毒吐く
皆は黙々と問題を解き始めたが、三分もしない内に大森が「せんせー」と言って、紫色のシャープペンシルでプリントを何度か叩いた。
「全く解らないんだけど」
「何処ですか?」
三好は大森がシャープペンシルで叩いている箇所を見た。適当に問題を解いていた僕も、それとなく大森のプリントを見たが、名前と出席番号以外は何も書いていないようだ。
「何処っていうか、全部解らない」
「具体的に解らない場所があれば……」
「何が解らないのかも解らない。私が解らないのを解って」
三好は戸惑っていたが僕には大森の気持ちが痛いほど解った。勉強が出来ない奴は勉強が出来ない理由を知らないのだ。何かが解らない人間は往々にして、何が解らないのかも解らないものだ。
「とりあえず」と僕が言うと大森が鋭い視線を向けた。「全く解らないのなら仕方ないし、僕の答えを写す所から始めればいい。このプリントをやって、課題さえ提出しておけばいいんだろ?」
「それはいいね。私、答えを写すのなら得意だし」
「なら、特技を伸ばそう」
「いいこと言うじゃん、由紀夫。あんたとは仲良く出来そう」
大森は嬉しそうな顔を浮かべたが、三好は不満そうな顔を浮かべる。課題さえ提出すればいいという話なので、別に自力でやらなくてもいい筈だ。そもそも自力で出るのなら欠点なんてとらない。
「ですけど……」三好は遠慮がちに言う。「ちゃんとやらないと、また赤点をとって補習する羽目になりますよ。もう少しだけ考えてみましょう……」
僕は三好の言葉に否定も肯定もしなかったが、大森は「だる」とだけ返した。少しだけ険悪な雰囲気が漂っている。僕は今すぐにでも逃げ出したくなったが、荒井を残して何処かへ行く訳にもいかない。
「一問目はどうだ?」僕は改まって言った。「とりあえず数学の一問目は解るよな?」
一問目は数学の問題だ。数学といっても何かしらサインしたり、よく解らない不完全な数字を分解したり、何処かでルートを変更したりするような、難しい感じの問題では無い。マイナス八掛けるマイナス六は何かという、数学と形容するのは烏滸がましい問だ。中学一年生の最初にやるような簡単な問題を、どうして高校生にもなって再びやるのかという問題が浮上するような問題だ。解いても疑問が残るという部分があるのは、数学のパラドックスというやつなのかもしれない。
「どれ?」
「マイナス八掛けるマイナス六ってやつだ」
大森は眉間に皺を寄せながら、自信なげに「マイナス四十二?」と言った。どうやら本当に解らないらしい。僕は思わず頭を抱えたくなった。
「答えは四十八だ」
「意味わかんない」
「八掛ける六は四十八だろ?」
大森は「ハチロク……」と言って目線を上にやってから、静かに「ロクハチ……」と言って下を見る。確かに九九は六の段から難易度が爆上がりする。干支で言えば巳以降くらいの難しさだ。僕だって気を抜けば九九を忘れてしまいそうになるし、大森を馬鹿にすることなんて出来ない。
「四十八なのは解った」
「上出来だ」
「でも、プラスになるのはどうして?」
「マイナスとマイナスを掛けたらプラスになる」
「そんなの知らない」
もう駄目だろう。義務教育の敗北者が通う高校であると解ってはいたが、ここまで酷いとは思いもしなかった。続けて大森は「意味わからない」と言ってきたが、僕はそれに対する答えを持っていなかった。考えたこともない。マイナスとマイナスをかければプラスになるのは、スイッチを押せば機械が動くのと同じで、どうしてそうなるのかなんて考えた事もないし考えたくもない。そして、この先も考えるつもりはない。
「よくそんなので、高校に受かったわね」
黙々と課題をやっていた荒井が久しぶりに喋った。初対面の相手にそんな事を言って仕舞えば、大森でなくても不快になるだろう。僕は大森が怒る事を想像し、荒井が暴れる事を想定したが、そんな心配も杞憂に終わった。
「これが書けたから受かったのよ」大森はそう言って自分の名前が書いてある箇所をペンで突いた。「そんな事を言っているあんただって赤点をとった訳だし、私と大差ないでしょ?」
「私ならそこを空白にしても受かったでしょうね」
荒井は自分が書いているプリントを周りに見えるように動かした。一枚目のプリントは既に殆ど終わっている。驚いた事に僕がテストの時に解らなかった問題も解答しており、順番に問題を解いている具合から察するに、このまま全ての回答欄を埋められそうだ。
「凄いです」と三好は自分の紙と見比べながら言った。「今のところ全問正解していますよ。こんなにも早く解いていますし、テストだったら今の時点でも五十点は超えていますよ。どうして赤点なんて取ったのですか?」
荒井は「寝てたから」と簡潔に述べたが、どうして荒井がテストの時に点数が取れなかったのか、僕には少しだけ心当たりがあった。テスト当日の荒井は素面ではなかったのだ。
「あんたって本当に変わってるわね」
