。


 僕は「彼氏じゃない」と言うべきなのかもしれないが、訂正したせいで自意識過剰の勘違い男と思われるのも癪だ。こんなややこしい言葉を作った徳川夢声と、こんなややこしい言葉を使った初老の教師を少しだけ恨んだ。荒井が「こんな奴、私の彼氏じゃないわ」と言うかとも思ったが、誰も「彼氏」という言葉を訂正しなかった。


 初老の教師は静かに「ちょっと、二人とも着いて来なさい」と僕達に言った。女性教師は何かを言い足りなそうに、口を閉じながら口角を動かしたが、言葉を発することはなかった。どうやらこの中で一番偉いのは初老の教師らしい。さっきまであんなに怒鳴っていた女性教師を、一瞬で黙らせる初老に教師は何者なのだろうか。


「あとは私に任せてくださいね」と初老の教師は言い残して、僕達を連れて職員室を出ようとした時、荒井は女性教師に向かって中指を立てたが、それに対しても女性教師は何も言わなかった。



 初老の教師に案内された部屋は、職員室からほど遠くない教室だった。準備室とだけ書かれた教室には、ゴミか教材か解らない物がゴミの様に詰め込まれている。教室に入ると初老の教師はスケートボードを無言で荒井に渡して、教室のカーテンと窓を開け始めた。余りに呆気なく返されたスケートボードを持って、荒井は少しだけ戸惑っているようだ。


「窓を開けるのを手伝ってくれるかい?」


 教師の言葉を無視する荒井に代わって、僕がその役目を請け負う事にした。窓から見えた灰色の空は、今にも雨を降らしそうで、どうやら機嫌が良くないらしい。外が晴れていれば今の状況も小説的だっただろうに、この天気ではあまりにも現実的だ。現実的な黴臭さと現実的な湿度の高さ、現実的な僕と現実的な教師、そして非現実的な荒井。これらが部屋の空気を重く暗くする。


 教師は僕に微笑みながら「ありがとう」と言い、何も手伝わない荒井に対しても愛想良く頷いた。彼が何に対して肯定して頷いているのかは解らないが、何に対しても否定していないのは確かだ。頭と物腰の柔らかそうな教師は、きっと生徒からは馬鹿にされているタイプだろう。頭が禿げていて太っているだけでも馬鹿にされるだろうに、性格までおっとりしていれば、確実に生徒からは舐められる。優しいだけの人間は舐められて利用される。この原理は大人でも子供でも適用されるだろうし、大人だろうと子供だろうと利用する人間が居るのだ。


「さぁ」と教師は改まって言った。「椅子に座って少しだけ話でもしよう」


 教師は中心を向き合うように椅子を三つ用意して、その内の一つに腰掛けた。荒井はスケートボードを片手に持ちながら、僕の方を見て肩をすくめた。彼女は今にも走って逃げ出しそうだ。


「由紀夫はどうするの?」と荒井はようやく口を開いた。荒井は僕に対して質問しているのだろうが、僕の本当の名前は三島でも鳩山でも無い。思想は右でも左でも無いし、上も下も名前が勘違いされている。


「立ち続けるのはしんどいかな」と僕は適当な事を言った。これからどうするのかを決めるのは荒井だ。僕は荒井に付き合うと決めている。


「彼氏君は三島由紀夫って名前なのかい?」と初老の教師は僕に尋ねた。僕は何も言わずに首を左右に振って、自分の立場と名前を否定した。


「まぁとりあえず、三島くんも荒井さんも座ってくれないかな? 私と話すのが嫌になったら、いつでもそのスケートボードを持って教室に戻ってくれれば良いからさ」


 初老の教師は「教室」という単語を強調して言った。ここで僕が教室へ戻る事を選択すれば、きっと荒井は家にでも帰ってしまうだろう。そうなれば仲良くなれない。僕は座って話をするのも悪くないと思っているが、荒井が何を考えているのか全く解らない。


 とりあえず僕が椅子に座ってみると。荒井は残った椅子を移動させてこちらの隣に座った。三人が向き合せになるように椅子は置かれていたので、荒井が椅子を移動させた事によってバランスが崩れた。


 教師は微笑みながら立ち上がり、椅子を移動させて僕達と向き合うように座り直す。荒井がどうしてそんな行動を取ったのかは解らないが、教師はそれに対して何も言わなかった。荒井がただ単に僕の隣に座りたかっただけだとは思えないので、彼女なりに何かの意味があるのだろう。もしかすると、立場の違いを明確させたかったのかもしれない。教師と生徒、あるいは敵と味方といった具合にだ。


 隣に座った荒井からは、やはり日焼け止めクリームのような香りが一瞬だけ漂ってきた。彼女の余に白すぎる肌のせいで、そういった幻臭を僕が感じ取ったのか、実際にその白皙を保つ為に日焼け止めを塗りすぎているのかは判然としない。


 僕は日焼け止めの香りが好きになりそうだ。


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