三島由紀夫
四時限目の終わるチャイムが鳴り響き、待ち望んだ昼食の時間がやってきた。クラスメイト達は三三五五集まって、談笑に花を咲かしながら昼食を頬張り始める。コミュニティが違うだけで、皆は同じような会話と同じような友情を交わして、安っぽい関係をどんどん深め始めているのだ。浅くて不快で薄くて熱い、そんな関係性を築く事こそ青春だ。
僕は喋りながら何かを食べるのが苦手だし、そもそも僕と喋ってくれる相手も居ないので、いつも通り一人でコンビニ弁当を食べ始め、周りよりも早く食べ終えた。喋らずに黙々と食べるから早いのか、よく噛めていないから早いのかは未だに解らない。誰かと話しながら物を食べた経験が乏しいせいだろう。
未だに友達が出来ない事に対して、僕は全く焦りを感じていない。中学生の時だって友達は出来なかったのに、高校に入って友達が出来るなんて希望的観測は抱いていないからだ。学校でも上手く馴染めないのだから、社会に出て馴染んでいけるとも思っていない。僕は既に何か大きなものを諦めているのだ。
僕にとっては長すぎる昼休みを少しでも有意義に過ごす為、スクールバックから一冊の文庫本を取り出した。文字を読み始めて直ぐに気付いたが、頭の中に本の内容が全く入ってきていない。物語を読んでいると言うよりは、ただ文章を追っているだけだ。
僕は下げていた顔を上げて、教室の全体を見回してみた。そこには、教室に備わるべきものが全て存在している。日焼けして黄色くなったカーテン、黒板の端に書かれたセンスのない落書き、誰かが凹ませたせいで開きにくくなった掃除用具入れ、戦闘機のような爆音を鳴らすが音と吸引力が比例していない黒板消しクリーナー、誰かが誰かを虐めている臭い。それら全てが溶け込むように馴染んでいる。馴染めていないのは僕と、もう一人だけだろう。僕じゃない方の馴染めていない人を横目で伺うと、彼女は全く動かずに眠りこけていた。
隣の席に座る荒井は授業中ずっと寝ていたし、三時間目と四時間目の十分間休憩の間も寝ていた。そして、昼休みの今も机に突っ伏したまま動かない。それをいい事に僕は時々彼女の艶やかな黒髪と傷だらけの腕を横目で観察した。
荒井は自分の腕を枕にして机に突っ伏し、真下に向けられた顔は丁度見えない様に髪で覆われている。彼女の美しい横顔は見る事は出来なかったが、傷だらけの醜い腕は少しだけ見観察できる。どうやら左腕の方が傷は酷いらしい。右手で刃物を持つから左腕の方が傷を付けやすいのか、もっと他に別の理由が在るのか、そもそもどうして自分の腕を傷付けるのか、僕には全く理解出来ない。美しい髪と汚い傷痕を交互に眺めて思ったのだが、きっとどちらかだけしか持っていなければ、僕はこんなにも荒井に対して興味を持たなかっただろう。きっとどちらかだけでは、彼女に対してここまで美しいとは思わなかった筈だ。
出来るだけ盗み見るようにして荒井を観察していると、よく目立つ同じクラスの女子生徒が教室の端で大きな声で笑った。箸が転げても笑う年頃なのだろうが、品性を感じさせない笑い方はカリブの海賊を彷彿とさせた。何がそんなに面白いのかと、女子生徒の方に顔を向けて確認したが、遠くからでは解らない。女子生徒は実際に箸を転がしている訳でも無さそうだし、ラム酒やフリントロックピストルを片手に持っている訳でもなかった。
何も手にしていなかった女子生徒の大きな笑い声を聞いて、隣の席で寝ている荒井はゆっくりと机から頭を上げた。彼女はミーアキャットの様に顔だけを動かして周りを確認した後、その姿を観察していた僕と目を合わせる。
荒井の大きくて真っ黒な一対の瞳は、僕を精神的に萎縮させた。僕は直ぐに彼女から目を逸らし、手にしていた本を再び読み始めた。目が合った時間は一秒にも満たない筈だが、その一瞬が頭に焼きついて離れない。同じ文章を何度読んでも理解出来ないし、僕の頭の中は既に荒井で一杯だ。
僕は本を読んでいるふりをしながら、目だけを隣にやって荒井が何をしているのか確認した。彼女は何故かずっと僕の方を見ている。何か用が在るのかもしれないと思い、僕は覚悟を決めて本を閉じ、荒井の方へとゆっくり顔を向けた。
「高く売れたかしら?」と荒井は首を傾げて言った。独り言や僕以外の誰かに対しての発言だとしたら、彼女は僕の目を真っ直ぐに見つめすぎていたし、僕に対しての質問にしては意味不明すぎる。
首を傾げたいのは僕の方だと一瞬思ったが、荒井の視線が顔から本へ移った時に、彼女が言いたい意味を理解する事が出来た。
「安っぽい話だよ」と僕は返事をした。僕が手にしている本の表紙には、赤い文字で『命売ります』とタイトルが書かれている。荒井はこの本について尋ねたのだろう。
「きっと、君が先生に喧嘩を売る話を書いた本の方が面白くなるだろう」
荒井は微笑みながら「あなた変わってるわね」と言った。君ほどではないと言いたかったが、僕は何も言わずに肩をすくめた。
「三島由紀夫が好きなの?」
「どちらかと言えば嫌いだ」
「じゃあ、どうして読んでいるの?」
「嫌いなのを再確認する為」
好きな本は好きな場所で読みたいし、嫌いな本は嫌いな場所で読むものだ。学校で読む本は三島由紀夫くらいが丁度いい。僕は三島由紀夫くらい学校が嫌いだし、この本と同じくらい授業はつまらない。
「ねぇ」と荒井は改まって言った。「ちょっと職員室に案内してくれないかしら?」
「別に良いけど」
「けど?」
黒板の上に設置された時計で時間を確認したが、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、あと二分くらいしか残っていない。僕は授業をちゃんと聞いて勉強するほど真面目ではないが、授業に遅刻すほど不真面目でもない。
「今すぐに行かないといけないのか?」
「いま、すぐに、いかないと、いけない」
荒井は全ての単語を強調して言った。職員室の場所だけ教えようかとも考えたが、彼女と仲良くなる為には一緒に行った方がいいだろう。たまには不真面目な事をするのも悪くない。
「じゃあ行こうか」と僕は覚悟を決めて言った。「いま、すぐに、いこう」