大森の何気ない一言を聞いた荒井は、微笑みながら「掛け算も出来ない奴に言われたくない」と険のある声で言った。やはりこの二人を合わせたら駄目なのだ。混ぜると危険なのではなくて、混ざらないから危険なのだ。この二人は有毒ガスよりもたちの悪い空気を作り出す。
「変わっている奴に変わっているって言って何が悪いの?」
「何も悪くないわ。似合わないピアスしているやつに、似合わないって言うのと同じでね」
「わざわざ教えてくれてありがとう。あんたの、その腕に付けているやつは似合っているわよ」
「あなたにも付けてあげるわ」
「パパが泣いているわよ?」
「泣いてくれるパパが居て羨ましいわ。あんたも掛け算が出来ないって知ったら、ママはどうなるのかしらね?」
「ママがなんだって?」と大森は更に怒る。ママという言葉が何かしらのトリガーになっているのは間違いないし、大森の拳銃が既にリロードされているのも間違いない。
大森は舌打ちをして睨みつけたが、それに対して荒井は微笑みを返した。三好は掌を向けながら「やめましょうよ……」と泣きそうな声で言った。荒井を睨みつける大森の眼光は、蛇ですら動けなくなりそうな鋭さだ。
大森は紫色のシャーペンを強く握り締めており、今にも荒井に突き刺しそうに思えた。僕が何かしらを言って場を和ませるべきなのだろうが、気の利いた一言が全く思いつかない。馬鹿な事を言うのも間違っている気がするし、賢い事はそもそも言えないので、空気を変える魔法の言葉を見つけなければならない。
「ほら」三好は自分の大き過ぎる胸の前で手を叩いた。「そんな事よりも、早くこの課題を終わらせてしまいましょう」
「間違いないな」
「ほら、由紀夫くんもそう言っていますし……」
「僕が言うのだから間違いない」
「さすがです」
「いやいや、クラス委員長も良い仕事をしてらっしゃる」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
僕と三好が軽くお辞儀をした。荒井は何事も無かったかのようにプリントを始めて、大森は握りしめていた紫色のシャーペンを本来の持ち方に変えた。どうやら二人とも僕と三好の声は全く聞こえていなかったらしい。
「これが終われば帰れるのよね?」
荒井の改まった質問に対して三好は二つ返事を返した。荒井の調子ならば答え合わせを入れたとしても、あと二十分もあれば終わらせてしまうだろうが、大森の調子だとサクラダファミリアと同じくらいの時間が掛かりそうだ。
「私帰るわ」と大森が突然言った。
「駄目ですよ。それだと留年しちゃいます……」
「別にいいし。というより学校をやめる」
大森はそう言って紫色のシャープペンを筆箱に戻した。三好は明らかに動揺しているが、大森は全く気にしていないようだ。僕は「補習さえやっておけば留年はしないだろ?」と三好に尋ねて助け舟を出した。
「そうらしいですけど……」
「じゃあ、これからはテストの度に補習を覚悟すればいい」
「そうです。大森さん。何も辞めることはないのですよ」
「安心して」と荒井がプリントをやりながら話す。「次からの補習は貴女一人だけになるでしょうから」
僕は机の下で誰からも見えないように、荒井の膝を目掛けて自分の膝を軽く当てた。いらない事を言って大森を刺激するなという意味でやったのだが、荒井は僕を見て「何よ?」と言って不満げな顔を浮かべる。
荒井がどうしてここまで交戦的なのか解らないし、何が気に食わなくて機嫌が悪いのかも理解できない。もしかすると生理なのかもしれない。女性は生理前に機嫌が悪くなると聞いたことがあるし、生理の後も機嫌が悪くなると聞いた。もちろん、生理中も機嫌が悪い筈だ。
大森が口を開くのを見計らってか、荒井は自分のプリントを差し出して黙らせた。困惑する大森に対して、荒井は「はい」とだけ言ってプリントを机に置いて、誰よりも早く二枚目のプリントに取り掛かり始めた。机に置かれた完成したプリントを三好が取ろうとしたが、それを荒井は無言で阻止した。
大森は高圧的で威圧的な荒井のコウイを前にして戸惑っていたが、三好が「そんなの駄目ですよ……」と小さく咎めた。
「まぁ、学校を辞めるよりかはマシだろう」
「ですけど、答えを写すのは……」
「ただ写すだけじゃない。結果的に写すことにはなるけど、考えながら写せば勉強になるだろう?」
三好は不服そうな顔をしていたが、これも仕方ない事だろう。三好はもっと不真面目になるべきだ。
「助かるわ」と大森は言った。「答えを見せてくれるのならば、これからの補習も荒井とやるの悪くないかも」
僕達は仕切り直してプリントを再開して、手を動かしながら口も動かした。適当な雑談はプリントよりも捗っていき、気が付けば荒井と大森の関係性も補修されていた。この二人は混ざりさえすれば仲良くなれるのだ。勿論、相変わらず二人は有毒ガスを発生させているが、それは互いを害さないガスだった。
のがまこっとです☺︎
にょ♪




